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《ハカイダーの悲劇》続論 (1)

ハカイダー表象論 ─ 《ハカイダーの悲劇》の解釈、またそれを通じて考えうること


はじめに

拙稿「ハカイダーの悲劇」は、『人造人間キカイダー』の中のハカイダー登場編を鑑賞する際に表出する活性フィクションの総体/全貌を捉えようとしたものでした。あくまで「本編の映像と台詞の視聴によって受け取れる」ものに限定付けて論じています。「鑑賞」という語にも、そういう(「本編の映像と台詞の視聴によって」という)意味を込めているつもりです。本来、そこまで/そこのみが私の仕事だ考えていますが、この続論(1) では、その自己限定から少しはみ出す形で、ハカイダー存在の表象論、あるいは《ハカイダーの悲劇》の一つの解釈例を示してみておこうと思います。

1. ハカイダーとは誰か 《ハカイダーの悲劇》とは何か

《ハカイダーの悲劇》とは以下のようなものでした。

キカイダーよりも強く、キカイダーを倒せる唯一の存在であったはずのハカイダーは、キカイダーに、勝てば存在意義を喪失し、負ければ自分が倒れる、そのどちらかでしかない存在でした。そして実際はというと、真偽不明のまま、白骨ムササビの凶牙に倒れました。いずれにおいても彼には死しかなかったといえます。自分の存在意義自体が自分の存在を必然的に否定してしまうという、根本的矛盾。ここに《ハカイダーの悲劇》があります。まさに、「ハカイダーの歌」に歌われる通り、ハカイダー自身にとっては、「キカイダーを破壊」するという「俺の使命」こそがそのまま「俺の宿命」であったということになります。

拙稿「ハカイダーの悲劇」より

『人造人間キカイダー』という、このいってみれば荒唐無稽な特撮ヒーローものの世界の、ごく一片に表れたに過ぎない《ハカイダーの悲劇》ですが、これを少し深く読むと、

敵対心、対抗心、アンチ、勝負、競争、成功、天邪鬼、反骨精神、学歴、格差、アメリカンドリーム…等々の物事のすべてが、関わり方によっては《ハカイダーの悲劇》に陥る危険を内包する

ことを暗示しているとも受け取れます。キカイダーという存在のアンチとして、キカイダーに敵対/対抗し、力を競い、勝負を仕掛け、キカイダーを打ち倒すために生まれてきたハカイダー。威勢良くは見えても、彼はキカイダーという存在に依存した、他者軸によって成り立つ存在だといえます。

「ありのままの自分でいい」というフレーズがよく聞かれます。その「ありのまま」とはどういう「まま」なのでしょうか。…ついつい人と比べ、優越感/劣等感を抱き、競い、対抗心を燃やし、勝てば喜び、負ければ落ち込み、得点が平均より高ければ安堵し、偏差値が前回よりも下がって不安になり…という「自分」がいたとします。この「自分」は、《ハカイダーの悲劇》に半ば陥りつつあることは明白ですが、はたしてこのような自分は「ありのまま(の自分)」なのでしょうか。おそらく通常の用法ではそうではなく、人と比べず、素の自分を認めよう、という肯定的な文脈で出されるのがこの「ありのまま」という言葉です。しかし、逆に「いや、(先に羅列したような)醜く小心なその自分をそのまま認めればよい」という話にもなってきそうです。「開き直り」という言葉もあります。そうして自己肯定感の着地点を求めて彷徨うことは、「自分のことを自分で考えている」ようでいながら、「 」内の後者の「自分」は、「他者軸」の視点を埋め込んだ自分、すなわち、「 」内の前者の「自分」が他人から見てどう思われているかを気にする自分であるといえそうです。「ありのままでいい」という言葉にはこうした曖昧さ─モヤつきがついて回るように思います。…と、今のところ私にもここまでのことしか言えずにおります。その先、ではどうするか、どうするのがよいかという部分についても何か言えればいいのですが…うーん、曖昧にモヤついております。

