No.1 努力をするからには言い訳はしない

「努力」という言葉がある。努力はしばしば日本人の心を惹きつける言葉として扱われやすい。テレビやニュースで見かけられるアスリートの功績に至るまでのプロセス、高校球児の野球に懸ける姿が何十年も取り扱われているのを見るといかに「努力」という言葉が日本人にとって大切にされているものなのかがわかるだろう。
さて、この言葉を自身が本格的に使おうとすると「自身がうまくいかない時に頑張る」「自身の苦手や弱点を克服する」時の気持ちの表れとして使われやすい。それは、自身が今現在うまくいっていないのだから努力するのであって、順風満帆であれば努力する気など起こるはずがないからである。もちろん、それが悪いというわけではないが。そして、その危機感とも呼べるものは誰の為でもなく根底は自身の為にある。この時の努力というのは普通に考えたら他者から到底理解出来るものではなく、本人にしかわからないものであることがほとんどだろう。
筆者は誰にも見られておらず、一人で努力をすることが結構好きであるのだが、この努力の素晴らしいところは努力を続けることによってほぼ間違いなく結果が時間に比例して付いてくるというところである。ここで個人が絡んでくるほど努力が実る確率は少しずつ下がっていくことにはなるが、それでも努力をすることによって成長出来る確率は体感6割はある。おまけに上手くなったことでの出来ることの喜びや楽しさが生まれるのだからこの上なしだ。
出来るようになった後はそこで新たに別のことへ挑戦していくか、そのまま続けるかは人によって分かれる。筆者は前者の傾向がややある。100点を狙うよりも80点取れれば後は良しといった感じだ。
上手くいっている人からすれば努力している人の気持ちなんて分かるわけがない。自身もかつては出来ない時があった筈なのだが、そんなことは御構いなしに「どうして出来ない」と言うのである。これはもはや風物詩とも言える仕方のないことなのだが、言っている本人からすれば言うことによって精神安定剤のような役目を果たしているので言わせておいた方が後々になって得することが多い。
また努力が努力ではなく、自然のものになっていると「自身がやりたいからやっているだけ」とか、いわゆる「努力の天才」と呼ばれる人がこの傾向になる。
そんな努力だが、本人は努力しているつもりでも背伸びになっている人を多く見かける。背伸びという言葉は、自身の実力以上のことをやろうとしている場合によく使われる。何故背伸びをする必要があるのだろうか。その理由の一つに他者と比べてしまうことがある。
他者と比べると言っても、別に比べようとは思わない人がいる。「あいつは数学が出来る」と言われても、それよりは「国語が出来るあの人の方が気になる」ということさえある。もしかしたら「自分の好きな人が実は誰かと付き合っているのではないか?」とこちらの方が気になるかもしれない。この違いは何だろうか。この答えは自身に関する情報であるか否かが大きい。好きになった人の行動がいちいち気になるのはこの部分が関係しているとも言える。
筆者は何も「だから他者と比べるべきではない」だとか、「他者と比べた方がいい」とかどちらかを論じるつもりはない。他者と比べたらそれだけ自分を変えようとは思えてくるし、他者と比べなければそれはそれで幸せだとも思える。
ただここで言いたいのは努力をするとなった時は誰かに言われたからするのではなく、自ら心に決めて納得したことであって欲しいと言いたいのである。
このことがわからずに、中途半端な気持ちで努力をしている人が「本当はこんなつもりではなかった」とか「こんなに頑張っているのに...」と嘆きの言葉を周囲にぶちまけることになるのである。
努力というのは目的地までの道のりのことであり、その中には様々な想像を超えた思いがけない苦難で満ち溢れている。歩いていても途中雨が降って強い風が吹いてくるかもしれないしトンネルの中や樹海、霧の中を歩いて行かねばならない時もやってくる。果ては海の先を進まねばならず、そうなると船がなければ一生先へは進めないだろう。そうした苦労を乗り越えられたらどれほどの喜びが得られることか。子どもには小さい時ほど、この努力によって得られる喜びは是非経験させたいものである。この経験が少ない人ほど、大人になっていくにつれて努力しようとは思わなくなってゆくのではないだろうか。
現代ではそうした苦労を経験する機会が減ってきているので何でも簡単に目的地に到達しやすい。遠くに行きたければ歩かなくても自転車やバス、タクシーに電車、飛行機なんてのもあるわけだから人々は様々な方法を使って楽に先へと進むことが出来る。ましてやインターネットがあれば直接向かう必要すらないかもしれない。物が豊かになるのは素晴らしいことだが、それ故困難に立ち向かうだけの力が低くなることも知っておく必要があるだろう。
現代になっても変わらず苦労していかなければならないものも存在する。
それはスポーツにおける技術だったり、ピアノなどの楽器の演奏、人の心や、恋愛、子育て等である。最近はAIというものが存在しているが、どうせならコンピュータにやらせるより自身がやってみたいというのが人間の心ではないだろうか。AIは我々に莫大な進歩をもたらしてくれるが、同時に人々の生きがいを奪う悪魔的存在に等しいと思われる。
苦労が減ってきている現代で変わらず苦労していかねばならぬことに対して果たして我々は立ち向かえるのだろうか。
かの剣豪宮本武蔵は童の額髪の毛にご飯粒ひとつ付けて見事にご飯粒だけを真っ二つにしたという伝説を残している。苦労をしなくて済む現代でこれだけの伝説を残すのは難しいにしても、困難に立ち向かうだけの力を身につけていくのはこれからの我々にとっての課題になっていくことだろう。

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