東京都国立新美術館 クリスチャン・ボルタンスキー「Lifetime」展 アーティストトーク記録
このnoteは2019年6月12日~9月2日に東京都国立新美術館で開催されたクリスチャン・ボルタンスキー「Lifetime」展初日(6月12日)、作家本人によるアーティストトークの記録です。
この展覧会は大阪→東京→長崎と巡回しており、前回の大阪会場でのアーティストトークも記録していますので気になる方はこちら↓からどうぞ
https://note.mu/syosaida/n/n5b1a673bd419
フランス語で話すクリスチャン・ボルタンスキー氏の言葉を通訳の方が訳し、それを速記にて記録したものですのでアーティストの言葉を100%記せれたものではなく、聞き取りミスなどの可能性がある内容であることをはじめにご了承ください。当日会場で聴かれていて間違い箇所に気付いた方はコメントなどで報告頂けると助かります。
ではここからアーティストトークの内容となります。
皆様、本日は御来場、誠にありがとうございます。ここに来てくださっていることを感謝致します。既にこの展覧会をご覧になった方も多いと思いますので皆様にスライドをお見せすることはしません。それらは皆様の記憶の中に存在していると思っているからです。
はじめに……この展覧会「Lifetime」というタイトルについてお話したいと思います。
ある程度の年齢を経ると自分の人生を振り返ることは驚くような体験です。自分がなにをしてきたかということを再び見るわけです。今回の展覧会は私にとって沢山の思い出に満ちたものであり、自分の芸術家としての人生のいわばレジュメになっています。また同時にこの展覧会が皆様1人1人にとっての「Lifetime」であってほしいと思っています。
この展覧会の最初の作品「DEPART」フランス語で出発という文字が電球で描かれています。そして最後の所には「ARRIVEE」到着という文字が描いています。
結局人生とはなんでしょうか?私が思うに、まず「出発」があって、そして少しばかりの「塊の時間」を過ごして、最後に「到着」をする、すなわち死んでゆくのです。
この展覧会の入り口付近には1969年に私が制作した短編映画が上映されています。まだ自分がティーンエージャーだった頃の作品です。そして展覧会の最後の所には今回の展覧会のためにあらたに制作した作品が展示されています。それはいわば日本文化に対するオマージュで廊下の両側に影が投影されている作品です。
会場に訪れた皆様が自由に会場内を歩いて欲しいと思っています。自分にとって必要なことを自由に感じとっていただければと考えます。けれども一つの道がこの展覧会にあることはたしかです。ひとつの連続性があります。それは私自身が提起する問題点/疑問の連続性です。
私の作品はおおまかに分類すると3種類にわけられると考えることでできます。
第一の分野は「モニュメント」「聖遺物箱」「保存箱」などの古典的な作品です。これはかなり昔に作った作品で、別のところに運んで展示することができるもので、美術館や自宅においておくことができるものです。
第二の分野は「ぼた山」などです。毎回壊して別の場所で作り直すことができる作品です。これは例えば伊勢神宮が何年かごとに壊されて同じものが建てられることと同じです。
第三番目の分野は「ミステリオス」「アニミタス」などの作品です。実際にこれらの作品を見ることはできません。野外にあった作品は風や嵐などによって破壊されもはや存在していないでしょう。ですから作品は完全に物質性を失い、伝説/伝承として存在しています。
このように分類分けをしていますが、私は展覧会全体をひとつの作品として考えています。ですので作品にキャプションやタイトルなどをつけていません。展覧会を訪れた人が道を彷徨い歩き、まるで一つの作品の内部にいるように感じて欲しいと思っているからです。異なる作品が並んでいるのではなく全体としてひとつの作品として鑑賞してもらいたいのです。
多くのアーティストが自分自身が提起するテーマについて繰り返し語り続けています。アーティストにとっての始まりにはいつもトラウマがあります。生涯を通じてアーティストはそのトラウマを理解しようとし、そしてそのトラウマにめぐる疑問を提起しています。しかし、トラウマに対する答えは見つかりません。私の場合、それは子供時代に関わるテーマなのですが、その同じテーマに対する見方が年を経る毎に変化しているだけなのです。
アーティストが生涯をかけて提起する問題の数は少ないのです。それは哲学者にしても神学者にしても同じでしょう。アーティストが提起する問題とは
