幻に終わった対任天堂共同戦線 セガ&SCE

1990年代初頭、某所にて今後のゲーム業界を大きく左右する二社合同技術研究会が行われていた。

その研究会に参加していたのはセガの佐藤秀樹。後にセガ社社長にまで上り詰め、セガハードの父と呼ばれる男だった。セガ内のエース中のエース、アウトランとスペースハリアーを作った男、鈴木裕もいた。
そしてさらなる男がいた。ソニーの久夛良木健。プレイステーションの生みの親である。

彼らを中心にセガ、ソニー両社の技術者たちが机の上に並べられた資料を持って喧喧諤諤の大議論が行われた。その資料とは、開発途中だったセガサターンの資料だったのだ。隠しているものは何もなく、全スペックを久夛良木たちの前にさらけ出していた。

彼らの頭にあったのは「対任天堂共同戦線」である。当時のゲーム業界最大、最強の巨人に対抗しなければならない。それはセガ、ソニー両者の共通認識だった。そしてじきに「二社が共同で同じハード上で力を合わせることは不可能ではない」という結論に達する。その具体的な内容を定めるための研究会が行われていた。

サターンにソニーの技術を入れるか否か。それとも、ソニーがつくるハードにセガがソフトを提供するか?


この研究会に至る複雑な経緯を、一つずつ紐解いていこう。


まず、元々ソニーはゲーム業界に非常に強い関心を抱いていた。MSXという低価格パソコンにも参入し、ゲームソフトメーカーを誘致して支援を行っていた。ところがMSX規格はファミコン他コンシューマーゲーム機との競争の前に敗れ去る。その後は子会社であるエピックソニーレコードブランドでファミコンに参入。TM NETWORK LIVE IN POWER BOWLソルスティス 三次元迷宮の狂獣などを発売するメーカーとして存在感を出した(……と思う)。ソニー内部には「ゲームなどソニーが手がける分野ではない」という声も大きかったが、当時のソニー社長大賀典雄はむしろ積極的にゲームに参画したいと考えていた。

それと並行してソニー本体側も任天堂に働きかける。

「CD-ROMを採用しませんか?」

何回も何回も京都に足を運んで交渉を行ったのは、久夛良木健である。任天堂の山内溥社長はそれよりも彼が開発した音源チップのほうに興味がそそられた。任天堂技術陣の反応もよかった。スーパーファミコン用の音源チップは彼のチップが採用された。
しかしその後も久夛良木は何度もCD-ROMを推した。ほとんど根負けする形でスーパーファミコン用拡張CD-ROMの契約は成された。ソニーの金でソニーがつくるのなら、まぁいいだろう。概ねそのような思惑があり、契約書には山内社長と、大賀社長のサインがなされた。

ところがこれは任天堂内部で波紋を呼ぶ。NOA(Nintendo of America)の社長、荒川實が強烈に反対したのだ。「CD-ROMはマルチメディアの根幹です。あまりにソニーの権利が強すぎる!」。荒川はアメリカに住んでおり、日本より少し早くCD-ROMが普及しているのを目の当たりにしていた。音楽やゲームだけではない、電子辞典やカタログ。そういった活用方法がCD-ROMにはあった。

当初は信頼する娘婿(荒川は山内の娘と結婚した)のいうことをスルーしていた山内だったが、次第に態度を変えていく。もしや、娘婿のいうとおりなのでは……。任天堂に遠慮することなくCD-ROM計画をどんどんと進めていく久夛良木に不安が募っていく。そしてソニーはSFC用CD-ROM規格に「スーパーディスク」と名付けて広告を始めた。

「スーパーディスクはソニーだけが唯一、生産できる規格です!」

もともとCD(コンパクトディスク)はソニーとオランダのフィリップス社が作り上げた共同規格である。一枚CDが売れる度、両者にそれぞれロイヤリティが入る。ところがスーパーディスクと名付けられたSFC用CD-ROM規格にはフィリップスが関わっていない。ソニーとしては大手を振って自社独自規格だ! と広告する権利を取得したわけであり、その権利を存分に振るった。

任天堂の、山内の不安が臨界点を超えた。CD-ROMを甘く見た見通しの悪さと、ソニーへと不信感により、一度この契約をクリアにせねばならないという結論に至った。ソニーは我が社を踏み台に、全ての権利を奪い撮るつもりだ。……という半ば被害妄想にとりつかれた。

