うっかりバズった練乳男
半年ほど前、穂村弘『もしもし、運命の人ですか。』(角川文庫、2017年)に書かれている、苺狩りデートでマイ練乳を持ってきた彼氏にがっかりしたという女性のエピソードに関するツイートをしたところ、うっかりバズってしまい、物議を醸し、Togetterにまでまとめられてしまった。
セルフリプで引用元を示してはいるものの、該当箇所は3ページに渡るため一部を引用したのみであとは私が勝手に要約したツイートを元に議論が巻き起こってしまった。よってここで改めて、当該箇所を引用しつつ詳しく説明させていただく。
とある大学生カップルの初デート。このエピソードは、著者の友人の女性の「十数年前」の話である。本書の単行本が刊行されたのは2007年(連載の書籍化なので初出はさらにもう少し前だと思われる)なので、80年代後半から90年代半ばあたりの苺狩りだと考えられる。
「ビニールハウスの入り口でお金を払うと、小さな容器に入ったコンデンスミルクを渡され」、苺狩りを楽しむ二人だったが、途中でコンデンスミルクがなくなってしまう。そこで彼女は初めて、「『苺食べ放題、時間無制限、コンデンス・ミルクサービス(但しお代わりなし)』最後に付け加えられたさりげない注意書き」に気がつく。
この事態について「絶体絶命」とまで書かれており、別に練乳なんてかけなくても苺って美味しいじゃん? と私は少し疑問に思った。案の定、当該ツイートがバズった際に同様の疑問が多く投げかけられたが、同時に「昔の苺は酸っぱかった」という解説もいくつか散見されたため、おそらくそういうことなのだろう。
この「絶体絶命」の直後が、問題のマイ練乳である。
この話を聞いた穂村氏は「初デートで彼、ビッグポイントだね」と絶賛するが、彼女は否定する。
穂村氏は「これは若くて、しかも特別にピュアな女性ならではの感覚ではないだろうか。このケースでは一般的には喜ぶ人のほうが多いと思う」と解釈しているが、私は彼が練乳を取り出した描写を読んだ時点で、これは嫌だなと思ってしまった。もしも私がこの女性の立場だったら、確実に引いている。
ただし、彼女とは異なる理由のような気がする。これを読んだ時、かつてジロウ(中井次郎)さんの質問箱に投稿された「花火大会デートで男性が飲み物のたくさん入ったクーラーボックスを用意してくれて萎えた」というエピソードを思い出した。私はこれにも共感してしまう。練乳しかりクーラーボックスしかり、用意周到すぎると萎えるのだ。
なぜなのか。この時ツイートに寄せられた様々な意見も踏まえていろいろ言語化を試みたものの、やはり未だにどれもしっくり来ないような気がする。
練乳の女性にしても、「うまく云えないんだけど」と前置きしているあたり、十数年経っても的確に言語化できていないという自覚があるのかもしれない。
さて、こういうツイートがバズると、男/女という一つの人格が存在すると思い込んでいる人たちの間で論争が巻き起こりがちである。例えば「デートプラン立てないと怒るくせに、用意周到すぎてもダメとか何様だよ」というような旨の言及が散見されたが、穂村氏の友人の女性も私も、デートプランを立ててほしいなどとは一言も言っていない。
むしろ私は、「相手の計画性の低さに腹を立てないところが良いところ」とまで言われたことのある女である。これはかつて、付き合っていない人とドライブデートに行った時のこと。
午前中に家の最寄り駅まで迎えに来てもらい、自販機で飲み物を買ってくれると言うのでミネラルウォーターを買ってもらった。コーヒーをこぼしたというシミの目立つ助手席のシートに座ると、ドリンクホルダーに彼が直前に買っていたらしいアップルジュースのペットボトルが置いてあるのが目に入った。
「行きたいとこある?」車を走らせて彼は尋ねた。彼のほうから目的地を指定した上で積極的に誘ってきたので、ある程度その土地に詳しかったり行きたいお店などがあったりするのかと私は思っていたが、よくよく聞くと、行ったこともなく何があるかもよく知らない、漠然としたイメージだけで行ってみたいと思った、何も調べていないから具体的なスポットがあるわけではない、とのことだった。そこから車で二時間ほどかかる場所だったので、もしお互い何も計画がなかったとしても余裕はあるとみて私も下調べなどは一切していなかった。あれだけ行きたがっていた場所のことを何も知らないとは変わった人だなと思いつつ、私がGoogleとインスタで適当に検索して飲食店や公園など三つほど提案してみると彼も乗り気だったので、それらを巡っているうちに夕方になった。