「神との関係、神聖なるモノとの関係」
「死の問題」
「セックス(性)の問題」
「自然の美」
などについてです。このような同じテーマを時代を経て繰り返しているのです。私自身、アーティストだと自分を感じることはありません。むしろそのような疑問提起の殿堂につながっているに過ぎないのだと感じています。
私にとってアートとはこのような実存の問題を提起することです。感動を与えることはあるかもしれませんが答えを与えることはできません。そして私が提起する実存の疑問が、作品を観た方の中であらたな疑問を生み出すことを願います。
各作品が一つの疑問になっています。私自身は私達の周りにスピリット/魂が漂っていると感じています。亡くなっている人を思い出す限り、その人の魂はそばを漂っています。ですから私の作品はいわばそういったスピリット/魂でもあるのです。
私の展覧会をご覧になった方は初期の作品と最近の作品を比較すると私が「落ち着いている」と感じることができるのではないでしょうか。「アニミタス」という作品の中には沢山の小さな風鈴がでてきます。あの風鈴はさまよえる魂なのです。そこには静寂感があります。また「ミステリオス」においてはクジラに語りかけているのですが、いわば自然の中に入り込んでその地に生きる者たちに対して話しかけています。これも同様に静寂で落ち着いた作品であると感じるのではないでしょうか。つまり、アートによってトラウマを治癒することができる、アートによって少し気分が良くなるという事が感じることができるのではないでしょうか。
芸術の言語が美しいのはそれが不正確である、明確ではないからです。作品に触れた人がその曖昧さの中に自分が読み取る必要があるものを読み取るのです。
言語の中では「詩」だけが明確であり不正確であります。
今、私はこうやって言葉で話していますが言語は明確でありすぎます。全ての人が自分の空想力で「考える自由」を残しておくべきでしょう。作品を完成させるのは観客です。それは例えば映画が上映されている時、同じ映画をみていても自分自身が生きた体験や自分の過去とともに見るわけですから観客それぞれが異なる映画を観ています。
はじめて日本で展示したのはずいぶん昔、名古屋での展覧会です。その時、私は床に古着を敷き詰めた作品を作りました。私にとって古着は人々の記憶や思い出。それはユダヤ人の強制収容所の記憶、私にとってのトラウマにつながるものでした。
ですが名古屋の人達は仏教の禅の伝統の中にある「死者達がいる湖」を思い浮かべたようです。「死者」という点以外はまるで違うものですが、アートは普遍的であり、それぞれの人が自由に読む解く事が重要でしょう。
名古屋で私の作品を観た人達は私の作品が日本的で私の外見も日本人のように見える。おじいさんは日本人ではないかと言ってくれました。それはとても嬉しいことでしたが、それと同時にもし自分がアフリカで展示をしたとしたら私の作品はアフリカ的であり私の外見がアフリカ人のように見え、私のおじいさんはアフリカ人ではないかと言って欲しいのです。
私のアーティストとしての夢は、鏡のような存在になること。作品を観る人が自分の姿を作品の中に見つけてくれることだと思います。
作品はなるべく普遍的であって欲しいのです。ですから私の観る人が「何故この人は私についてこんなに知っているのか?」と感じてほしいのです。アーティストは自分自身がストーリーを語るわけですが同時に観客にとってのストーリーでもあってほしいのです。
私は日本の伝統から影響を受けています。それは神道の伝統です。私は伝達の方法に興味を持っていて、日本の場合、伝達は物ではなく知識によって行われます。十年ごとに神社を壊してまた同じもの作り直せる。庭園であれば毎日その庭園は壊され同じ庭園を作り直されているのです。それは作り方の知識をもっている人達によってその方法が伝達されてゆくからなのです。
黒い衣服の山「ぼた山」という作品はベルギーの美術館の所蔵作品となっています。私は美術館からお金を受け取りましたがなにも渡していません。ベルギーの美術館はいつか「ぼた山」をもう一度作り直せるという権利をもっているだけなのです。ですから作品は物質性を持たず、私が死後も作りなおせるのです。
今回のような展覧会を準備する時、私は作品を作り直して展示スペースにあわせてあらたなインスタレーションとして配置します。
今回の展覧会では大きなビスケット缶の壁ができている作品があります。それは高さ5mもある作品です。あの作品は東京都現代美術館所蔵の作品なのですが、もともとは高さ1.2mの横長の作品でした。今回、東京都国立新美術館の高い天井を見た時にこの作品は縦長の高い作品であるべきだと考えました。そこで東京都現代美術館の許可を得て形を変えたのです。
