Episode1 好きか嫌いかはいくらでも変化していく

僕は花が好きである。こう言いうと「男性で花が好きなのは珍しい」と思われるかもしれない。ちなみに、花の他にも「心」だったり「魂」だったりと、何かと目にはなかなか映らない感性的なものが好きだったりする。
花が好きになり始めたのはここ最近の話である。高校生〜20歳くらいの頃だったか。それまでは花や植物など、我々がよく目にするものであるにも関わらずあまり興味はなかった。いったい、どうして最近になって好きになり始めたのだろう?
そういえば、花を好きになる前のことだが、僕は機械に携わるような人が通う専門学校に2年ほど在学していたことがある。きっかけは元々第一志望だった看護師の大学へ行きたかったのだが、受験に落ちてしまったため第二志望である親が進めた専門学校へ行くことになってからだ。そこではオートCADだったり3DCADなど、車の部品を設計するために必要な知識を学んでいた。
僕はというと、正直CADが一体何なのかよくわからないまま入学していた。親や学校が進めるまま、まるで人形の玩具みたいにただ動かされていたみたいだった。
そうしてその学校へ通っている最中、ある転機が訪れた。学校の授業について行けなくなってしまったのである。部品を実際に触って加工する授業の時である。何度やっても、何時間やってもメモリがズレた部品が出来てしまう。そしてその時まともに友だち付き合いをしていなかったことが更に追い打ちをかけていた。
そうこうしているうち、ついに担任の目からも僕の姿はとまるようになった。担任の顔はスキンヘッドでいかつい表情をしており、僕が出来ない様子を見てあれこれ喋ってくる姿から、僕はあまり担任のことは好きにはなれなかった。
それからというもの、僕は担任のことを毎日嫌いになり始めた。担任の授業をわざとサボるようにもなり、極力顔を見ないようにと担任の授業しかない日には学校を休むこともあった。そうしているとついには学校から親に電話が入り、親から僕に電話してきたことで僕は嫌いな担任と話しをすることにした。
その時にやっと気付いたと思われる。僕はこの機械に関する世界には興味が無いのだと。そうして僕は卒業式を欠席して地元に帰り、親の勧める会社に勤めることになった。
この体験があるからなのか、僕はこれまでより感性的なものに惹かれるようになっていった。地元に帰ることを選んだのも地元には懐かしい思い出があったからである。
僕の子どもの頃の思い出、それは幼い頃、夏の夕暮れに母親や兄と姉4人で一緒に土手を散歩したことや、学校から帰ってはいつもクラスメイトの家へ遊びに走っていた思い出がある。だからなのか、僕は静かに草木が生い茂る道路や土手を散歩するのが大好きだし、そうした思い出に浸りたくて、いつも会社が休みの日であればかつての友人が住んでいた家の近くを散歩していたし、子どもの頃であれば気が付かなかった住宅街の道路を歩いたりした。
ここまで話してわかったこと、それは何が好きかどうかは、何かを嫌いになってみないとわからないのではないか?ということである。これは実に不思議なことだ。
人は初めて触れるものに対し、初めから好きになるだとか、嫌いになるなどということは、案外はっきりしていないことが多いのではないだろうか。もし、初めから「好き」だの、「嫌い」だの言っている人がいるとすれば、それはあくまでも表面的な部分に触れた中での感想であり、何度も触れて新しいことを知るうちに、すぐ何かを好きになったり、嫌いになったりと、心が変化していくのである。そうした道のりを歩むことによって、好きなもの、嫌いなものが自分の中で形成されていくのだ。
そう考えると、「あの人は嫌いと言ってたのに、なんであんなに仲良くしているんだ?」とか、「あんなにも好きって言っていたのに、あれは一体何だったのか?」など心を乱してイライラするということも減るのではないかと思われる。
人の心など、変化して当たり前なのだ。だからこそ我々は目の前の人に対して誠実に接していかねばならない。誰かから一時期嫌われていたとしても、それはすでに過去に起きた話であって、未来では結婚相手にまでなるような方に変化しているかもしれないし、あんなにも堂々とはっきりと物事を喋る、やる気に満ち溢れているような人がある日突然「人生灰色、、、」なんてことも起きるかもしれない。そんな様子もこちら側が「そんなこともあるよね」なんて目で見ていれば相手の方も安心出来るのではないかと思われる。
いずれにせよ、人の心というものは長い目で見ていると何かと得であることは多い。あんなにも熱心に「この会社、この仕事で生きていきます!」と語る人、「私がこの国を、世界を変えてみせます!」と大勢の前で言う人、様々な人の姿があるにはせよ、その人のやる気と同じくらいに信頼を寄せる必要も、僕はあまり無いかと思われる。
答えというものは、いくらでも考えようがあるのだ。そのいくらでもある考えを聞いて見て話したりするのもまた人生の楽しみとも言えるだろう。

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