認知症になっても安心して暮らせる社会
夜、街灯のない道を歩いていると、自転車とすれ違った。
その自転車はラジオをぶら下げており、それなりの音量でアナウンサーが喋っていた。
「認知症になっても安心して暮らせる社会を」
すれ違いざまにそう聞こえた。
振り返ったが、自転車は遠ざかり声は闇に溶けていった。
認知症になっても安心して暮らせる社会。
文脈はわからないが、それはどういう社会なのだろう。
むろん、安心して暮らせる社会を悪いとは思わない。とてもいいことだと思う。ただ、認知症になってもというのが引っかかった。
はたして認知症になったとき、安心を感じることはできるのだろうか。それを覚えているのだろうか。
祖母が認知症なのだが、とてもそうは思えない。
認知症は本人ではなく、周りの人間の問題なのだ。
本人は問題だということすら忘れるのだから問題にならない。もしかしたら文脈は「あなたの親しい人が認知症になっても安心して暮らせる社会」だったのかもしれない。
祖母はもう、娘である母のこともオレのことも覚えてはいない。数年前までオレの名前を明るく元気に呼んでくれていたのに、もはや見る影もない。
悲しかったが、しょうがないという気持ちもある。
ある本で、「人は認知症になるのが普通であり、ならない方が異常なのである」とお医者さんが書いていた。
オレだっていつかはなるかもしれない。
ただでさえ記憶力が悪いんだから。
だが、偉大なる魂は忘却によるものである。それが本当だとすれば、ボケるのも悪かねぇのかもしれない。
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