No.2 花に水をやりすぎると花は枯れてしまう

筆者は現在、観葉植物を飼っている。買ったのは去年の冬辺りで前から興味があった。
いざ買ってみるが特に変化がある訳ではない。テレビで見た情報なのだが、観葉植物は買ってから数日は水をあげないほうが強く育つらしい。
そんなこんなで数日経ってからようやく水やりを始めた。不思議なことだが、花や植物を育てる時で一番楽しい瞬間は水やりのように筆者は感じている。
それから続けて春になったが、今頃になって気づいたことがある。それは、植物の幹が曲がってきているのである。
まさか水やりの仕方が原因では?と思い調べていると別な言葉が筆者の目に留まった。
それは花に水をやりすぎると花は枯れてしまう、ということである。ある意味こちらの方がまずいのでついこちらの方を調べることになってしまった。
なぜ花に水をやりすぎると枯れてしまうのか。考えるほど不思議に思えてくる。
花にとっての水は人にとっての食事に近い。とすると食べすぎが原因かと考えるのは余りにも単純すぎる。水は土を通過してすぐ排出されるわけだから、人に例えると排泄に近いのではないだろうか?そこまで食べすぎが原因とは考えにくい。
実は花に水を与えすぎると、土の中に隠れている根の部分が少しずつ腐ってしまうのである。なので、花に水を与えるにはまず土が乾燥している必要があり、その時になって初めて水やりが活きてくるのである。
なるほど、と思うかもしれないが実際にこのことをやろうとすると結構難しい。何故なら水を与えてからの土というのは、意外と乾かないものなのである。場合によっては1週間〜1ヶ月以上、土が湿っていることさえあるのだ。こうなると、水やりをする立場からしてみると不安になってくる。我々は1ヶ月何も飲まず食べずに生きることは出来ない。もしかすると、花にとっての水やりとは人にとっての食事ではなく、何か別なものになってくるのではないだろうか?
そう考えていたらふと思いつくことがあった。それは、なぜ子どもは非行をするようになってしまうのかについて書かれていた本のことである。
非行少年になる経緯には細かいのを除いて大きく2つあると筆者は知った。1つは幼少期からの母親との愛着関係が結べていたかどうかである。具体的な時期は0〜2歳頃とされており、この時大切にされていないといい子として見過ごされたりしながら思春期になって家出や夜遊び、万引き、暴力、殺人などの行為が出てくるのだと言う。
なるほど、と思われるかもしれないが筆者が驚いたのはこの2つ目の方である。
それは子どもに物を与え続けていると、子どもは思春期になって同じような非行をするようになるというものである。
現代というのは、非常に豊かな時代であり、人々は誰もが食べるに困らず、お金に困ることがなくなってしまった。お金がない人ですら、国がその人に最低限の生活が出来るだけのお金を与え、税金を免除させてくれる始末である。これには餓死する方が難しい程だ。
このような世の中で育つ子どもというのは、食べ物がどれだけ大切なのかとか、お金にはどれだけの価値があるのかなど、その真意を見出すのはかなり難しい。かつての日本にはそのような時代があった。だから親たちだけが、食べ物を残してはならないだとか、どれだけ会社から蹴飛ばされようともお金のためであれば何でもやって、働き続けることの意味を見出していたのである。
だからと言って、同じことをしようと筆者は言いたい訳ではない。なぜ子どもは物を与えられているのに非行をするようになってしまうのか、ということである。これには興味深い話が2つあった。
1つは子どもの2歳頃によく見られるイヤイヤ期というものである。子どもはなにかと1人でやりたがる。片付けも食べようとするのも、歩くのも、トイレも何から何までである。こうなると親は大変で、なにせ生まれてからまだたった2年しか生きていないのである。時に無茶苦茶な行動をしようとするので親は必死になって子どもと格闘することになる。
2つめが、とある本の中にそのエピソードがあった。ある「よい家庭」の話である。夫は一流企業の偉い人でマイホームやらマイカーなどその家には素晴らしいものがなんでも揃っていた。妻の方もよく働き、家庭のことに尽くしていた。その中に高校生の長男がいた。今まで何の非行もしてこなく、学校での評判も良い子であった。
ところがある日、その長男が家出をしてしまった。あまりにも突然の出来事で家族は警察やら近所やら声をかけてまわったのだが、長男は次の日ひょっこりと何事もなかったかのように現れたのである。詳しく話を聞くと、なんでも一人で遠い駅のホームに降りて、そこで一晩過ごしてみたかったというのである。
これには夫も妻も安堵したと同時に激しい怒りが込み上がってきた。受験勉強を控えていることもあって夫は長男に向かってこう言った。
「お前はこんなにも恵まれた家で育ててもらってきているのに何が不満でこんなことをしたんだ!他の家を見てみろ!こんなにも恵まれてないぞ!お前は毎日何もしなくても飯は食えるし自分の部屋で寝ることだって出来る!ママだってお前の好きなものをなんでも買ってくれているんだぞ!」
その言葉に対して長男は
「それがたまらなくて嫌なんだよ!」
と言ったのである。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
人は誰しもが自立を望んでいるはずである。しかし、いくら自立を望んでいても心がついていかない時というのがある。そんな時にこそ誰かの助けが必要なのであり、助けてもらうことによってより一層「偉そうなことは思ってても、やっぱり自分ってまだまだだなぁー」とか「自分で頑張らなくては」と思うようになるのである。それなのに親から甘やかされて、望んでもないのに沢山の物をくれる親を見て子どもは「どこまでしてくれるんだ?」と試すつもりであれが欲しい、これが欲しい、こんなものも買えるのか?とエスカレートして終わらないのである。ここまで言うとわかると思うが、子どもが欲しいのは物ではなく生きた心である。自立したくてもそれが難しくて、その出来ない今の気持ちをわかって欲しいのである。
これが2歳児であれば物を知らないので嫌がるだけで終わる。しかし基本は一緒であると筆者は考える。甘やかされて、自立したいと願う自分の姿が誰かの手によって勝手に壊されるのであればたまったものではない。子どもは怒り狂って当然である。せめて壊すのであれば自分の手で壊したいのが人間である。
職業の関係上、子どもの話になってしまったが何も子どものことだけではないように思える。例えば男女の関係だ。
男と女、どちらかが片方に尽くすという図はよく見られる光景だ。どちらかが相手に沢山話しかけるのだが、相手は知らんぷり。それどころか嫌われることさえ生じてくるのである。尽くしている側の言い分としては「どうしてこんなにも考えてあげているのに...」と思うかもしれないがある意味何も考えていないとも言えるだろう。
ここまで述べてようやく水やりの話に戻るが、花にとっての水とは水をくれる人からの思いやりではないだろうか?思いやりとは大切なものに思えるが、その使い方を間違えると貰った方は苦しくなってしまうのである。水やりをしすぎて花が枯れてしまうように...
水やりをする時、根っこは土によって隠されている。根っこが見えれば腐ってきているかどうかわかるかもしれないが、そうはいかないものである。ここに水やりのおもしろさがあるのではないだろうか。
親切だと思ってやっていたことが、実は相手を苦しめていたとなるとたまった話ではない。我々が誰かに親切をする時は、花に水をやるようにもっと慎重になった方が良いだろう。

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