いま31歳の僕の人生が始まったのは、24歳からだった。

これはもう書くしかないやろってタグがあったので、書きます。


人付き合いが嫌いな両親の元に産まれ、「人と関わるな」「友達を作るな」と小言を言われて育った。
学校の先生とか初対面の人に「です・ます」の敬語を使って話している所を親に見られ、こっぴどく叱られた事もある。
父親曰く「敬語を使うという事は、人に自分の悪い面を隠して、良いところだけを見せようとする意地汚い気持ちの表れ。良い面も悪い面も堂々と晒せへんなら、その関係は無い方がいい。年の離れた兄弟とか自分の親にはタメ口で話すのに、なんでそれ以外の奴に対して敬語を使うんや?そもそも人の子として産まれた以上は、親の言うことを最優先にして生きるのが一生の義務。他人は他人事にしか物を言わん。相手にする必要は無い。」との事。

小学校1〜2年くらいまでは夜7時には布団に入らされた。
学校から帰ってきて、夕飯を食べて、お風呂に入ったらもう寝なくてはいけない。
観たいテレビは録画して、休日にまとめて観ていた。
寝室の電気を点けていると、ドアの隙間から光が漏れる。
すると「起きて遊んでいる」と思われ、家のブレーカーを落とされた事もある。
電気のスイッチを押して消されるのではなく、ブレーカーを落とされる。
僕一人が原因で家中の電気が使えなくなる状態にされてしまう、という事。
だから、迂闊に本や漫画を読むこともできない。
その頃から、夜は暗い部屋で眠たくなるまでずっとラジオを聴いて過ごした。
小学校3〜4年あたりから夜8時、
5〜6年頃から夜9時に寝るように躾られた。

小学校高学年のある日、友達の家で夕飯をご馳走になった。
メニューはカレーだった。
丸皿に白いご飯とルーが半分ずつに分けて盛り付けられていて、とても感動したのを今でも覚えている。
我が家のカレーの盛り付けは丸皿一面にご飯を載せ、その上からご飯を覆うようにしてルーを掛けるのが当たり前だった。
ご飯とルーが半分ずつに分かれている盛り付けは、テレビでしか見たことがなかった。
後日、自分の家の夕飯がカレーになった日に、友達の家で食べさせてもらったような綺麗な盛り付けを試したくて、家族全員分のカレーを盛り付けた。
(小学校に入学して間もない頃から、夕飯の準備や片付けを手伝っていた)
友達の家で見たような盛り付けが、自分の手で出来た事が嬉しかった。
カレーの載った丸皿が目の前に置かれた途端、父親が言った。
「なんでわざわざ半分ずつ分けて載せるんや!いちいち混ぜやなあかんで面倒臭い!ルーが上に載っとる方がスプーンで掬っただけでご飯とルーが混ざるから食べやすいのに!」
そして、一口も手をつけずに食卓からリビングに戻って行ってしまった。
我が家では、食べ物や料理を「盛り付ける」という習慣がほとんど無かった。
理由は「食べたら一緒」。
「見た目に拘る暇があったら、出来たての熱々のうちに早く食べたい。盛り付けに拘った所で味に影響は無い。そんなもんは気持ちの問題。人に自分を良く見せようとするな捻くれ者!」
カレーの件の後、そう言って父親に叱りつけられた事を今でも覚えている。

家庭内の常識は、家庭外では非常識だった。
家庭外の常識は、家庭内では非常識だった。

だから、学校で僕のふとした行動や発言でその場に違和感が生まれたり、笑われたりする事が多かった。
それらが原因でいじめも受けた。
親に話すときまって「お前の思い込みや!」の一言で片付けられた。

