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《光の授受》の挿話─ナゴール的な、もしくは非ナゴール的な─ウルトラマン第一話の形態学[6](完)

《光の授受》の挿話
─ナゴール的な、もしくは非ナゴール的な─
ウルトラマン第一話の形態学[6](完)


本稿の最後に、『ウルトラマンコスモス』第1話「光との再会」の春野ムサシについて見ていく。

真の勇者の勇気

光のウイルス(カオスヘッダー)に犯されたリドリアスをムサシは追い、輝石を振る音によってなだめて誘導、元のおとなしい怪獣に戻そうとする。素手ではないが、乗るのは戦闘機ではない。つまり「非武装」という点では第2期の3人(郷、北斗、東)に近いといえる。が、ムサシには初めから「リドリアスを元の島へと返してやる」という明確な目的があった。しかも、リドリアスの好む音を生む「輝石」を持つのはムサシだけであり、その目的にも行動にも十分な必然性が備わっている。この点が第2期の3人とは大きく違っている。そして、彼は何と、リドリアスの非カオス化という自らの目的をいったんは成就するのである。第1話において、《光の授受》を待たずに、自らの犠牲を払うことなどもなく、主人公の素の人間としての行動が一時的にではあれこのような成果を生むというのは、驚くべきことである。なおかつ、その束の間の達成を翻したのが、ありがちな「主人公自身のミス」などではなく、防衛軍の攻撃という、ムサシ自身とは無関係の外力であった。「ムサシはあくまで非戦闘態勢」「攻撃は別の者が行う」というこの筋立てには、「(ムサシがやがて属すことになる)EYES自体は武装戦闘が第一義ではない民間組織である」というフィクションがよく活きている。そして、再カオス化したリドリアスを止めるために思わず正面に回ってしまい攻撃を受け危機に陥る…というムサシの行動・状況は、ナゴールの6人やダイゴに比べれば、成り行きの説明がつきやすい。このように、ムサシは、ハヤタや雅夢とは違い《光の授受》の前段でやはり「勇気」を発動させてはいるのだが、それでいてその勇気/勇敢さは、通過儀礼の意味合いを持つ「ナゴールの6人」の《無謀な勇気》とは一線を画したものとなっている。すなわちここに、

(1) 怪獣を倒さないことを主旨とし、それは

(2) これまでのどのウルトラマンとも異なる

というウルトラマンコスモスの特異な本質と意義が、物語の端緒からみごとに表出されているのである。特に比較論である本稿としては、(1) だけでなく (2) までもが、「ナゴールの6人」とムサシにおける「勇気」の質的相違として表出されることを強調しておきたい。

さらに、「リドリアスをなだめるための輝石は、ムサシが幼少時にウルトラマンコスモスからもらったもの」という回想が差し込まれることにも、重要な示唆がある。挿話名にも「光との再会」とある通り、この「輝石授与の回想」は、「ムサシがウルトラマンになるとすれば、昔遭遇したあの、怪獣を倒さないウルトラマンコスモスになる」ということを示す。と同時に、そのことが「大人になる(=通過儀礼を経る)よりもずっと以前から半ば決定されていた」ということをも含意する、と本稿の観点からは強調しておきたい。すなわち、ムサシは広義にはすでに幼少時に《光の授受》を終えていた。だから通過儀礼は不要なのであり、それゆえにそういう彼の行動は、《無謀な勇気》の典型とは異なった「理に適った勇気」に支えられていたのだといえる。歴代不同型主人公の中で唯一、ムサシだけが、まさに「コスモス」の名の通り、第1話からよい意味で「秩序」立った行動をとれていたのである。

このように、ムサシは、初めから「真の勇者」であったのだ。

《非戦の理想》とウルトラマン

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「ぼくは怪獣にも人権というか、いや、獣権というか、そんなものがあると思うな」
「だから、ぼくは何度も言ってます。ウルトラマンは怪獣の殺し屋ではない」
「殺すつもりはないんです」
──金城哲夫──
 上原正三『金城哲夫 ウルトラマン島唄』(筑摩書房、一九九九年、一六一頁)

「怪獣を倒さない/怪獣と闘わない」という《非戦の理想》は、ウルトラマン作品世界における重要なフィクション因子の1つである。しかしそのことは元来一種の「逆説」の形をとって示されるのが普通であった。すなわち、作品世界内において《非戦の理想》はその多くが「成され難く/成され得ず」「未実現のままに終わる」ものとして描かれ、そのことを以ってこそそれが問題提起となって響いていく…という形をとったのである。ゴモラ、ジャミラ、ギエロン星獣、ノンマルト、メイツ星人、オビコ…等々の物語は、やはり「彼らが倒されたからこそ、彼らの声が痛切に伝わる物語になりえている」といえる。また、ヒドラ、ウー、メフィラス星人、アンノン…等の「倒されなかった」「争いを止めた」物語においても、初めから《非戦の理想》の目的が叶ってハッピーエンド…という筋ではなく、中断による「終わらない」不定感/浮遊感が深い余韻を残す、というものであった。

そうであったはずの《非戦の理想》を、物語の内側で純粋に実現させ(ようとす)るのが『ウルトラマンコスモス』である。その世界観は、これまでの主要な世界観とは明らかに対立/隔絶している。『コスモス』における、この“《非戦の理想》のフィクションの配置変え”が全体を通じてどの程度成功しているかということの検討は、本稿の手には大きく余る。が、少なくとも第1話において、《非戦の理想》と、同じく重要なフィクション因子である「不同型における《光の授受》」とが相互に有機的・必然的な関連を伴った濃密な活性フィクションとなっていることは十分に確認できたといえる。また、そのような結実は、第2期の不同型3作でも平成三部作でもない、《非戦の理想》を作品世界内に実現化した『ウルトラマンコスモス』においてこそ可能であったのである。

結び

以上、本稿では、ウルトラマン9作品の第1話における主人公の軌跡を辿り、シリーズにわたって共通な《不同型》《無謀な勇気》《光の授受》などのフィクション概念の、内容・構造の両面における自己活性化の様相を見るために、9人の《不同型》主人公の《光の授受》を「ナゴールの6人」と「非ナゴールの3人」の2つに分けて論じてきた。「ナゴールの6人」の行動/行為の通過儀礼的な《無謀な勇気》、そして「無謀」でない「非ナゴールの3人」の三者三様ぶり。いずれもが、ウルトラマン作品世界にふさわしい際立った特徴を備えていたといってよい。特に本稿の「第1話の形態学」の観点からは、ウルトラマン作品世界としては「定形外」の一つといえる『ウルトラマンコスモス』の第1話が、その「作品世界内における《非戦の理想》の実現」という「非定形性」にふさわしい優れた活性フィクションを帯びている点について、最後に改めて強調しておこうと思う。

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