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情熱はおばあちゃんの形をしている

急啓

 食べ物の好き嫌いで、おばあちゃんを悲しませるべきではない。

 私は、給仕された食べ物はどんなに不味くても頑張って食べてしまう。食べ物を残すのは私のポリシーに反するし、あまりにも忍びない。なぜなら、モノには「魂」が宿っているから。

  今の一文で身構えた方々、私はこの文を通して啓発セミナーや宗教勧誘をしたいわけでは決してないので安心して欲しい。「魂」と言ったが、それはこうも言い換えることができる。それは人の「情熱」だ。

 「米の一粒は農家の汗の一滴である」という言葉を聞いたことがある。モノには必ず生産者が居て、その人たちの日々の労苦により消費者たる我々は安心して消費活動を行うことができる。そして、それは食べ物に限った話ではない。スマホも布団もネックレスも、全て人が情熱をかけて作ったモノである。

 私は美味しくない食べ物を食べた時、または作った時、厨房の奥にいる料理人や生産地にいる農家に想いを馳せてしまう。彼らは人生を賭けて技術を培い、汗水を垂らし、プロとして日夜仕事をしている。そこに「情熱」がないはずがない。そこで私が想いを馳せるのは、決まってひとりのおばあちゃんなのである。

 おばあちゃんといっても、それは自分の祖母のことでも、知り合いの高齢農業従事者のことでも、小学3年生の頃の担任の白井先生のことでもない。そのおばあちゃんとは私の精神に内在する偶像としてのおばあちゃんであり、「生産者」という概念の具現化のために私が作り出した形而上のおばあちゃんである。

 おばあちゃんはすごく優しい。学食のカレーを作ってくれたのも、ファミチキを揚げてくれたのも、私が失敗した回鍋肉に使ったピーマンを栽培してくれたのも、脳内のイメージであるおばあちゃんだ。私が飯を残そうとすると、おばあちゃんは悲しそうな顔をする。おばあちゃんが悲しむということは、生産者・料理人の一括りの概念が私の中で悲しんでいるということなのだ。その悲しみと一時の味覚を天秤にかけて、後者に傾くような天秤を私は持ち合わせていない。

 モノには「魂」が宿っている。魂とはつまり人が仕事にかける情熱だ。それを否定することはできないし、行動から敬意を示していきたい。たとえそれが人に伝わっていなかったとしても、その気概を持つということが肝要だと、そう思える。

 「情熱」はおばあちゃんの形をしている。

草々不一

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