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鳴かない蝉

 8月のある日、うだるような暑さの中、私は地域図書館の映画鑑賞会に足を運んだ。その会は図書館に所蔵されている映画のVHSの中から毎月1本ずつ無料上映するというもので、先着30人まで誰でも参加できる。私はこの映画鑑賞会が好きで、ほぼ毎月参加していた。小学校の教室くらいの部屋に、100インチほどのスクリーンと30脚の椅子が並べられていて、ちょうど学校で映像資料を見る感じに似ている。毎回上映前には司書さんが作品の概要や豆知識などを紹介してくれて、テーブルには上映作品に関連する本も並べられている。いつも参加者はだいたい20人ほどで、椅子が埋まっているのは見たことがなかった。
 この日の上映作品は『AKIRA』。外は絵に描いたような真夏日で、青空が広がり、日差しが強く照りつけ、蝉がうるさいほど鳴いていた。映画鑑賞会の部屋に入ると、いつもはお年寄りが多かったのだが、夏休みとあってか若い人や親子連れも来ていた。私は前から2番目の椅子に座った。いつものように司書さんが作品の概要を説明した後、上映が始まった。
 後半に差し掛かったところで、後ろの方から呻き声が聞こえた。このようなことは珍しくなく、独り言をつぶやくおじいさんや、上映中に「フォーカスが甘い」などと文句を付けるおばあさんがいたこともある。しかしこの時は、何かがいつもと違うと思った。止む気配のない呻き声が気になって後ろを見ると、私の椅子からは6mほど離れた1番後ろの椅子に座っている男性が、上半身をのけぞり頭を動かしながら呻いている。暗くてよく見えなかったが、体調が悪そうというわけでもなく、なんとなく健常者ではないことは感じ取れた。何人かが私と同じように声のする方向を振り返っていた。  

 しばらくすると椅子が動く音と話し声が聞こえ、私は再び後方を振り返った。呻き声を発する男性の1つ前の椅子に座っていた白いハチマキを巻いたおじさんが、立ち上がって何か言っている。
「すみません、この人は障害があるんです」
 隣の介護者らしき男性が対応する。
「障害があったら人に迷惑をかけてもいいのか」
 ハチマキのおじさんは毅然と言い放ち、椅子に座り直した。  

 その後もとめどなく呻き声は聞こえていた。少し気は散ったが、映画に全く集中できないというほどではなかった。上映が終わって司書さんが照明を付けると、ハチマキのおじさんと付き添いの男性が口論を始めた。部屋の壁際にはAKIRAの関連本が並べられており、私は適当に読みながら、2人の会話を聞いていた。
「聞いてください。この人は脳に障害があって」
「それはわかりますよ」
「だからまず聞いてください」
「はい」
「脳に障害があって、自分で制御できないから仕方ないんですよ」
「それはわかりました。私は、障害者だからといって差別するつもりはありません。だけど、こういうところに連れてきて人に迷惑をかけたらあなたの責任でしょう」
「でもあなた急に肩を叩きましたよね?」
「それは最初は障害者だって分からなかったから。それは謝ります」
「分からなかったとしても、普通に考えて知らない人の肩をいきなり叩きます?」
「普通に健常者の方が寝言を言ってるかと思って、うるさいから起こそうって意味で肩を叩いたの。でも確かにそれに関しては私が悪かったです。申し訳ありませんでした」
「はい。じゃあもうそれはいいです。でも障害があると言ったらあなたは障害者は出てけって言いましたよね?」
「障害者は出てけなんて言ってません。障害があるからといって人に迷惑をかけていいのかと言ったんです。静かな公共の場で大きな声を出しちゃいけないってわかるでしょう」
「声を出すのは生理現象で、健常者の方が笑ったり泣いたりするのと一緒なんです。」
「だからその音量が大きすぎるから、こういうところに連れてくるべきじゃないでしょうって言ってるんです」
「迷惑だと感じる音量に明確な基準があるわけではないですけど、気になる人もいるかもしれません。でも今まで何回も映画館にも行きましたが、大きな映画館でも注意されたことはないです。今回が初めてです」
「ああ、そうですか。みなさん寛容なんですね。私はそこまで寛容になれません」
 収拾がつかないまま時間だけが過ぎ、部屋からは参加者が1人、また1人と部屋を出て行く。私は壁を前にして彼らには背中を向けていたため、声を発していた男性の様子を見ることはできなかったが、一言も何も言わずおとなしく座っているようだった。
「そうですか? 私は別に気にならなかったですよ」
 突然、ある女性が割って入った。強気な口調だった。それでもハチマキのおじさんは態度を変えなかった。
「そうですか、寛容なんですね。私は気になりましたが」
 私は、どうだっただろうか。気にならなかったと言えば嘘になる。うるさいと思わなかったと言えば嘘になる。
「ちょっと待っててもいいですか? あのハチマキの人と一緒に帰るんで。友達なんです」
 ハチマキのおじさんの隣に座っていたおじさんが、司書さんと話していた。人の良さそうなおじさんは、屈託無く笑いながら言った。
「あの人癌でもうすぐ死んじゃうんです」
 その笑顔にその台詞は、あまりにも不釣り合いに思えた。そのあいだ私はずっと本のページをめくり続けていたが、一文字も頭に入ってはいなかった。文字に落としたはずの視線は本をすり抜けて、カーペットの床を彷徨っていた。

 やがてハチマキのおじさんは諦めたようで、友人と一緒にとぼとぼと帰っていった。それまで何も言わなかった司書さんが、介護者の男性に言った。
「もし次回以降会ってしまった場合は、席をなるべく離すなどの配慮をします。我々としてはそのくらいしかできません。来るなとは言いませんので」
「そうですか」
 介護者の男性は苦笑いを浮かべ、障害者の男性を連れて帰っていった。私は最後に部屋を出た。  

 図書館を出ると、来た時と同じように空は青く、日差しが強く照りつけていた。ただ、短い命を燃やすような蝉の声だけが、さっきよりも激しく降りかかってくる気がした。

✳︎

 その時は何が正しいのかわからず傍観してしまったが、今思えば、公立図書館はすべての人に開かれた学びの場所であり、ましてや無料の映画鑑賞会で少し声を出す人がいたくらいで怒る方がおかしい。あの時せめて、司書さんにそう伝えられていたらよかったと反省している。

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