汐未亜の初恋
つまらない授業中、教卓の上を歩く小人を夢想した。小人は妖精じゃないから羽を持たない。飛べない小人は教卓から降りられない。
永遠に教卓の上に縛り付けられた小人は、でもその狭い世界をよぉく観察している。教卓の隅につもった薄い埃から最前列の生徒の落書き、どの教師の筆箱にコンドームが入ってるかなんてことも知ってるのだ。ちなみにそれは学校の倫理科目を担当している教頭先生なのである。たしかに倫理的なのかも?
小人はたまに私に語りかけてくる。小人は男の子のように見えるけれど、やっぱりどこぞの梨の妖精と同じで性別はないのかもしれない。それに、性別なんてどうでもいいのかもしれない。
でも、説明するのに簡単だから男の子って単語を使う。幼い顔の中に秘めた造形の凛々しさや成長したらもっと骨の角ばっていきそうなかんじ、これから筋肉になることを予想させる体つきや少し不器用そうな挙動、好奇心に満ち溢れたきらきらの丸い黒目。そんなものをひとつひとつこまかに説明しなくたって、よくいる可愛らしい5歳くらいの男の子みたいだって言えば、それだけでぼんやりなんとなく全部が伝わってくれる。
私に話しかけてくる小人に名前を聞いたら、ミニって答えた。でも本当は名前がない。ミニは、私より前にこの席に座っていた女の子が付けた名前なんだって。それより前には名前のない小人だったのだ。小人は、雰囲気はいかにもベタベタと整髪料をつけていそうなんだけれど実は物凄く綺麗好きな数学科の富田先生の、節張った手の置かれた教壇の角からわくわくと身を乗り出して、「名前をつけてよ」って私にお願いした。
ミニって名前、気に入ってないの?
聞くと、名前は何個あってもいいんだ、って小人は言った。「君と前の女の子は違うから、他の名前がいいんだ」って。
名前なんか1つじゃない。私は1つしかないよ。みあ、って名前。
みあ、それは違うよ。みあは、みい、とかあーちゃん、とかミトコンドリア、とか色んな名前で呼ばれてるじゃない。お母さんとか、友達とか、先生に。
でもそれは渾名だよ。ほんとの名前は一個だもの。みあはみあだよ。他の名前は全部嘘だよ。
じゃあ君は、いつもみんなに嘘の名前で呼ばれてるわけだね。
そ、そうよ。でもそれでいいの。だってそれが親愛の証なのだもの。フルネームで「うしおみあさん」って呼ぶのは初対面の先生だけよ。
……そっか。名前のない僕には、そのあだ名って概念はよく分からないなあ。でも、あだ名だと思って僕に名前をつけてくれればいいよ。だってあだ名は親愛の証なんだろう?君は僕にあだ名をつけるけど、僕はそれを本当の名前にするから。
小人の言っていることはなんだか小難しくてよく分からなかった。先生が前に書いている数字の方がまだ簡単な気がした。でも、先生より小人の方が可愛らしいから話していて楽しい。だからやっぱり授業より小人をとる。
──そっか。なんだかよくわからないけれど、君がそう言うなら、何か名前を考えるね。……そうだ、プチ、でどう?私の家で飼ってるインコもプチ。お母さんが名付けたから意味はよく知らないけれど、小さいくせに活発で黒い目をくりくりといつも回しているところが君にそっくりだよ。
なんだい、新しく考えてくれるんじゃないのかい。しかも前の名前と殆ど変わらないじゃないかい。そんなに僕は小さいのかい……。
そんな、ぴったりでステキな名前だと思って付けたのに酷いわ。名前、没収しちゃうから。
ああ待ってよ待って。僕はもうプチなんだ。今度から僕のことはプチって呼んでくれよ。大切にするからさ。
小人はたびたび私の窮地を救ってくれた。夜は8時に寝ているから授業中に眠くなんかならないけれど、それは反対につまらない授業を寝ることもできないで聞き続けるってことだ。机の上で遊んだり話したりしていたらすぐに怒られてしまうし、ちゃんと黒板の方を見てなきゃいけない。その点、小人は最高だった。なにせ、小人は教卓の上に立っているのだ。
しかし、最近の小人はなんだかおかしかった。今までのように先生や友達の秘密、今日起きたなんでもないような出来事を私に語りかけてはくれない。不機嫌そうにむっつり黙り込んでいる。私が話しかけても答えてくれないし、こちらを見もせずにどこかへ消えてしまう。先生の筆箱の中とか、教科書の膨らんだページの下とか、教卓の低い囲いの陰とかに。
そうしてある日、小人は完全に消えた。
小人のいなくなった教室は酷く寒々しく、広く感じられた。教室には暖房が効いていて、生温い風と同級生たちの無数の気配──全方位から聞こえる息遣いや衣擦れの音、冬用の服の内に篭りショートしたような自分の体温にくらくらした。風邪をひいた時みたいな感じで心の中の熱が逃せなくて、小さな刺激や些細な音にもなんだか無性にいらいらした。
