好きの一元論
”推す“ はもう公用語になっている。
この言葉は元々、80年代のアイドルオタクの間での俗語だったらしい。
芸人、俳優、アーティスト、Youtuber、ラッパー、Vtuber 、ライバー、
いまや現代はアイドル界隈を超えて、
推す対象は無限にいる。
市場に例えるなら一家に一台ではなく、
一個人に一人は推しがいる時代だ。
でも、俺はつい最近まで ”推す"という行為が分からなかった。
言葉の意味は分かっている。
でもふーん。そうなんだ。
と自分には関係ないだろうと冷めていた。
理解はしているけど、体感していない感じ
なぜ体感出来なかったかというと
日本語がおかしいけど、
”好きをする、愛をする" という行為が
本当に人に必要なことなのか?と疑問を持っていたからだった。
”好かれる、愛される" が人にとって必要で良いことであるというのは感覚的に理解できるし、自分自身も体感していた。
(海外の実験で、赤ちゃんは栄養が十分でも撫でてあげたり、抱っこしてあげたり、所謂、目には見えない"愛情"がないと死んでしまうという実験結果があったりする)
じゃあ受動的に好きが満たされていれば、
能動的な好きはいらんくね?
ということである。
でもそういうことじゃないみたい
もし人生が全て順風満帆であればそれで問題はないのかもしれない。
でも生きていて全てが思い通りになる訳は無くて、辛い時は必ずある。
そして人は一度は奈落に落ちるもんだと思う。
自分も最近、人生の奈落ほどの事ではないけれど、氷山の小さいクレバスくらいの穴に落ちた。
その時に自分の心を助けてくれたのは、あんなに冷めた目で見ていた”推し”という存在だった。
この時初めて能動的な好き、所謂、誰かを"推す"という感情が自分の中にむくむくと現れた。
自分だけのためにはもう頑張り疲れたけれど、人のためにはまだもうちょっとだけ頑張れるかも。
こういうことか。やっと体感出来ました
何千年、何万年と、人は今のカタチになるまでコツコツと進化してきた。
その度に必要だと判断し、残してきた "好きをする、愛をする"という本能。
当たり前だけど、どうやら必要らしい。
好かれたい、愛されたい
好きをしたい、愛をしたい
ふたつあって、やっと人間らしい。
一元論ではなくて、もっともっと多元論。
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