その破綻は1991年6月に起きた。本来、アメリカ最大の家電ショーであるCESで、SFC用拡張CD-ROM機器プレイステーション0(本来は0がつかないが、区別のために0をつける)は発表されるはずだった。ところが寸前のところで任天堂側から待ったがかかった。発表はなされず、久夛良木もアメリカへ飛ぶのを中止した。

ところがそのCESの場にて、任天堂は高らかにフィリップスとの提携を発表した。そのフィリップスがCD-ROM機を作り、任天堂に提供すると、そしてそのCD-ROM機はSFCと互換性を有しており、任天堂はそちらにのみゲームを提供する、と。

驚いたのは契約書にサインした大賀社長である。任天堂側に問い合わせをしてみると山内は「ソニーさんとそのような契約をした覚えはない」という返事を返してきた。いったい何が起こっているのか理解できなかった。そして当事者である久夛良木も全く理解できていなかった。

久夛良木は京都へと飛んだ。山内邸で待っていたのはなぜかNOAの荒川だった。彼は久夛良木の猛抗議を一通り聞き終えたあと、静かにこう返した。

「契約は履行します」

荒川が何をいっているのか、久夛良木は理解できなかった。

大枠としてはソニー・任天堂間の契約は生きている。ソニーが自前でCD-ROM機を売り出すのは構わない。しかし任天堂はフィリップス製CD-ROM機を別個で売り出す。任天堂が作るCD-ROMソフトはそのフィリップス製CD-ROMのほうだった。ソニーがプレイステーション0を発売しても、それに任天堂はソフトを出さない。両者に互換性はないため、フィリップス製CD-ROM用ソフトをプレイステーション0に入れたところで動作はしない。

この展開の巧妙なところは任天堂が明確な契約不履行を犯したわけではない、ということだ。厳密に任天堂がプレイステーション0にゲームを出さねばならないという契約ではなかったし、たとえそうだとしても「現在開発中」といってずるずる発売を延期すればよい。ソニー側がプレイステーション0を発売するのを任天堂は止められないが、出したところで任天堂のゲームができない拡張機器など、誰が買うものか。

ソニー内で任天堂を裁判で訴えられないか模索する動きがあったが、結局挫折する。音源チップの供給を止める案も出たが、これはむしろソニー側の不利益になりえた。契約に揉めたら供給を打ち切るメーカーなど、どこも採用してくれなくなるだろう。結局その案も廃棄され、最後までソニーは責任をもって任天堂に音源チップを供給した。

その後も久夛良木らは関係修復のために任天堂へ何度も足を通わせた。一度はこじれた交渉はゆっくりと、それでも前に進んでいるように見えた。さらに続けて、契約書にサインが成された。かなり任天堂側に譲歩した契約内容だった。
しかしその一方でフィリップス製CD-ROM計画は順当に動きつつあり、実際にサードパーティへの技術説明会が行われた。任天堂がプレイステーション0のために動く可能性はないままに見えた。

久夛良木は方針を変えた。任天堂を味方にすることを諦めたのだ。1992年2月の業務報告書には「任天堂の優位は崩壊しつつある。もはや任天堂はソニーのパートナーではありえないことが、明確となってきた。ソニーは独自の道を進むべきだ」と記載している。

1992年7月、取締役が並ぶ方針決定会議にて

「自社でゲームハードを作り、ゲーム業界へ参戦すべし! すでに3Dコンピュータグラフィックを独自開発しています。この技術でSFCを凌駕する性能の、3D画像を出力可能です。すでに基本設計は完了済みです。任天堂にあれだけのことをされて、黙っているつもりですか!」

と久夛良木は煽り、大賀社長は「そこまでいうならやってみせろ! Do it!」と叫んで計画にGoサインが出た、というエピソードが有名である。

このエピソードから任天堂への怒りがベースにプレイステーション計画がリスタートされた……と認識されているが、後に大賀社長は「自分自身がゴーサインをだしたプロジェクトだけに、このまま引き下がるわけにはいかない」という心境だったと語っていて、かつ久夛良木のほうもそれを把握していた。つまり、自前のゲームハード計画にGoサインを出す名目として、任天堂への復讐というわかりやすいお題目を担ぎ出した、という見方のほうが正しいように見える。なにせこのときの会議は大賀社長以外全員が「さっさと撤退すべき」と考えていたからだった。それをひっくり返すのに任天堂はヘイトの向け先として最適であった。
試作機として作られていた少数のプレイステーション0には廃棄命令が出てしまい、次々に捨てられていった。ソニーは本腰をあげて、ゲームハード事業に取りかかることになった。

