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ハカイダーの悲劇

『人造人間キカイダー』『シン・仮面ライダー』についてのネタバレを含みます。ご了承下さい。


まえがき

「『シン・仮面ライダー』─「オマージュのコラージュ」の愉しみ─」で、ハチオーグの最期のシーンはハカイダーの最期のシーンのオマージュであると書きました。そこで、オマージュ対象であるハカイダーについてもこの機会に投稿しておこうと思います。本稿は、30代の時に書き上げ、その数年後に旧拙ブログで発表した文章が元になっています。その全体を“ですます調”に変更した上、かなり手を入れた一方で、随所のハカイダーへの思い入れの綴り方(ややウザめの熱さ?)はほぼそのままです。今の自分としては気恥ずかしさ半分…ですが、その“若書き”の雰囲気をあえて残しておくことにしました。

本論

「ヒーローと悪」を論じる上で、忘れることができないのがハカイダーの存在です。『人造人間キカイダー』(注1)に登場する究極の悪玉ヒーロー・ハカイダー。彼は悪の組織「ダーク」の首領プロフェッサー・ギルの申し子であり、その立場は明確に悪の側にあります。

注1…ここでは専ら、漫画原作等ではなく1972年制作の特撮番組『人造人間キカイダー』について論じます。

ハカイダーはその姿形からして主人公のジロー>キカイダーを凌ぐ魅力を放ちます。全身黒一色、脳が透けて見えるトランスルーセントの頭、ブラックジャックの手術痕にも似た、頬を斜に走る黄色い稲妻、胸板と肩幅を強調する半月型の鎧、腰にではなく脚に備え付けられた銃…、この造型美・意匠美。等身大ロボット系の造型・意匠として、このハカイダーを凌ぐキャラクターは未だに出ていません。

ハカイダーの優位性はそれだけに留まりません。ハカイダーが古今の悪のキャラクターの中で一際異彩を放つのは、彼が光明寺博士の脳を自らの頭脳とするサイボーグだからです。光明寺博士はジロー>キカイダーの生みの親であり、当然、正義の側/人間の側の登場人物ですが、彼の悪の戦士としての卓越した運動能力はその光明寺の脳の知能との連動によりもたらされる、ということになっています。他のダークロボットや ジロー>キカイダー 自身は完全な人造人間=ロボットであるのに対し、ハカイダーは唯一人間の脳を持ちます。つまりハカイダーの方が人間に近い存在、“人間的な存在”なのです。

さらに、飯塚昭三氏の「声の凄み」が、ハカイダーの存在形成の大きな部分を占めています。例えば、キカイダーとの格闘時にキカイダーへ連続技をかけていくシーンのワクワク感は、地獄五段返しギロチン落とし と技の名を連呼するハカイダー自身の声の迫力を伴ってこそのものです。ハカイダーの飯塚性、飯塚のハカイダー性。もとより『人造人間キカイダー』では、プロフェッサー・ギルの安藤三男性、すなわち「悪の側の年長─年輪の皺の深み」が半端ないのですが、飯塚ハカイダーの声も、ジロー、ミツコ、マサルらと比べ明らかな年長─年輪を感じさせると同時に、やがてその怒りがギルに向けられるとき、当然の腕力の強さだけに留まらず、声のドスの利き方によってギルとの“悪の両雄の対等性”を表出していくことになるわけです。

加えて、挿入歌「ハカイダーの歌」のすごさ。中学時代、夕方の再放送が始まったとき、何より「あのハカイダーの歌をまた聴ける!」と喜んだものです。渡辺宙明全作品中の屈指の名曲。このハカイダーを歌う曲として、どこもかしこも「こうでしかない」という驚きの完成度。逆に、この曲あってこそハカイダーの存在の意味が定まり、その存在感が揺るぎないものになった…ともいえます。──近日公開予定の拙稿「渡辺宙明の音楽」も合わせてご一読頂ければ幸いです。──

このように、主人公を食ってしまうほど姿も中身も断然魅力的な彼の《人間性》とそれゆえの《悲劇性》を、見ていくことにしましょう。

ハカイダーはその知能ゆえに、「完全な」悪、少なくともギルの臨むような単なる悪の戦士に甘んじることはありません。彼は例えば、仲間の、ギルの命令で動くダークロボット・ヒトデムラサキの邪魔をして「俺はただ、人質作戦などという汚い手が嫌いなだけだ」と捨て台詞を吐きます。あるいは、アカ地雷ガマをハカイダーショットの射撃一発で倒し、「…俺は、仲間をやってしまった…」とうなだれます。このような公正さやモラルは、「悪魔回路」を体内に備える悪の戦士というクールなイメージとは明らかに逆行し、自己矛盾を引き起こしています。すなわち、いかにも“人間的”なのです。