いくつかの作品が進化をしていきます。たとえば床にたくさんの電球を置いた作品「黄昏」があります。展覧会の会期中毎日ひとつづつ電球が消されてゆきます。今日は初日ですからあの作品は電球が全部灯された明るい作品ですが展覧会最後には真っ暗になる。すなわち、ゆっくり死んでゆくのです。
いくつかの作品は最近の出来事にまつわるものがあります。たとえば「黄金の海」という作品はエマージェンシーブランケットが床に敷き詰められています。あの作品を作った時、私は地中海で毎日死んでゆく移民のことを考えていました。あの作品は黄金に輝いた美しい海なのですが、それはエマージェンシーブランケットで作られています。ですから悲劇的な部分があるのです。
ミステリオスという作品は3つのスクリーンに映像が投影されています。南米のインディオの間ではクジラは歴史の始まりを知っている動物だと言われています。私は歴史の始まりを理解しようと努めましたが、いっこうにわからないので絶望のあまりその質問をクジラにしてみることにしました。あの映像は南米のパタゴニアのとある場所なんですが、そこに金属製のトランペットを配置しました。そのトランペットの中を風が通る時にクジラの言語を話すようにしました。
もちろんクジラからの返答はありませんでしたが、そこには「質問を投げかける/答えを知りたい」いう欲求があるのです。
あの場所は嵐が来る場所ですからあのトランペットは既に壊されて存在していないでしょう。だれもあの作品を観た人はいませんし、パタゴニアのどこにあるのかもわかりません。けれども、いつか一つの伝説が残ることを願います。
「あるときあの地に少しクレイジーな男がやってきてクジラに話しかけていた」
そうした伝説が残ることを願います。私は今は作品ではなく神話を作り出そうとしています。
それは豊島の「心臓音のアーカイブ」にしても同じです。私は10カ国で人々の心臓音を録音し、あの場所には7万人の鼓動が保存されています。
私が望むものがは私が亡くなった後、私のことが忘れられた後にあの場所が巡礼の場所になることです。たとえば亡くなった祖母の心臓音を聞くために訪れる、そういった場所であってほしいのです。その場所を作ったのが誰なのかは問題ではありません。
これにより豊島が「アートがある場所」ではなく宗教的な意味をもつのです。豊島にひとつの伝説を作っているのです。
しかしながら、亡くなった祖母の心臓音を聞いて感じることはその祖母が存在していた事以上に、祖母がもうここにいないこと。すなわち「不在」を感じるでしょう。亡くなった人の写真と同じです。その人の「不在」が実感されるのです。
私の人生にとっての大きなテーマは各人間存在がかけがえのないユニークな存在である事です。そしてユニークな存在であると同時にあまりにも早く消えてしまうことです。
たとえば私達は祖父母について思い出すことはできますが、曽祖父母ついては思い出すことが難しいでしょう。豊島には7万人の鼓動が集まっていますが、その7万人全てがユニークな存在であり、他では置き換えがきかないものなのです。
私の初期の作品と最近の作品の間には一つ大きな違いがあるでしょう。初期の作品において私は他者の死について語っていましたが、年齢を重ねるにつれ、私は自分自身の死について語るようになっています。
展覧会で小さな画面で沢山のビデオが展示されていたのを覚えていると思います。私は10年前にタスマニアに住む1人の男に私の私生活を売り渡しました。私のアトリエでの生活が常に24時間監視カメラで撮影されてリアルタイムでタスマニアに送られています。その映像がタスマニアの地下、まるで墓地のような場所のハードディスクに保存され、いつでも見る事ができます。そこには何千時間分も私のアトリエの風景が今もなお記録され続けています。今この瞬間、私はアトリエではなく東京にいるとしてもです。
この作品を買った人物は私の生活ではなく私の記憶を全て買い取ったと言っています。例えば5年前の11時に私が誰にあっていたのか、私が忘れていたとしても彼にはわかるのです。
私は私生活を彼に売った時に特別な契約をしました。それはいわば「生涯年金」という形です。すなわち彼は私が死ぬまで毎月定額を払い続けなければなりません。
この作品を売り渡した相手はギャンブラーでした。
私は私生活を売り渡すにあたりある程度の金額を提示したのですが、彼は競馬や様々なギャンブルで負けたことがないから「生涯年金」方式なら絶対に私が最初に提示した金額全額を支払うよりも先にあなたが死ぬだろうといいました。