久夛良木はGoサインがでたことでゲーム会社を回る。「是非ともプレイステーションでゲームを出してください」。その際、ソニー本体ではなく、ソニーミュージック主体で誘致活動が行われた。これには理由がある。
ソニー本体がかつてMSXでソフト会社を誘致していたことは先に述べたとおりである。ところがソニーはMSXの反応の悪さに1988年にはビジネス的な支援を打ち切っていたのである(正式に撤退するのは1992年である)。そのため再度誘致に動いたとしても、「どうせまたすぐに支援打ち切りをするんでしょう?」と見られかねなかった。しかしソニーミュージックは本体とは別にゲームを出し続けていたソフト会社である。ならば一応同業者であるから話は最低限聞いてくれるかも知れない。そこでソニーミュージックが母体となり、SCE(ソニーコンピュータエンタテイメント)が設立された。

SCEの一員となった久夛良木は各所を回る。その際、セガと交流が生まれた。実は大賀と、当時のセガの親会社であるCSKの大川会長は知人同士だったのだ。そのため対任天堂で技術的な交流会をしよう、という流れがあった。そもそもソニーとセガは、品川と大鳥居で地理的にも非常に近かった。

この時のセガは対任天堂を表明していて、かつもっとも有力なゲームメーカーであり、実際北米の家庭用ゲーム機市場では優位に立っていた。ここでセガの協力を得ることができたならSCEにとってもありがたいことであり、セガもソニーの技術が導入できればハードの完成度が上がるかも知れない。双方別々に思惑があった。

そもそもセガとソニーは北米にて実際に協調路線を取っていて、その仲は悪くなかった。少し時間を巻き戻して解説しよう。


かつておもちゃメーカーハスブロが提唱したNEMOというゲームハードがあった。このNEMOはVHSビデオテープを保存媒体として採用しているのだが、「複数のビデオとオーディオトラックを同時に収録し、かつそれを常時切り替え可能」という特徴を持っていた。この特徴をつかって何かゲームを作れないだろうか? 映画を眺めているような気分だが、コントローラーを操作して登場人物の行動を操作することができるゲームができるのである! この需要は1980年代にはよくあり、LD(レーザーディスク)を活用したアニメベースのドラゴンズレアや、タイムギャルが生まれていた。


数億円を投じて映画を撮影する規模の作品がつくられていく。そのうちの一本が家に入ってきた怪物を特殊部隊が撃退し、少年少女を守る「ナイトトラップ」であり、もう一本は下水道の変異生物を倒していく「Sewer Shark」である。他にも数本のゲームが「撮影」されていった。

これらの撮影は終わり、編集作業も完了した。ところが1989年、発売直前となってそもそもNEMOが発売中止になってしまった。ハスブロのゲーム部門にいた者達は独立を余儀なくされる。そこでデジタル ピクチャーズ社を立ち上げ、実際に作り終えたゲームの権利をハスブロから買い取った。

さて、この完成しつつも未発売のゲームたちに注目してくれる会社はないだろうか。あった。それがソニーである。ソニーは久夛良木が任天堂とCD-ROMの契約を行ったことで、CD-ROMの大容量を生かした新しいゲームを模索している最中だった。ソニー・アメリカのマイケル・シュルホフ社長も「映画とゲームが融合する未来」を信じており、実写映画を操作するゲームに強く興味を惹かれていた。ソニー・アメリカはデジタルピクチャーズと話を進め、契約金を支払い、それらのゲームをプレイステーション0向けに発売する方向を示した。

ところがである。再度デジタルピクチャーズの前に暗雲が立ちこめる。いつになってもプレイステーション0の発売の話がでてこないではないか。1991年にCESでNOAがフィリップスのCD-ROM機の発表を行うと、ソニー・アメリカの担当者は頭を抱えることになった。せっかく手に入れた権利が、ただの不要なお荷物に変わったのである。

さていったいどうしようか。思案している中でセガがSEGA-CDという拡張機器を出した。これだ!
実はこのとき、ソニー・アメリカの子会社、ソニー・エレクトロニックパブリッシング(コンピュータ・ゲーム機といったデジタルコンテンツ制作の新部門)の社長オラフ・オラフソンと、セガ・オブ・アメリカのカリンスキー社長はずっと以前から交渉を続けていた。互いに協力しあうことはできないだろうか。

ソニー側はゲーム機市場で優位に立ってるGENESISのポテンシャルが魅力的であり、セガ側はソニーの有するミュージシャンや映画の権利が欲しくてたまらない。是非とも提携したい、と考えていたが、この時まだプレイステーション0の計画は生きていた。だからあまりに表だって任天堂に刃向かうような真似はできない……ということで、本社の許可が下りず、ずるずると先延ばしになっていた。