ハカイダーのアイデンティティーは、その名の通り「キカイダーの破壊」に集約されます。そのことは挿入歌「ハカイダーの歌」の歌詞にもストレートに表れます。彼は「キカイダーを倒す者」「唯一倒せる者」として存在するのです。

ところが、ハカイダーは自らの存在意義を賭けてキカイダーに勝負を挑むも、ジロー>キカイダーの方は「やめろ…おまえとは、戦いたくない」「ハカイダー、死ぬなよ…」などと常に格闘には尻込みする態度を見せます。「光明寺博士の脳を傷付けることはできない」からです。二人の敵対関係に横たわるこのような一筋縄で行かない一種の“もどかしさ”によって、ハカイダーの自己矛盾性がますます強調され表出してくるようにも受け取れます。

そうするうちに、キカイダーは、アカ地雷ガマの地雷を受けて空中分解して(いったん)死んでしまいます。ハカイダーは

───
「キカイダーはこの世で俺のただ一人の強敵だった。キカイダーとの勝負だけが俺の生き甲斐だった」
「そのキカイダーを倒したアカ地雷ガマ、俺はおまえと勝負しなければならん」
───

と言ってアカ地雷ガマに決闘を申し入れ、倒します(先述のシーン)。しかし、彼の喪失感は深く、

───
「俺は、俺は何だ!俺は何のために生まれてきた?アカ地雷ガマは倒した。キカイダーは死んだ。これから、俺は何のために生きていくんだ」
「俺の目的は何だ。こんな姿で、俺はどうやって生きていくんだ」
「…憎い!俺を造り出したプロフェッサー・ギルが憎い」
───

などと叫んで、空しく暴れ出すのです。

その後、ジロー>キカイダーはミツコの手で「修理」され「生き返り」、キカイダーと再び勝負できるようになったハカイダーは生気を取り戻します。が、その矢先、ギルによって送られたハカイダー・キラー=白骨ムササビの強牙に襲われます。ほどなく、ハカイダーはジローに発見され、肩を抱き起こされて、こう言い残して息絶えます。

───
「奴は強い…、俺よりも強い…どうせなら、キカイダー、俺はおまえに、おまえにやられたかったぜ…」
───

こうして、キカイダーよりも強く、キカイダーを倒せる唯一の存在であったはずのハカイダーは、自身のアイデンティティーの確かさを証明できないままに終わりました。けれども、もし証明できたとすれば、すなわちキカイダーを倒せたとしたら、もはやキカイダー不在の世界で彼はどう過ごしていくのでしょうか。彼は、勝てば存在意義を喪失し、負ければ自分が倒れる、そのどちらかでしかない存在でした。そして実際はというと、真偽不明のまま、やはり倒れました。いずれにおいても彼には死しかなかったといえます。自分の存在意義自体が自分の存在を必然的に否定してしまうという、根本的矛盾。ここに《ハカイダーの悲劇》があります。まさに、「ハカイダーの歌」に歌われる通り、ハカイダー自身にとっては、「キカイダーを破壊」するという「俺の使命」こそがそのまま「俺の宿命」であったということになります。

ハカイダーの最期の言葉、それは、自分の存在の支えであった宿敵・ジロー>キカイダーに向かって、「俺を倒した奴を、おまえは倒せるか?」と問い、「俺が倒されたかったおまえにこそ、奴を倒してほしい」と願った、凝縮された言葉だったに違いありません。

以上のように、ハカイダーにおいては、ネーミング、姿─意匠、声、挿入歌、所作、アクション、ストーリー展開…のどこを取っても一級であるのみならず、それらがこのように濃密な活性フィクションを伴って連動しえています。主人公と“等身─対等”(注2)の名悪役は数々思い浮かべど、ここまでの内包性豊かな存在はハカイダーが唯一ではないかと考えます。

注2…大ボスとは違うという意味です。『快傑ライオン丸』のタイガー・ジョーや『ウルトラマンティガ』のイーヴィル・ティガなど。より広くは、『ルパン三世』の銭形警部や『名探偵コナン』の怪盗キッドなども含めていいでしょうか。

