見出し画像

《光の授受》の挿話─ナゴール的な、もしくは非ナゴール的な─ウルトラマン第一話の形態学[4]


前回の最後に、ナゴールの6人の中でのダイゴの異質性についてその端緒を述べた。今回はそれに続いて、《無謀な勇気》系不同型主人公の「ナゴール性の度合い」および「ナゴール性以外の特徴」についても触れておくことにする。

《光の授与》の資格─理由

彼らの《光の授受》は「《無謀な勇気》から《光の授与》へ」という「儀礼」的過程であった。が、その様相には微妙な差異も認められる。

ウルトラマンエース』における北斗と南、『ウルトラマンタロウ』における東の2組の《光の授受》については、ハヤタや郷に向かってはウルトラマン自身によってあれほど丁寧に説明された《光の授与資格》の理由について、少なくとも第1話の該当各場面では何の言明もないままである。つまり、郷の場合よりも「《勇気》から《光》へ」の「儀礼化」がより進んでいるといえる。

《光の授受》場面のこうした質的変化は、『エース』『タロウ』が、毎年のシリーズ化を進めるにあたり逐一説明的に描写するよりも簡潔を旨とした、シリーズ化に伴いジュブナイル性をよりシンプルに押し出していこうとする側面があった、などから起きたのではないかとも想像される。

それに対し、“満を持して”登場した平成以降の《無謀な勇気》系3作品では、光の授与の資格についての幾分丁寧な描写/台詞/ナレーションがそれぞれに見られる。このことはシリーズ全体の進化/深化とみていいだろう。

ウルトラマンティガ』第1話における古代人ユザレのメッセージの全体を引用しよう。

「私は地球星警備団の団長ユザレ。このタイムカプセルが地球に到着したということは、地球に大異変が相次いで起きます。その兆しとして、大地を揺るがす怪獣ゴルザと、空を切り裂く怪獣メルバが復活します。大異変から地球を守れるのはティガの巨人だけです。かつて地球の守り神だった巨人は、戦いのために用いた体をティガのピラミッドに隠すと、本来の姿である光となって星雲へ帰って行きました。我が末裔たちよ、巨人を蘇らせて、ゴルザとメルバを倒すのです。巨人を蘇らせる方法はただ一つ……ダイゴが光となることです。」
──「……」の後ろの部分は、巨人復活・怪獣退治等のすべてが終わった後、無人の作戦室およびガッツウィング機内のダイゴの心の中だけに届く。──

また、《光の授受》の直後のナレーションは以下の通りである。

「ガッツウィングが墜落しようとする危機一髪の瞬間、ダイゴ隊員は光となって巨人の体内に溢れた。ダイゴ隊員の生命を得ることで巨人は長き眠りから目覚めたのである。」

以上のことから、および《光の授受》までのダイゴの一連の様子やユザレに名を呼ばれ導かれる描写からも、「光を継ぐもの」がダイゴであることは、彼が《無謀な勇気》を起こすよりも前から、最も短く見積もってもダイゴがこの世に生を受けた時点で、もう決定されていたということになろうか。巨人の「本来の姿である光」は、ダイゴの勇気をみて授与資格を認めたのではなく、「彼の命と引き換えに石像を蘇らせる」きっかけとして《無謀な勇気》による墜落爆発を待っていたのだ、ともいえる。

もちろん、他の5作品『帰ってきた』『エース』『タロウ』『ダイナ』『マックス』についても「《無謀な勇気》による行動の以前から主人公に予め《光の授与資格》があったのかどうか」は、慎重にいえば不明のままである。だが少なくとも「光の授与資格者が予め決まっている」ということが上述のような形で明示されるのは『ウルトラマンティガ』のみなのである。それでも、ダイゴが「光となって巨人の体内に溢れ」るためには彼に臨死体験が必要だったとすれば、その意味では彼の《光の授受》もやはりナゴール“的”だとはいえ、本稿[5]以降で言及する「非ナゴール系」不同型主人公たちとは一線を画すことに変わりはないのである。

ウルトラマンダイナ』第1話では、光の授受に関するウルトラマンからの説明はやはり無いものの、第2話「新たなる光(後編)」で、アスカ自身の方からのみ《光の授受》《光の授与資格》について

「いったい、俺はどうなっちまったんだ。」
「俺が、光の巨人? そんなバカな…冗談だろ!」

「何で俺が…何で俺なんだ。」
「何のために闘う?俺は人類の救世主になったつもりもなるつもりもないんだ。」

「頼む、力をくれ。俺は行かなきゃならない。もう理由なんかどうでもいい。俺にみんなを守る力がほんとうにあるなら、俺は闘う!」

「もう迷いはしない。父さんがいつか見た光を俺は自分の体の中に、しっかりと感じていた。」

等々言及するシーンがある。いずれも、答えない“光”=ウルトラマンに向けた問いに自答していくモノローグである。この「ウルトラマンは語らない」という点は平成三部作の特徴であるが、ダイナにおける《光の迎え》という抽象性は、石像のティガや地球の核に姿を見せたガイアに比べても最も徹底している。すなわち、同体となる前のウルトラマン自体ははっきりとした姿を見せず、「光」「力」といった抽象的概念的なものに留まっている、ということであり、アスカの台詞からも「アスカ=ウルトラマン」という含意が受け取れ、「同一型」とは異なる意味において彼らの間に等号が成り立つようなあり方が表出される。


ウルトラマンマックス』ではどうか。こちらは、たいへんわかりやすい。

マックス:カイト,カイト,……
カイト:ここはどこだ。誰だ,俺を呼ぶのは…。
マックス:私は,君たちがM78星雲と呼ぶ別の銀河系からやってきた。
カイト:俺を救ってくれたのか。
マックス:この星の衛星軌道から君たちの文明を監視するうちに,私は自らを犠牲に闘う君の勇気に,共振する個性を感じた。君と一心同体になることで,私は一定の時間ならばこの星で活動することができる。君の力を貸してほしい。君一人の力では尊い命を守りきれなくなったとき,それを使うといい。
 
「自らを犠牲に闘う君の勇気に,共振する個性を感じた」と、このようにウルトラマンの口から明確に《光の授与資格》の理由が述べられるスタイルに回帰している。マックスはカイトの行動を観察して自らの光を授与する相手を彼に決めた。その決定は、ダッシュバードに乗り込み怪獣へと向かった《無謀な勇気》の行動だけを見て為されたとは限らないが、それが最も重要な象徴としての意味を持つことには違いない。

具体的にどこへの回帰になっているかといえば、ウルトラマンマックスによるこの言明場面は、変身アイテムを渡して使用を促す流れは『ウルトラマン』における、《光の授与資格》の説明については『帰ってきたウルトラマン』における、それぞれの《光の授受》をミックスさせたものだということは明白である。先行の「平成三部作」「コスモス」「ネクサス」がそれぞれに過去のシリーズとは別の世界を築いてきたのに対し、『マックス』『メビウス』の2作では、“先祖返り”し、第1期・第2期(そして『ウルトラマン80』)の世界とリンクしていく。それら“先祖”を知る視聴者なら、たとえ何も事前情報を得ずに『マックス』第1話を見たとしても、これだけ明示的な《光の授受》の場面に来れば、その意図を一気に確実に読み取ることになろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?