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学びに必要なことは“オタク気質”にある

オタクこそ学びの最上級者だ

ひと昔前、『オタク』というものがまだ世間的に認められていなかった頃、世の中での『オタク文化』の立ち位置は危ういものだった。
そうしたマイノリティと呼ばれる少数派の人々は、認知されても理解されることは少ない。それは、世間的には多数派の意見が尊重され、少数派の意見というものは軽視されるものだからだ。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という三宅香帆さんが書いた書籍の中にも書かれていたが、こうした『オタク』というものが認知されて、確立した文化を形成したのは、2000年代初頭に発表された『電車男』の影響があるだろう。
こうした文化は、受け入れられて“中の人々”が増えてくることによって少数派から多数派に変わってくると、途端に濃度が薄まっていくように思う。
つまり、『オタク文化』というものは、現在よりも2000年代以前の方が濃い文化だったように感じるのだ。
そうした熱量を高く持った『オタクたち』は、異種独特な雰囲気を持った人物が多かった。
当時の『オタクの聖地』は秋葉原である。
アキバも現在のように明るいイメージではなく、集まっている人も当時は「キモイ系」と言われる人物が多かったのだ。
服装も髪型もダサく、女性には到底モテなさそうな人物が多かった。
それでも、特定の界隈では確立されたコミュニティが存在していて、そこに住む“ネット住民”と呼ばれる人々の中では、固定客が大金を落としてその世界を支えていた。

私もこの当時、こうしたコミュニティに入ることに恐怖を感じていた。
アニメやプラモデル、ネットにも興味があったのに、それらのコミュニティには恐怖を感じていたのである。これはなぜだろうか。
それは、こうした『専門性の高い特定のコミュニティ』の中には、どこで勉強したらいいのか解らないような知識を持った人たちで溢れているからだった。
学校の勉強なら、教科書や参考書がある。
しかし、『オタク』が持っている情報というものは、「本当に好きで興味関心がないと得られない知識に溢れている」というハードルがある。
これが原因なのだ。

2000年代初頭以前の『オタクたち』は、濃度の高い、入る者を選ぶ、限定したコミュニティを形成していたのである。
こうしたコミュニティに入る者は、“ファン”ではなく“推し”に変わっていくことになり、むしろマニアックな知識をひけらかすような場所として確立されていったのだ。
『オタク』というと、“コミュ障”と呼ばれるような、人と話すことが苦手な人たちの集まりかと思いきや、どんなコミュニティよりも人との円滑な人間関係が求められる場面さえある。
同じくらいの知識なら、同じくらいの立ち位置でいいが、自分よりも遥かに高い知識を持った人物には敬意を持って接する必要が有ったのだ。
専門性の高さが、地位を確立するような、まるで年功序列が横行していた当時にも関わらず、2020年代である現代社会を表すような“能力階級制度”に近い。
いわば、時代の最先端を走っていたのである。
しかし、いつの時代でも、突き抜けた文化は見向きもされない事が多い。
それを証拠に、2020年代の現代において、そうしたコミュニティ作りを誰もが目指している。当時の、秋葉原やネット民を生み出したいのである。

こうした当時のオタクに注目するべき点は、他にもある。
それは、“専門性”である。
例えば、ある『アイドルオタク』がコミュニティを形成した場合、そのアイドルが2次元であっても3次元であっても同じだが、「どこが好きなのか?」という意見は多様に分かれる。それは、髪型や容姿といった「見た目」も去ることながら、話し方や声といった「中身の部分」であったり、振り付けや仕草といった「スキル」に至るまで、さまざまに分かれる。
そして、それらのカテゴリー別に、『オタク』が存在するのだ。
「〇〇でおこなったイベントで着ていた衣装の中でも、特に好きなのは頭につけていた髪飾りである。あの髪飾りは、半年前の〇〇のイベントで登場していて……」
といった具合に、語る事ができるのだ。
こうした『オタク度数』というスキルを身につけるためには、「いかに好きであるか」という部分だけが重要視される。
好きであれば、好きであるほどに、『オタクスキル』は高いはずなのだ。
だから、専門的知識の高いオタクが、オタク社会の中でも一目置かれる存在になるのである。

2020年代である現代では、オタクが認知されて、オタクという言葉さえも薄らいでしまったが、この“専門性が重要である”部分だけは残っているように思う。
『推し活』と言われるようになった活動だが、その特定のコミュニティでは専門知識の高い者がコミュニティをまとめている事が多い。

これは、“学びの本質”なのではないかと思うのだ。

好きだから調べて、好きだから学ぶ。
こうしたスタイルこそが、学びの“あるべき姿勢”なのだ。
「能動的に学べ」などと言っても、能動的になるものではない。
「好きだから学ぶ」いうことを積み重ねるだけで、自然と専門的な知識にまで到達するのだ。

『オタク』になろう。
自分の好きなことを、「好きだから」という理由で学んでいこう。

「好きこそ物の上手なれ」なのだから。

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