しかし任天堂が話を破談にしたことで、一気に実現性が増した。本社からGoサインが出た。さっそくSEGA-CD向けに手持ちのタイトルを移植する作業をデジタルピクチャーズ社に依頼する。返ってきた返事はオラフソンを驚かせるに十分だった。デジタルピクチャーズ社の試算では、ナイトトラップとSewer Sharkの二本をSEGA-CD向けにアップグレードするだけで、500万ドルの経費が必要だった。これにはさすがにオラフソンも困ってしまい、カリンスキーに相談を持ち運ぶ流れとなったのだった。

カリンスキーはなんとしてもこの提携を実現させねばならない、と考えていた。本社の協力を取り付け、費用の負担を申し出た。最終的にはこれら二本のゲームだけではなく、今後の実写をつかったビデオゲームの開発費をソニーと折半するように手配した。オラフソンは感激し、友であるカリンスキーに敬意を払ってこれらのゲームの版権を折半するようになった。こうした経緯でナイトトラップはセガから発売することとなり、残りのゲームはソニーが発売した。こうした縁があるため、ソニーは20本以上のソフトをSEGA-CD向けに発売した(ただ、ほとんどが北米・ヨーロッパ向けで、日本向けのソフトは一本だけであるが)。


こうした協調路線がアメリカで敷かれていた。日本でもやればできるはずなのだ。そういった経緯をもっての技術研究会であった。

この時のセガは全力を出した。開発中だったサターンの全資料を持ち込み、すべてを久夛良木の前にさらけ出したのはすでに書いたとおりだが、SCEの技術陣らは初めてのゲームハード故、とにかく細かなところがわかっていなかったため、セガの技術者たちに聞きまくった。それにセガは応え全て丁寧に返していく。お互い技術者同士、心根が通じたといえば聞こえがいいが、実態としては将来の強大なライバルに対して塩を大量輸出している状態であった。ソニーも技術者たちはゲームハードこそ不慣れなものの、一流の技術者たちだ。セガのノウハウを吸収しプレイステーションの完成度を上げていった。

佐藤秀樹がサターンの計画を話す。久夛良木の反応は良くなかった。サターンは最強の2Dマシンであった。しかし久夛良木は全てを3Dで処理する3Dマシンこそ次世代ゲーム機にふさわしいと考えていた。この時、セガはバーチャレーシングを稼働させており、3Dに非常に強いゲーム会社であった。しかしそれでも次世代機サターンはあくまで2Dをメインに、3Dもできる、といったハイブリット機で収まっていた。

どうして3D専用にしないのか、セガならばできるはずだ。なんならウチのマシンにセガが参入してくれれば良い……久夛良木が説いたが、セガ側にもそうはいかない問題があった。セガは確かに3Dに非常に強いゲーム会社ではあるが、それはまだアーケード部門の、一部のチームの話であり、家庭用部門のスタッフの多くはまだまだ2Dがメインで、3Dには不慣れだった。それに本当にこの3D傾注の流れが次世代ゲーム機に訪れるのかわかっていなかった。レーシングゲームや、3Dシューティングにおいてはポリゴンは有用だった。しかしRPGやアクションゲームまで一切合切3Dで、というのはまだ早いのではないだろうか……。セガはどうしてもそこで踏ん切りがつかなかった。

結局この交流会では具体的な提携の話は形作れなかった。サターンにソニーの技術を入れるという話も、プレイステーションにセガが参加するという話もなくなってしまった。セガは北米で任天堂に勝っているんだぞ、という自負がある。ここでハード事業を辞めることは負けたことを意味するのではないか……という思いを振り切れなかった。

その後、SCEとセガはそれぞれの道を進みつつ、戦い合う運命となる。じきにプレイステーションがFF7とDQ7を獲得し、勝者となるわけだが、それでもこのとき繋いだ交流会の縁は切れていなかったという。

半年に一度程度のペースで、久夛良木と佐藤は食事を共にする仲となっていた。そのとき、守秘義務に反しない程度の情報を交換しあっていたという。そして同時に、セガに対してPSに参入するようにと、引き抜きを仕掛けていた。

「秀樹ちゃんさ、俺に勝てるわけないじゃない」

そう言われたことを佐藤秀樹は回想する。

「半導体どこから買ってるの? 日立から買ってる。ヤマハから買ってる。CD-ROMも、みんな買っているでしょ。日立から買うってことは、日立も利益出しているでしょう。カスタム品にしても何にしても。うちは自分で作っちゃう。工場もあるもんね」

