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5. おもち

おもち!

おもち!

おもち◯こ!


ではないが、筆者はおもちが好きである。

筆者が小学生くらいだったか。正月になると、家には鏡餅やら何やらおもちで溢れていた。何でも祖母が1人、手作りで50個近く作ってしまうのでおもちがどうしても余ってしまうのだ。

おもちには様々な種類が存在する。海苔もちに醤油もち、きなこもちにあんころもち、雑煮もちにおしるこなどあるが筆者は真っ白なおもちに砂糖だけが混ざったただのおもちが食べたかった思い出がある。今考えると「あんこくらいは欲しいかな?」とは思うのだが、子どもの感性というものは誠に不思議なものである。

砂糖もちの他にも筆者はきなこもちも好きであった時がある。これまた筆者が小学生くらいの時の話だ。その時の筆者というのは、何かと緑色のものが好きだった。濃い緑から薄い緑色まで全てである。この時きなこもちに使われたきなこの色がちょうど抹茶色だった。そのおかげできなこもちを食べることができていたが、長くは続かなかった。なんとなく、味や食感に飽きてきたというべきか、食べなくなってしまったのである。

それではおもちはもう食べなくなってしまったのか?と思われるかもしれないが、そんな事はない。筆者は次に、おしるこに興味を持ち始めたのである。

それまでのおしるこのイメージというのは、筆者の中ではあまり良いものではなかった。まず何かとあずき色があまり食べる気にはなれなく、味もまともに食べようとは思ったことが無かったので常に敬遠的存在だったのである。それがどうしたことか。確か筆者が高校生くらいの時に初めて自ら食べようとしていた記憶がある。これは一体、どういうことなのだろうか?

この話はどこか、子どもの好き嫌いの話とよく似ている気がする。筆者は食べ物において、好き嫌いはやや中くらい。嫌いなものもあれば好きなものも同じくらいある方であった。

例えば子どもの頃、練りしょうがは大嫌いだったし納豆も家にあるもの且つ青のりをかけて母親にかき混ぜて貰えないと食べられなかったし、学校の給食に時々出てくる得体の全く知らない真っ白なポテトサラダなんて一口どころか箸で触る気にもなれずにそのまま給食に戻していたくらいである。

しかし、そういった個人的に強烈感のある食べ物でなければ筆者は何でも口にしていた。そんな子どもであった。

それが年齢を重ねていくと、不思議なことにある日突然「俺は強くなった。その証拠に、前まで見向きもしていなかった食べ物も食べれる!」なんて思う時があったり、「このポテトサラダ、小学校の頃からあったけど、もしかして今はもう食べれるんじゃないか?」なんてことに気が付き、実際に食べて見ては「なんだ、こんなにも美味しいじゃないか!」と1人感動するなど、誰に言われなくとも自ら食べる姿が出てくるようになったのである。そう思えるようになるまで、筆者は数年ほど要したが、、、。

子どもの好き嫌いにせよ、どうやら子どもが自ら変わるというのは何年もの時間が必要なようである。そう思うと、子育てというのは何も焦る必要がないのでは?と筆者は感じる。

かつてはよく見られていた英才教育などというものは、今の時代でも存在しているのだろうか?英才教育ではないが、未だに暴力を振るう教師。殴る、怒鳴る、蹴るが当たり前の部活の担任がいることにはさすがに筆者も呆れざるを得ないが。暴力で人が死んでしまうことがあるというのは、相撲界が証明しただろう。日本の闇というものは、相当深いようだ。

そうした人から無理矢理成長させられる強さも、やはりあるのだろうか。しかし、どうせなら誰に言われなくとも自らの手で成長させていった方が何かと安心出来る気がするが、、、。上手く言葉に表せないが、人は自らの力で生きていく術を、誰もが持っている筈なのだ。今の時代において、その力を使わないのはあまりにももったいないだろう。

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