嫌悪を感じた!攻撃しよう!〈人はなぜ他者を攻撃するのか?〉

初題は〈嫌韓、或いはそれに類似する「他者への嫌悪感」について思ったこと〉だったが内容的に改題した。

この文章は、「人々がなぜ特定の対象を嫌う人と嫌わない人にわかれるのか」について書いている。
より正確には、「人々はなぜ嫌悪した対象に暴力を振るう者と振るわない者にわかれるのか」について考察している。

少し長いが、読んでいただけたら嬉しい。


他者への嫌悪感というのはたぶん人類誕生から今日に至るまで解消されていない大難問だ。
そして大きな問題でありながら、些細な問題と感じる人もいるかもしれない。
例えば「私」が「Aさん」に嫌悪感を抱いていたとして、それは個人的に近付かなければ済む問題だからだ。

しかしこと集団対集団になると話が変わってくる。
集団は数の力を持っているので、強い。力は簡単に暴力になる。

一対一ならともかく、集団でなにかを嫌悪することには大きな恐怖感を覚える。もちろん、嫌悪されることにも。

さて、今回書こうと思う内容は、この「嫌悪」に関する意見が対立する理由についてだ。
嫌悪についての意見の違いとは、つまり「特定の対象を嫌悪するか / しないか分かれる」という意味だ。

いじめ、差別、戦争、そうした場面では常に対象を嫌悪し攻撃する多数派が存在してきた。
しかし、一方で「攻撃する側の集団に所属しながらも、それに反対する人たち」もそこに必ず存在してきたはずだ。

こうした1つの集団内での意見の分裂を、わたしは「嫌悪に関する意見の対立」と冒頭で呼び、表した。

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ずっと不思議だった。
なぜ、こうした対立は起こるのだろう?と。

人は簡単に他人を嫌悪する。
自分といろいろなことが違う人間なのだし、そもそも自分自身のことさえ嫌悪することがあるのだから、それ自体は当たり前で凄く自然なことだ。

だが、嫌悪するだけでなく、そこから「攻撃」してしまう。
それが凄く不思議だった。

イジメたくなるクラスメイトでも、自分に危害を加えてくる相手でも、キモい男でも、挙動不審な人間でも、認知症のおばあちゃんでも、駅で吐いてる女の人でも、電車で酔っ払ってるおじさんでも、皆裏にそれぞれの事情を抱えて「その状態」になっている。

事情というのは、それまで生きてきた環境だったり、受けてきた扱いだったり、見てきた人たちだったり、読んできた本だったりする。
「たまたま」その人の周りにあったもの・居た人と「たまたま」生まれついたその人の気質や体質などの環境が「その人のいま」を形作っている。

それなのになぜ、嫌悪を感じた相手を「攻撃」してしまうのだろう?
攻撃しても何も良いことがないし、相手が「そう」である根本的な原因が変わるわけでもない。

イジメたくなるクラスメイトは、「人に嫌なことをされた時にきちんと嫌!って思えない or 言えない or 上手く態度に出せない」だけかもしれない。

自分に危害を加えてくる相手には、誰にも知られず溜め込んでいる計り知れないストレスがあって本人もどう御すこともできないのかもしれない。(だからと言って危害を加えて言い訳ではないが。)

キモい男(?)は、相手の心中を察する練習ができる場面にちゃんと遭遇して来られなかっただけかもしれない。生理的にキモかったり臭かったりするなら、ちゃんとした掃除・洗濯の方法や日常生活の仕方を習ってこなかった、知らない、わからないだけかもしれない。

挙動不審な人間、認知症のおばあちゃん、その他さまざまなすべての人たちがそうであるに違いない。もうめんどくさいからひとつひとつは省略してしまうけれど……

しかし、なんにせよそれぞれののっぴきならずどうしようもなく自分で解決してこられなかった「事情」を考慮せず、感じた「嫌悪」の感情をそのまま「攻撃」に転化させるのは、余りにも早計で考慮の浅い、何も生み出さない結論ではないだろうか?

こうした理由から、私は「なにが真実かわからない状態で無闇に相手を嫌う」ことに多大なる嫌悪感がある。

そして、その嫌悪感を感じる理由と、なぜ彼らがそのように考え行動しているのかの理由をずっと不思議に思ってきた。

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「嫌悪感を感じた。攻撃しよう」。
無闇な攻撃が何も生まないとわかっているような、知識のあり頭も良いような人たちがこう思考していることが、正直世界中でままあるように感じる。
彼らがバカだから?
違うと思う。
そこには理由があるはずだ。そう考える何が彼らにとって合理的で正しい理由があるはずなのだ。
そうでなければ、こんなに1つの集団内でいつまでも嫌悪に対する意見の対立が起き続けるわけないと思うのだ。
こんなに、いつまでも人類が暴力的な行為をやめられないわけないと思うのだ。

嫌悪感とはなにか、それは凄く生理的な感情だ。
ゴミや糞尿などの汚物、虫、生き物の死骸などに抱くことがあり、またそのような際に嫌悪感という言葉を使う。
生理的嫌悪感、なんて言葉もある。
嫌悪と言わず「嫌い」と表してもわかりやすい。
人はどのようなものを嫌いになるかといったら、自分に危害を加えてくるものだ。
精神的、肉体的、経済的、性的、その他さまざまな危害の与え方がある。
「困っているのに見て見ぬ振りして助けない」こともその中に入る。
(気づいた人もいると思うけれど、そう、これは虐待の基準から引用している。)

自分に危害を加えてくるとは、イコール自身の生死に直接的に関わってくるフェイタルな問題になる。
生物としては自分の命が一番大事で、それをのこしていくために「他のあらゆる自分に危害を与えそうな可能性を潰す」ことは正直たいへんわかりやすい。

これから考えれば簡単だった。
「嫌悪感を感じた。攻撃しよう。」
となる人たちは、いろいろ考えてもそちらを選んでいるだけなのだ。

つまり、

嫌悪感を感じた

相手にも理由があるかも

一応理由聞いてみたけどよくわからないし理解もできないや

根本的理由の解決なんて知らねー、何が真実かもわかんないし、じゃあ自分の身を守っておくのが一番じゃね?

攻撃!攻撃!攻撃!ヘイト!

…………こういうことではないだろうか。

だから、いくら様々な労力を費やして「真実を知る努力をしようよ、簡単に嫌悪したりしないで」と呼びかけても無駄だったり、届かなかったりするのではないか。

彼らからしてみれば
「知るかバカ!何が本当かわかったもんじゃない!みんなみんな嘘つきだ!そんなことやってて自分が死んだらどうするんだよっ!」
と思うのではないか。

そして、それを呼びかける人々は
「自分の身を守ろうとしない人間=異質なもの」と見做され、「共同体から異質なものを排除しよう」という働きによってまた「嫌悪」の対象となるのではないか。

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1つの集団内で意見を統一したい時、意見がすれ違うその根本的な理由を無視して、或いは気付かずにアプローチし続けても効率が悪いだろう。

互いに嫌悪ではなく協力しあって生きていきたいという時、その呼びかけ方法もまだまだ熟考の余地があるのかもしれない。

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