笹井宏之という歌人がいる。私は笹井宏之が好きだ。
笹井宏之の「えーえんとくちから」という歌集を読んでいた時、その中に気になる歌があった。
「百合にならなくてもいいからね」とはどういう意味だろう。
ユリは何の喩えになっているのだろうか。
そういえば、お見舞いにユリの花はNGだという話を聞いたことがある。
それは香りが強いことと、下を向いて咲くからという理由からきているという。
そこから考えると、つまり「百合になる」とは俯いてしまうということではないか。
シゲヨさんには何か辛い過去があって、主体はそんなシゲヨさんに優しく寄り添っている。そう読むことができるだろう。
下を向いて咲くユリの様子を詠んだ歌は他にもある。
ただここで思い出したのだが、私が最近見たユリの中に上を向いて咲いているものがあった。
気になって世界有用植物辞典を引いてみたところ、
とあった。下を向いて咲くユリはごくごく一部のようである。
ユリが登場する短歌には以下のようなものもある。
ユリは純潔、謙虚さ、優しい心、美のシンボルであるらしい。上記の歌はそれを反映しているようだ。
純潔さのシンボルである以上、その反対である性にも結び付きやすいのだろうか。以下の二首は性愛の短歌である。
そして美しさは怖さにも繋がるようだ。以下の二首はどことなく怖い。
ユリの登場する歌の心理的背景は様々であり、ユリは多様な心象のシンボルになっていると言える。
今回は近代・現代短歌だけを取り上げたが、ユリの花は古くから日本で愛され和歌に詠みこまれており、万葉集にも登場する。
最後に、夏目漱石「夢十夜 第一夜」よりユリが印象的なクライマックスを引用する。
「心持首を傾けていた」とあるが、
「真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った」、
「遥の上から、ぽたりと露が落ちた」、
「自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁(はなびら)に接吻した」、
という描写から、このユリは上向きに咲いていたように思える。
ただこれは夢の中の話であるし、東京大学理学系研究科教授の塚谷先生は著書の中で、
とおっしゃっている。
種同定をしようとするのはどうも無粋なことのような気がするので、このあたりで終わっておこう。
それを言い出すと、短歌に登場する植物についてあれこれ分析することも無粋なことのような気がしてくるが…。