様々な健康診断をしてから「生涯年金」による契約を交わしました。賭けに1度も負けたことがないから自分のほうが徳をするだろうと彼は言っていました。ところが数ヶ月前に私が最初に提示した金額よりも彼が支払った額の方が大きくなりました。そう、私は彼に勝ったのです。つまり私が長生きをする限り、彼は悲惨な損失をこうむるわけです。
タスマニアには象徴的な動物がいて、それはタスマニアの悪魔と呼ばれています。偶然よりも自分のほうが強いと思っている人は悪魔であると言えます。したがって私は悪魔と戦っています。
私は生涯を通じて偶然というものに興味を持っています。それは宗教的な問題でもあります。この講演会が終わって道に出た時に車に轢かれたとしたら2つの可能性について考えることができます。
①世界はオーガナイズされている。
それはどこかに運命として記されていて、東京での講演会の後に車に轢かれる運命だったという考え方です。それは宗教的な考え方でもあります。
②全ては偶然である。
例えば誰かに呼ばれて振り返ったから轢かれた、とか全ての物事には意味がないと考えることです。
このように運命と偶然の関わり方に興味がありそれをテーマにした作品を多く作っています。
過去に死と偶然の関係についての作品を作りました。古着の山を作り、そこへクレーンが来てそのなかから衣服を掴んでそれを捨ててゆくという作品です。クレーンはいわば神の手のようなもので、偶然私達の中の誰かを掴んでそれを捨てることができるのです。
もう1点。ベネチアヴィエンナーレで展示した作品。「シャオス」という作品があります。これは7000人の赤ちゃんの顔を映した長いリボンのようなものが新聞の印刷機のように早く流れています。そして時々コンピュータがその機械を止めて1分間そこで選ばれた赤ちゃんの映像が投影されます。すなわち7000分の1が偶然選ばれるのです。
信仰によって運命が偶然に結びつけられています。例えば私の両親がセックスをしたのが1秒後だったのだとしたら私は女性だったかもしれないし顔も違ったのかもしれません。我々全員が我々の両親が互いの身体のうえに身を投げかけたその瞬間の偶然に依存しているのです。
私は先祖を信仰していますから、私達の顔や精神は私達の前にいた祖先の集合体だと思っています。それらのパーツは両親がセックスをしたその瞬間にランダムで決まるのではないかと思います。それが1秒後だったのであれば私の鼻は祖母に似ているのではなく曽祖父に似ているのかもしれません。
そろそろこのあたりで私の話を終わりにして皆さんに質問に答えたいと思います。最後に1つ伝えたい事、それは「物事のすべてが続いていく」ということです。
数ヶ月、数年後、この場所でアーティストが公演をしていてそして人々が聞いているのでしょう。話しているのは私ではないでしょうし聴いている人の多くは今ここにいるみなさんではないでしょうが、物事それ自体は絶え間なく続いてゆくのです。
↓ここから観客との質疑応答となります。前回大阪会場でのアーティストトークの記録では質疑応答の部分は省きましたが今回は記述します。
Q1「初期の作品で被害者と加害者をごちゃ混ぜにした作品があったと思うのですが、初期の頃の作品から運命と偶然を結びつけるという考えはあったのでしょうか?」
初期の作品はテーマが異なっています。すなわち「ほとんど全ての人間がほとんど全てのことができる」ということです。
よく講演会で語るエピソードです。戦時中両親は猫を飼っていましたがユダヤ人は当時猫を飼ってはいけなかったのです。ある日、両親の猫が隣の家でおしっこをしてしまいました。すると隣に住んでいた人がやってきて、
「今日中に猫を殺せ。そうしなければあなたがたがユダヤ人であると警察に告発する。そうするとあなたがたは殺されるだろう」
と言いました。彼はけっして悪人ではありませんでした。けれども人を殺す権利を得ると人はその権利を行使してしまうのです。
犠牲者の顔が殺人者の顔に似ている場合があるのと同じく、犠牲者もまた殺人者になることがあるのです。
例えばある男性が自分自身の子供にキスをする。しかしその人が軍人であれば数時間後に他人の子供を殺すことができるのです。
Q2.「大阪の展覧会も拝見させていただきました。そこで東京都国立新美術館との会場の違いで難しかったこと、意識して変えた箇所があれば教えてください。」
それは演劇であれば、同じ戯曲であっても演じられるたびに演出が異なるのと同じです。