補論

ダークロボット最後の影絵

ハカイダーが白骨ムササビに襲撃されるシーン、それは薄暗い洞窟の中で、洞窟の側面に映る二体のシルエットだけで表現される、非常に短くあっけないシーンでした。ハカイダー死すという驚きの急展開に実にふさわしい名演出…と今なら言えますが、放映当時の私は子ども心に、このシーンから目を逸らしてしまいました。贔屓の全勝力士に土が付いたときのようで、「ハカイダーが…まさか…何で?…」と、目と心のやり場を失い、しばらく嫌な気分のまま落ち着かなかった記憶があります。大人になって、上述したような意味も込めてそのシーンを受け止めることができるようになって、改めてハカイダーに思いを寄せることができるようになったのでした。

サブローはハカイダーか

ハカイダーは、サブローという人間の姿を持ち、「ジローの弟」ということになっています。実は上記本論でハカイダーの台詞として引用したものの中にはサブローの台詞も混じっていますが、あえて区別しませんでした。というのも、ハカイダーを ジロー>キカイダー や 本郷>ライダー と同様の「包含型」と呼ぶには、サブローというキャラクターは不明確に過ぎ、存在感が希薄に思えます。真山譲次のサブロー>ハカイダー性…は私にはあまり見出せず…。これはサブローとハカイダーの《声の“不一致”》も大きな原因となっています。ダン=セブンの《声の一致》については既にみました。そして、仮面ライダーの声は本郷猛の声、キカイダーの声はジローの声、ウルトラマンメビウスの声はヒビノミライの声です。《声の一致》によって、姿形の異なる存在の同一性の根拠を説明無しで簡潔に与えることが可能となります。といって飯塚ハカイダーの声は上述のように必然的な魅力を放ち…。この《声の“不一致”》というところも、ハカイダーの存在の矛盾の表出だともいえそうです。…ふと今、「サブロー>ハカイダーが坂口祐三郎であったら…」という想像が膨らみました。坂口氏の演じたゴールドウルフは、ハカイダーに次ぐインパクトを残した、異彩を放つダークロボットでした。だからこその坂口氏の起用だったのでしょうが、それが一話で終わるのはいかにも勿体無かったなぁと。

ハカイダーの弱点─批評のバランス感覚への試金石

ハカイダーには「血液交換の時間」という活動のタイムリミットがあります。これはおそらく、ハカイダーが悪のヒーローとして完全無欠に過ぎるのを避けるため/ハカイダーを引っ込ませ物語を主流の展開に戻すために設けられた弱点でしょうが、最高の“悪の戦士”にはおよそ似つかわしくない、不活性な“ご都合”設定のように私には思えます。人間の脳を備えているとはいえ、別様のフィクション設定はいくらでも可能だろうと…。かといって、例えば「しまった!血液交換の時間だ」とハカイダーが点滅する頭を押さえるシーンを、ただ茶化して下げる/嗤うだけで一蹴するような仕方にも、もちろん同調することはできません。そういう仕方はフィクションへの非本質的で“不摂生な”批判だと私は考えます。逆に「いや、これこそ必然的な設定だ、活性フィクションだ」という真っ当な異論があればぜひ伺いたいところでもあります。が、こちらも度が過ぎると、作品の物語や映像を絶対視しその根拠付けをとにかく何か与えて説明できれば是とするような窮屈さへ向かいます。「シン・ウルトラマン─オマージュの宝箱」でも書きましたが、「根拠」より「様態」を重視するのが一つの基本的態度になるかと。プラス評価であれマイナス評価であれ、“摂生”に気を払った批評をしたいものです。

服部半平讃

「俺は何のために生きていくんだ」などとハカイダーが叫ぶ場面での対話相手は、愛車スバル360を駆る探偵・服部半平=愛称ハンペンです。彼はハカイダーに

「そんな、急に哲学的なこと言われたってですねぇ…」
「お間違いなくハカイダーさん。我輩、服部半平、プロフェッサーギルではございませんぞ!」

などと返します。ハカイダーの重要な台詞を含むシーンでありながら、それへのマジな感情移入を自ら照れくさがるかのようなメタシナリオ。服部半平のユーモアは『人造人間キカイダー』全編で随所に現れ、いい具合のガス抜きとして機能し、子ども現役の頃から楽しく見ていた記憶があります。『キカイダー』の脇役について誰しもが語りたくなるのはおそらく、ハカイダー、ゴールドウルフ、そして服部半平ではないでしょうか。服部半平の うえだ峻 性。うえだ峻の服部半平性。彼が『相棒』(Season 8 第18話)にゲスト出演したとき、笑いと涙を誘う道化的な面を伴うキャラクターで、服部半平のユーモアを彷彿とさせ、すごく嬉しかったです。うえだ さんが演じたのは何も服部半平だけじゃないことはもちろんわかってはいても、自分と同じ『キカイダー』世代が服部半平のイメージで当て書きしたに違いない、とかってに思ったものです。


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