2. 《ハカイダーの悲劇》の解釈を通じて考えうること

1.で書いた

敵対心、対抗心、アンチ、勝負、競争、成功、天邪鬼、反骨精神、学歴、格差、アメリカンドリーム…等々の物事のすべてが、関わり方によっては《ハカイダーの悲劇》に陥る危険を内包する

という指摘において、こちらとしては、「関わり方によっては」「陥る危険を内包する」という副詞句と述語部分にこそ重点を置いて書いているつもりです。ところがそこを汲むことなく、この指摘に登場する名詞のみに拘泥すれば、すなわち「敵対心 etc.=ハカイダーの悲劇」という(「=(equal)」あるいは「≒(nearly equal)」で結ぶ)第2文型に短絡すれば、そこから、この指摘自体への敵対心、対抗心、勝負、アンチ、天邪鬼、反骨精神…を生み育て、これらの名詞(の表す物事)の「肯定的側面」のようなものに(無理に)光を当て、「これらも大事だ」とか「人間とはそういうものだ」とか、あるいは逆方向に「アンチではなくライバルの精神ならよい」とか、そういう具合に循環させ、それを以て初めの指摘を換骨奪胎しようとする言論言説も成り立っていってしまいます。つまりそれは、こちらの初めの指摘(の「副詞句と述語部分」)を読まずに「否定的に決めつけている」と決めつけ、それをただダシにした上で「そうした決めつけはよくない」として反転否定し、それで乗り越えたかのように装う点で、まことにずるい言論言説ともいえますし、もとより的外れの読解によるために主張の内容は空虚になりましょう。まさに、メタ的に、「関わり方によっては《ハカイダーの悲劇》に陥る」格好の例となるわけです。

やや(かなり)分かりにくいですね。書いている自分でも、分かりにくい(苦笑)。……二つのことを述べているつもりです。

一つには──(「向上心」本来の語義から外れた)現代の “貧しい「向上心」” は、向上したいものごとの内容自体に直接は関わらない意識へ、すなわち、敵対心、対抗心、アンチ、勝負、競争、成功…等々の意識へと拡散しがちになり、そこに《ハカイダーの悲劇》の萌芽が宿り、誰しもがその主人公になりえる、また、その裏返しとして、「ありのままでいい」といいつつこれもその本来の語義から外れ、錯綜した、捻れた自己肯定感が言われ出す、ということ。

もう一つは──「ものの見方を変えてみる」「視点をずらしてみる」という作業はときに重要で意義も出てきましょうが、その際、「変える」「ずらす」という行為(動詞)を忘れ,敵対心、対抗心、勝負に拘泥し、今の例でいえば前段落の言説主張(「一つには──…ということ。」)それ自体のアンチ・反対物…にただ置き換えていくだけになると、往々にしてその言説(「一つには──…ということ。」)によって抽出したはずの論点をぼやけさせてしまうことになります。あるいは、そもそも初めからそうした一種の ぼやかし・無効化 を意図して「初めに提示された 言説・主張 自体をその アンチや反対物 …にただただ置き換えていく」といったことが、しばしば行われている、ということ。

それぞれに、「敵対心、対抗心、アンチ、勝負、競争、成功…等々」が、メタ的・重層的に関わっていることが見て取れます。

むすび と「続論(2) 」の予告

初めにお断りしたように、この続論(1)ではハカイダーの表象と《ハカイダーの悲劇》の解釈の例を「自己限定から少しはみ出す形で」「示してみ」たに過ぎません。ですから「けっきょくこれ(続論(1))が言いたかったのか…」というのは誤解です。鑑賞論・活性フィクション論を主軸としたい私としては、あくまで先行の「ハカイダーの悲劇(本論・補論)」の方に力点を置いているつもりです。表象論・解釈論といえるような私の記事は今のところ、本稿および「「狙われた街」と現代」の2つに留まります。

また、続論(2) も予定しています。そちらでは「ハカイダーの悲劇性に対して、では、主人公の ジロー>キカイダー はどうであったのか」という点について述べようと考えております。

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