中学3年の頃の高校受験シーズン、推薦面接で志望校を受けた。
合否は後日、学校で担任から聞かされる事になっていた。
ある日、学校が終わって家に帰ると、父親から「高校受かっとったぞ!」といきなり言われた。
なぜ父親から合否を知らされるのかを不思議に思い、信じられなかった。
父親は教員や教育関係の仕事に就いているわけではなく、僕の通う中学の教員や志望校の関係者に知り合いがいる訳でも無かった。
一連の事情はこうだった。
僕が学校で授業を受けている時間に、担任から僕の家に電話があったらしい。
父親がその電話に出た。
(当日、父親はそれまで勤めていた仕事を辞め、調理師や乗船などの資格や免許の勉強をしていたので、頻繁に家に居た)
内容は、僕の受験が合格していた、というもの。
本来は期末テストが終わってから本人に知らせる段取りだったが、何より保護者が心配するといけないから本人には内緒で先に伝えたかった、という事だった。
なぜ本人に知らせるのを先送りにするかと言うと、期末テスト前の段階で合否を知らせてしまうと、「合格した」という事に安心しきってしまい、それ以降の生活態度や素行が悪くなったりする恐れがあり、期末テストの成績が大幅に落ちてしまう事があるため、という理由だった。
この連絡に、父親がブチ切れた。
「お前は教師として人を見るのが仕事のはずや!うちの息子が合否知らされたくらいで素行悪くするわけが無い!そんなもんはお前の勝手な基準や!息子が帰ったら真っ先に本人に合否を伝える!お前には教師の資格がない!教員免許燃やして今すぐ辞職しろ!」
そう言って電話を切ったそうだ。
志望校に合格出来た事は確かに嬉しかったが、父親から合否を聞かされた事は何一つ嬉しくはなかった。


高校時代は割と頻繁に恋愛をしたが、その全てが全く甘酸っぱさの無い経験ばかりだった。
名前くらいしか知らず、ロクに話したことも無い人や好きでもない人と無理やり付き合わされ、その人に対して「好き」と頻繁に言って伝えるよう共通の友人知人複数名から強要された事が5〜6回ある。
お互いに好き同士で付き合い始めた人との関係を、第三者によって一方的に破局させられたことが2〜3回。
そのせいで、未だに恋愛をする事がトラウマになってしまっている。
最後に恋人が居たのは18歳の時だ。



同時期、高校に入学して間もない頃。
クラスメイト(仮に「K」と表記)から全く興味の無い界隈に加担させられた。
Kとは音楽の話で意気投合し、知り合って間もない頃は普通に「友達」だと思っていた。
Kは同人ゲームサークルの代表をしていた。
同人ゲームサークル……深夜アニメや美少女ゲームなど、所謂「二次元」と称されるエンタメコンテンツの二次創作や、オリジナルのゲームなんかを作る集団らしい。
そういった界隈に疎かった僕は、何が何やらさっぱり訳が分からなかった。
同人、コミケ、深夜アニメ、ギャルゲーという言葉を、僕はその当時に初めて知った。
「ヘルプでいいから手を貸してほしい」と言われ、一時的な参加だと思い、自主制作ゲームの曲作りを手伝う事になった。

……結果から言うと、その「ヘルプ」がきっかけで8年8ヶ月間もの長期に渡って、同人サークルでの活動を続ける事になってしまった。

Kから「ヘルプ」として曲作りの依頼を受け、一通り形になった曲を提出した。
「メタル調のアップテンポなテーマ曲」というオーダーを受けて作った曲だった。
4分前後の曲の最初の2秒くらいを聴いただけで「音楽理論に対する冒涜」という理由でボツになった。

そこから始まったKからのダメ出しは、あまりに指摘が細かった。
K自身も曲作りができる人だから、もう自分で作ったほうが早いんじゃないかと思えるほどだった。
「拘り」というより「偏見や固定観念」だった。


音楽用語が分からない方もいるかと思うので、敢えて極端な例を挙げる。
例えば僕が料理を作って人に振舞ったとする。
この場合、不満点を挙げるとしたら……
・苦手な具材が入っている
・味が濃い/薄い/辛い/酸っぱい
・量が多すぎる/少なすぎる

等が殆どだろう。
しかし、Kの場合……
・自分の思った通りのメーカーの食器類が使われていない
・なぜこの具材を選んだのか、なぜこの味付けにしようと思ったのかという科学的根拠が見つからない
・この具材は○○産地の物以外認めない
・テーブルや家具など、部屋の色味と料理のコンセプトが一致していない

といった、自分が知り得た知識がこの世の絶対基準であるかのような「何がなんでもこれはこうなっていなければ、世間一般の常識として有り得ない」と言わんばかりの、あまりにも我儘な指摘が殆どなのだ。