「だから秀樹ちゃん。もう半導体なんか止めなさい。ソフトだけやるのであれば、ソニーとしてもそれなりに優遇するから」

引き抜きというにはあまりにストレートな表現だが、久夛良木と佐藤は同い年でもあり、仲はよかったという。現在でも親交が繋がっているとのことだ。
なお、久夛良木はそのときの技術研究会のことを恩に思っているらしく、鈴木裕と再開したときには「昔は、裕さん、ありがとう!」と言ってきた。しかし鈴木裕はいまいち自分のしでかしたことしたことを理解しておらず、「なぜそんなに感謝してくるのかな?」と疑問に思っていたという。

サターンが敗北したあとも、セガはPSに参入するという決断を取らなかった。ドリームキャストで再起を図り、そして経営が行き止まるレベルの大ダメージを受けた。ここに至ってようやくセガはサードパーティとして生き延びる道を選んだ。あの研究会から10年近くが経とうとしていた。

佐藤秀樹はセガの社長となり、経営立て直しに奔走した。久夛良木はソニーの副社長にまで上り詰め、名誉会長となった。その後ソニーを勇退する。カリンスキーはその後、辞任した。

オラフソンはSCE設立後は欧米部門のゲームソフト関連トップに立ち、友であるカリンスキーと戦い、勝利をした。セガ・オブ・アメリカの有力社員を引き抜き、アメリカでの基盤管理に動いた。ところが本社SCEとの意見の食い違いが発生した。SCEアメリカはコントローラーのケーブルが短いだとか、アメリカ人の手には小さすぎるだとか、決定ボタンを○にするのはおかしい(!)といったところで不満をぶつけ、改良を施し独自に進めようとしていた。これを久夛良木は許せなかった。

極めつけはロゴである。当時のSCEアメリカ社長スティーブ・レースはPS1のロゴを酷く嫌っていた。そのためアメリカ独自のキャラクターとしてポリゴンマンというキャラを作り、プロモーションに活用した。PlayStationという名前も受けが悪かったので、発売前にはPSXというコードネームを使っていた。 

ポリゴンマン。画像は https://en.wikipedia.org/wiki/Polygon_Man より引用

1995年、ゲーム最大の見本市、E3。記念すべき第一回目のその現場で久夛良木は初めてそのポリゴンマンを見た。そのときの様子を当時SCEヨーロッパの上級副社長だったフィル・ハリソンは「完全におかしくなった」と表現している。E3の二ヶ月後、スティーブはソニーを辞めた

1996年、オラフソンも退社に追い込まれた。PS1の発売後一年も経たない状況で、SCEアメリカの上層部はシェアを獲得したのにかかわらず一掃されたことになる。その出来事はフォーブス誌で「よくやった! キミはクビだ!」という特集を組まれるに至った。

その後のオラフソンは金融企業であるアドバンタコーポレーションの社長になったり、タイムワーナーに入社したりと、ゲーム業界から離れたように思われた。ところが実は、彼は時限爆弾をセットしていたことがわかった。

2009年、オラフソンが社長をしていたアドバンタコーポレーションは廃業に追い込まれた。その際、大量にあった荷物を適当に段ボールにつめてオークションを行った。その際の一つをテリー・ディーボルトという男が75ドルで競り落とした。

段ボールの中身はCDや靴、ネクタイといったもので、テリーはそれを屋根裏に放って、そのままにしておいた。6年後の2015年、テリーの息子であるダン・ディーボルトがその荷物を確認すると、一台の見慣れないゲーム機らしいマシンを発見した。

ダンは、じきにそれがまさしくプレイステーション0であったことを知る。これが世界で初めてネットの海に姿を表した、プレイステーション0である。


セガとソニーはプレイステーション0の破綻をきっかけに提携し、そして競い合う立場となった。今となってはすべて過去の話であり、よきパートナーシップを築いた今では懐かしい話題でしかないだろう。そんな中、現物のプレイステーション0が発掘されたのは、何かの運命が動いたということだろうか。

家庭用ゲーム機の歴史は、歩みを止めずこれからも続いていく。

─ 終わり ─


参考文献

元社長が語る! セガ家庭用ゲーム機開発秘史 佐藤秀樹
セガvs任天堂  ブレイク・J・ハリス
美学vs実利   西田宗千佳
SONYの旋律  大賀典雄
久夛良木健のプレステ革命 麻倉玲士

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