#3伏見稲荷と天狗
伏見稲荷の例祭には「天狗榊」と呼ばれる山車が現れる。
榊の枝と稲荷大社の額を設えた山車の上には、赤い天狗の面が掲げられ、春の京都を練り歩くのだと聞いた。
京都の天狗と言うと牛若丸が師事した鞍馬山の方しか知らなかったが、鞍馬から遠く南に下ったこの山にも、どうやら天狗は居るらしい。
夜の山深くへと続く、鳥居の道を歩きながら、ひとりそんなことを考えていた。
日中、人が多過ぎて頓挫した散策の続きと思って来た伏見稲荷だったが、夜は夜で静寂と不気味さが合わさってそれなりに趣深い。散策というより探検の気分で歩を進めていると、もう山の中腹あたりに来ていた。
終電間際の冬の稲荷は人影も少ない。それでも麓の社には遊び半分で訪れたであろうカップルが数組肝試しに訪れていたようだが、こんな奥深くにまで足を踏み入れては来ない。
辻からは眼下に街の灯りを見渡すことができる。もし本当に居るのなら、天狗は毎晩こんな景色を見ているのか。
天狗。確か、「厳しい修行の果てに外道に墜ちた修験者」だったか。以前そんな記述の本を読んだことがある。
修験者の修行は知らないが厳しい練習なら俺も覚えがある。
2日前の「年内最終練習」と銘打たれた練習は文字通り地獄の様な一日で、夜明け前からありったけのメニューを詰め込まれた挙げ句にボロボロの身体で部室の大掃除をするよう言い渡された我々一年生が帰途についたのは既に夕刻だった。
入学前に思い描いていたオレンジ色をしたキャンパスライフはどこの土中に埋まっているのか。今なら地価次第で地盤ごと買い取ってもいいと思える。いわく付きの土地なら「大学に入ったらオートマで彼女できるぞ」と言っていた嘘つきな友人を人柱に捧げることも辞さない。
「クリスマスはちょっと予定があって…」
と口籠る彼女の横顔がフラッシュバックして石段をのぼる足が早まる。つい2週間前の記憶だ。確かに知人Aの状態で臨むには一足飛び過ぎた相手であることは否めない。だが、あの狙ったように12月後半にみっしりと組み込まれた部活の練習が無ければもう少し違うアクションだって取れただろう。いや、そうに違いない。先輩は「これは修行だから」と言ったが、ならば俺よりよっぽど適当に練習している奴らに彼女が出来てるのは道理に合わないのではないか。にも関わらず奴らが俺より強いのは非合理ではないのか。彼らに鉄槌を下すべき存在が未だに現れないのは不条理以外の何だと言うのだ!
顔をあげると、いつの間にか鳥居の道には、わずかに灯っていた電灯も消えている。
我に帰って時間を確認すると、もう終電の時間が迫っていた。さすがにもう戻らないと。そう思ったその時。
かさり、という音が鳥居の脇の闇から聞こえた気がした。
何か居る。
その音は空耳だったかもしれない。視界には闇以外の何も映らない。
でも、
確かに「それ」はこちらを見ている。
そう思った時には、俺の身体はもう階段を駆け降りていた。
石段を一足飛びで駆けると、ほんの数歩で物凄い速度になった。通過していく朱い鳥居はフィルムのようにパラパラと目前から消え、かつ、かつ、と大きく音を立てる革靴の足音は高下駄の音のようにも聞こえる。
辻を通り過ぎるとまた少し速度が上がった。電灯の影に黒いコートが翻るのが見える。
眼下に先ほどのカップルを捉えるのと同時に、女性の悲鳴が上がった。「大丈夫大丈夫」と言っている彼氏の顔に張りついた恐怖の色を横目に確認しながら、夜風のように駆け抜ける。
いいじゃないか。彼女が居るんだったらもうそれで充分だろう。肝試しなんてものはこういう畏怖なる存在を期待している表れではないのか。ならば無償で期待に応え、恐怖を提供する俺は実に善良な存在だ。もう鉄槌を下す存在など待たない。俺が断罪すればよいのだ。そう思うとどうにも愉しくなってきた。口から漏れる笑い声をもう止めることができない。恐怖はとうに無かった。でも俺自身は、恐怖の対象となっていた。
その夜、数組のカップル達の悲鳴を纏い、口元に笑みを浮かべながら夜を駆け抜ける黒衣の魔物が伏見に現れた。外道を尽くし風と駆けるその姿は、きっと天狗そのものだったに違いない。
結局、天狗の進撃は木屋町のバーでぼったくられることで止まった。
夜が明けた京都の街はいつものように平和だった。
後日、「天狗」を調べてみると「人を魔道に導く魔物」と書かれていた。
なるほど。それが本当ならば、きっと俺はあの日それに会っている。千年前に源氏の童が出会ったそれと同じものに。
あのとき邂逅したモノの正体が何だったのか、正しくは知れない。
でも、伏見の山に天狗が棲むことを俺は知っているのだ。
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