オーダーされた曲は何度も何度も作り直しては提出し、提出する度にボツになるという流れを繰り返させられた。
結局、「ヘルプ」で参加した企画自体がボツになった。
ようやくこれでKの関わらなくて済むと安心していたが、その期待はすぐに崩された。
Kは次の制作企画の話を持ちかけてきた。
その場で「サークルに所属する意思はない」と伝えたが、「理由にならない」の一言で流された。
そこから延々と、当時高校1年の僕が24歳の誕生日を迎えるまでの8年8ヶ月間、Kの奴隷のように働かされる毎日が続いた。

「明日の朝8時から夜9時までに電話をする。3コール以内に電話に出ろ。もしそれ以上待たせた場合はコール数×千円の罰金。異論は認めん」
そう言われ、折角の休日を朝から晩までずっと携帯の着信を気にしながら過ごした事もあった。
指示された事にミスがあると反省文を書かされたり、人件費や迷惑費と称してお金を払わされた事もあった。
「立て替え」という名目で物品を買わされ、4〜5万円の負担額の払い戻しに1年以上待たされた事もあった。
私物を強奪された事もあった。
どうやっても自分には出来ない作業を無理やりやらされた事もあった。
少しのミスに対して「常識外れ」「人としてどうかと思う」「立場をわきまえろ」「先人の説いた理論に反する」というような、極端な批判や罵倒を受けた事もあった。
同じ高校のクラスメイトとして知り合った同い年なのにも関わらず、Kに対して敬語を使って話すように本人から釘を刺された事もあった。(しかも丁寧語や尊敬語、謙譲語をその都度正しく使い分けなければその場で指摘と指導をされる)
Kが話を振った時や意見を求められた時以外、一切口を開くなと言われた事もあった。
Kとの関わりを無くすために連絡先を拒否し、高校でも顔を合わさないようにしていた時期もあったが、第三者を間に介して強引に接触を再開させられた事もあった。
一日の睡眠時間が2〜3時間程度しか確保出来ないほどのハードスケジュールに付き合わされた日が何日も続いた事もあった。
それを本人に伝えたこともあったが、「それだけ寝れたら十分。贅沢を言うな」と一喝されるだけだった。

逆に、Kの要求に応えられた時や、期待以上の結果が出た時、Kは僕に過剰な程の賞賛を浴びせてきた。
「お前にしか出来へんことや」
「お前は期待の逸材や」
「お前の才能には価値がある」
「お前の代わりは誰もおらん」
など、こちらが唖然としてしまうくらいに褒め称えて来た。

つまり、Kはアメとムチが極端だった。
8年8ヶ月間ものあいだ、Kから受けた被害を思い返してみると
「洗脳」と言っても過言ではないと思う。

23歳の終わりごろ、やっとの思いでサークルから離脱でき、Kとの接触も全て断ち切ることが出来た。

24歳になってからは、ようやく自分の表現活動を本格的に進める事が出来るようになった。
今、これらの「失敗」を振り返ってみると、
・人によって正しさや常識の基準が違う
・最終的に自分を守れるのは自分しかいない
という事がよく分かる。
「失敗」と言うより、自然な成り行きでどうしようもなかった事もあるけど(笑)
一時期は精神科に通院していた事もあったし、二度とは経験したくない事ばかりだけど、唯一の利点は「人の醜い部分を知ることが出来た」という事。
普通に生きていたら知る由もない事を、嫌というほど知ることが出来た。
「こうはなりたくない」という人の姿を知っておく事が出来た。


3年前の2018年の春に、ここに書いたような出来事をベースに約30分間の音楽にした「撃吐(げきはく)」という曲をリリースした。
当時、作品を買ってくれた人を対象にした無料イベントもやった。
生きた証、生きてこれた証、自分の礎という意味でも作ってよかった作品。
というか、「作るべくして作り上げた作品」。
「撃吐」の実際の制作は1年強だったと思うが、構想自体は10代の頃から練り始めていた。
あの曲の完成から今年で3年経つのかと思うと、驚くほどあっという間に感じる。


【来月6月に「撃吐」の無料公開(一部)と、通販のセール販売を行う予定です。詳細は後日お伝えします。】


#あの失敗があったから  

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