そろそろ帰ろうか、と駐車場に向かう途中、「飲み物いる?」と聞かれ、行きに買った水がまだ残っていたのでいらないと私は答え、彼は自販機でジュースを買った。そして車に乗り込んだ、その時。私の目に飛び込んできたのは、後部座席に無造作に転がる、半分ほどジュースが残されたペットボトルだった。
午前中に買ったジュースを飲み切らずに、新たに別のジュースを買っている。
なんか嫌だな。
彼は新しいジュースをホルダーに入れて、エンジンをかける。
なんで飲み切らなかったんだろう。古いジュースは帰って捨てるのかな。後で飲むのかな。どっちにしろなんか嫌だな。
帰りの二時間、音楽や文学の話をしながらも私はずっと後部座席のジュースが気がかりだった。信号待ちで彼は時々新しいジュースに手を伸ばす。古いジュースはなかったことにされている。私のことをどう思っているかよりも、古いジュースのことをどう思っているかのほうがずっと気になる。でもそれをそのまま口にしたら、説教くさくなってしまう。
結局ジュースについては一言も触れないまま、私の自宅の最寄り駅に着いた。それぞれ半分ほど残った二本のジュースを乗せて彼は走り去っていった。
後日、このデートの話をした友人に言われたのが、「計画性の低さに腹を立てないところが終電さんの良いところ」だった。
ここで言う計画性の低さとはジュースのことではなく、彼が何も調べていなかったことである。確かにその点について私は特に気にしていなかった。前述の通り向こうから誘ってきたのに検索一つして来なかったことを多少疑問には思ったが、どちらかというと緻密なプランを立てて来られるほうが苦手だし、行き当たりばったりなのも嫌いではない。それに運転免許を持っていない上に走行中に地図を見ると酔う体質の私は助手席に座りながら助手らしい役目を何一つ担えないという負い目もあったし、何より計画性が低いのはお互い様だった。むしろ、私が適当に提案した場所すべてに乗ってくれたのが、こちらから提案さえすればどこにでも一緒に行ってくれる未来が想像できて好印象ですらあった。
私にとってはそんなことよりも、ジュースが問題だった。このジュース事件を何人かに話したことがあるが、共感してくれる人もいれば、「なんで?」という人もいる。
なんで? その問いに私は明確に答えられたことがない。衛生上良くないとか、食べ物や飲み物を大事にしなさそうな印象を受けるとか、子供っぽいとか、説明しようと思えばある程度説明できる。それらは嘘ではない。が、もっと直感レベルの嫌悪感がその瞬間には生じていたような気がするのだ。
練乳ツイートがバズってからというもの、私は練乳とジュースをセットで思い出すようになってしまった。どれだけ考えても、やはり未だにどちらの理由もよくわからないのだが、だからこそ、思ったことがある。恋愛において、「この人なんか好きだな」と思うのに理由は要らないように、「この人なんか違うな」と思うのにも理由は要らないのかもしれない、と。
物書きとしては、その「なんか」を的確に言語化すべきなのかもしれない。しかし、恋愛という土俵におけるプレーヤーとしては、なんか嫌、なんか違う、なんか好き、なんか良いな、という直感こそを重視すべきであり、理由は何でもいいのではないか。経験上、理由のよくわからない直感的な「なんか好きだな」という好感が消えることも、「なんか嫌だな」という違和感が覆ることも、ほとんどなかった気がする。
ドライブデートの彼に対しての私の気持ちは「良いなと思う」という段階にはあったから車に乗ったわけだが、「なんか好きだな」とは思っていなかった。真面目そう、誠実そう、知的、趣味が合う、面白い、都内に実家がある……私が彼のことを良いなと思っているところは全て簡単に説明がつき、かつ一般的にも恋人として好ましいとされがちな性質ばかりだった。そうした相手は交換可能であり上位互換が存在するが、「なんかこの人好きだな」と思ったら、その人は唯一無二の存在となるのだと思う。
そもそもジュース以前に「なんか違う気がする」という漠然とした違和感を抱いていたこともあり、彼とはそれが最後になったのだった。
意外と長くなってしまった。最後に『もしもし、運命の人ですか。』の、なんか良いな、なんか嫌だな、というエピソードを引用して終わりにしたい。
本書はもはや私の恋愛のバイブルと言っていい。このような恋愛の機微についてあれこれ考えを巡らせるのが好きな人におすすめの一冊である。というか、これを最後まで読んでくれた人は、多分好きだと思います。
(おまけ↑映画館でカップルが「隣同士の席に座りたいので譲ってもらえませんか」と頼まれた、みたいなツイートが話題になっていた時にしたツイート)
解散!
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