「インフルエンザ予防だからねー寒いけど換気するからねーはいはい窓開けてー」
冬の真っ青な空から吹き込む凍るような風が一番心地よかった。暖かな教室はそのぬくさに気持ち悪くなり、小人のいない授業はなんともつまらなかった。授業中だけじゃなくて、休み時間に話す相手はもういなかった。
ミトコンドリアってあだ名は、リクちゃんが理科の授業中に付けたのだった。みではじまってあで終わるから、みあとおんなじだね!と言って、リクちゃんは私をミトコンドリアと呼んだ。私はミトコンドリアが嫌いじゃなかったけど、他のみんなはそれを聞いて笑った。今までそんなことはなかった。私は、教室で何かが変わりつつあるのを鋭敏に感知した。
それでも、状況を変えることはできなかった。今まで私のお友達だったゆみちゃんはもういなかった。アメリカに転校してしまったのだ。どうして?と聞いたら、「お父さんの仕事の都合。みあ、知ってる? こういうの、おとなのじじょう、って言うんだって」。
おとなのじじょうだから仕方ない、とそう言って、みあは何処かへ行ってしまったし、先生は私がクラスでひとりでぽつねんとしていても、ミトコンドリアと笑われても、一緒に笑うばかりで何もしなかった。
教卓の上の小人は、私がクラスの掃除を全部押し付けられてみんな帰ってしまったその日、いきなりまた私の前に姿を見せた。
どこ行ってたの?
ちょっとそこまで。
なにそれ、冗談にもなってないよ。ずっと寂しかったんだから。
僕の名前、覚えてる?
プチでしょ。もちろん。
そう、みあと話す時の僕はプチ。ねえ、みあ。みあは、君のクラスメイトたちと話すときは、じゃあミトコンドリアになっているのかな?
違うわよ。みあはみあだもの。本当の名前があるもの。前も言ったでしょ。
じゃあさ、みあ。それなら別にいいじゃないか。だってみあはみあなんだろ?名前のない僕と違ってみあはみあなんだ。ミトコンドリアじゃないや。
……………………、うん。
みあ、お願いがあるんだ。
何?
僕を教卓から解放してほしいんだ。
でも、そしたらまた何処かへ行ってしまうじゃない。てかどこ行ってたの?教卓出れないならどこにも行きようがないのに。
消えちゃってたんだ、この世界から。
どうして?
そんなの僕にもわからないよ。君に聞きたいくらいだ。
そっか。
とにかくお願いなんだ。僕は窓の外に行きたいんだ。
窓の外?
私は、教壇から机を、クラスを、先生を、私を眺めて最後に残る窓の外を見上げた。小人は言う。
僕の視点からだと、スカンと突き抜けるようなどこまでも果てしなく青い空がいつでもそこに広がっているんだ。僕はそこへ行きたいんだ。
私だって行きたいけど、あそこは高すぎて私たちには行けないよ。飛行機に乗らなきゃ。
じゃあ、せめてこの目で見てみたい。ああ、窓がなければ低い天井のこの世界に満足していられたのに!
窓、私もきらい。暑苦しくするだけで何にもいいことがないの。閉じていると、色んなものがこの教室にこもっていくみたい。
じゃあ…
そう言って小人は私の手の先を見た。
私は良いことを思いついてしまった。
そっか!
ガシャン!
ガシャン!
ガシャン!
私は手に持ったほうきで教室の窓を片っ端から割った。
ガシャン!
ガシャン!
ガシャン!
教室の淀みが全部流れていくみたいだった。
ガシャン!
ガシャン!
ガシャン!
窓にはそのうち、私だけじゃなくてクラスメイトの姿や先生の姿、親の姿までもが映り込んだ。私はそれを片っ端から割っていった。粉々に砕いていった。きらきら、きらきら、硝子の破片はとても綺麗に砕けて私と小人のダンスを祝福してくれた。
掃除をサボった私に罰はなかった。むしろクラス全員が怒られたのだった。それで私は、一応この世界にも正義っぽいものが存在していて、たまには私の味方になってくれるらしいと知った。
窓ガラスを弁償して私は転校した。アメリカに……ではなく、近場の他の学校になのだけれど。
小人は私がほうきでダンスをしている時に、夕暮れの空に向かって思い切り放り投げて以降、一度も出てはこない。あの日はもう放課後だったから夕焼け空だったのに、それに気付かず青空に憧れた小人を放り投げてしまうなんて、なんてバカなんだろうって私はくすりと笑う。それに窓を破るってのも、なかなかバカげてる。
でももう大丈夫。名前のない小人と違って私には私の名前があるのだ。
汐未亜は汐未亜を助けてくれた小人をこんな大人になってまでも思い出す。
汐未亜の初恋は、多分、小人だった。
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