私にとって空間はとても大事です。今回の展示会場はとても広かったので、それらを仕切る為に特別な壁を作りました。これにより拘束のある場所が生まれ、面白い効果が生まれました。
私は美術館ではない空間で展示をするのが好きです。教会や工場で展示したことがありますが、そういった場所は美術館よりも面白いと感じました。
大阪との大きな違いですが、先程の話でも少し触れましたが「天井がとても高いこと」そのため、空間に合わせて作品に対して様々な変化を与えたという点です。
Q3.「大阪会場でも展示していた『黄昏』について。あの作品は毎日電球が消え、最後には暗転するというコンセプトの作品ですが、私は何度か大阪会場を訪れ、またSNSで電球の写真をチェックしていました。計算上、最終日はコンセプト通り全ての電球が消えていると推測していましたが、しかし実際に会場へ行くと1つ電球が残っていました。それにはどういった意図があるのでしょうか?また過去に『黄昏』を展示した時も同様にいくつか電球が残っていたのでしょうか?」
1つだけ電球が付いて残っていたからこそ他に消された電球が存在していた事がわかるのです。全てが消えていたらなにもわからなくなってしまうでしょう。
しかし、それは運命ではなく偶然です。私は美術館側に明確な指示を与えたわけではありません。ただ単に毎日電球を消すように指示しただけです。ひょっとしたら大阪国立国際美術館の最終日の閉館後、最後の1個が消えたのではないでしょうか?
私のとても好きな逸話があります。ある年老いた知恵のある僧侶が死を迎えつつあります。その瀕死の僧侶の周りを多くの僧侶が取り囲んでいます。
一番若い僧侶が年老いた僧侶に聞きました。
「人生とはなにか?」
年老いた僧侶が
「人生とは泉である」
そう答えると、若い僧侶が
「人生が泉ですって?そんなバカな」
と、呆れたように返しました。
(なんだって!人生は泉ではないのか?)
驚いた年老いた僧侶はそのまま亡くなりました。
すなわち、答えはない。人生は泉であってもそうでなくてもそれは重要ではないのです。
私達は疑問だけを抱えていて、その答えを持っていないのです。
Q4.「ボルタンスキー氏のユニークな視点や考え方から見て、日本の神道やアミニズム、シャーマニズムについてどのように捕らえていますか?」
私にとって世界の全ての人間存在は知識という閉ざされた扉の前にいます。そして各人がその扉を開くための正しい鍵を探しています。ところがその扉を開く適切な鍵はありません。けれどもその鍵を探し続けなければならないのです。
Q5.「ボルタンスキー氏は幸福や悲しみをどのような時に感じますか?」
私は美術学校で講師として生徒に様々な事を教えてきましたが、アーティストが唯一できることは「待つこと」と「願うこと」だと話しています。
私はなにもしないで待っている時間がとても長いのです。自分にとって最良の時間はなにもしないでベッドで横になっていることです。しかしなにもしないことはとても辛いことです。ですから展覧会を開催をしたり東京へきたりするのです。
正直なところ、ベッドで横になってテレビを見ているほうが幸福なのかもしれませんね。
Q6.「今度どのような神話を作ってみたいと思っていますか?」
私にとって神話が美しいのは神話は時間を経るにつれて変わっていくことです。ですからこれという神話が良いというのではないのです。
それぞれの文化にそれぞれの伝説が存在しています。私は初期の頃、レヴィ=ストロースに影響を受けました。レヴィ=ストロースは神話の研究をしてその素晴らしさを語っています。私自身は特定の宗教を信仰していませんが宗教は全て素晴らしいと思っています。何故なら必ず多くの伝説があるからです。
レヴィ=ストロースは神話以外にもブリコラージュ、すなわち手作りの仕事の話をしています。手でつくったものですから小さくて儚いものです。私はそういった儚さが好きです。
宗教を勉強するといつもその美しさに惹かれます。素晴らしい伝説がそこにあるからです。ユダヤ教に大変美しい伝説があります。
母の胎内にいる時、子供は全てを知っている。けれども産まれた瞬間に天使がやってきて鼻の下に指を当てます。そうするとそこにくぼみができる。その天使に指を当てられた瞬間に胎内にいたことを忘れてしまう。そして私達は一生をかけて胎内にいた時の記憶を思い出そうとするのです。
この神話、大好きです。
以上、東京都国立新美術館 クリスチャン・ボルタンスキー「Lifetime」展のアーティストトーク記録でした。
大阪国立国際美術館でのアーティストトークはこちら↓
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