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自己肯定感の話その1

こんにちは。久しぶりの投稿です。
今回なんですが、僕自身の自己肯定感についてのお話を皆様としようと思うわけです。中学生の頃からずっと自己肯定感が低いのですが、ここ一年ちょっとの間でこの現象の理由と本質が見えてきました。


自分軸と他人軸

よく人の行動が自分軸と他人軸の二つに分けて考えられることがあるじゃないですか。
あれって別物という扱いをされていますが個人的にはほぼ同じもので、見え方がただ違うだけのものなのでは?という感じがしてしまいます。
というのは、自分がずっと他人軸を掲げて行動をしてきたものですから他人軸という言葉に対する懐疑って深いんですよ。他人軸って何が正解なの?というような。
そもそも自分軸は、「自分がこうありたい」という理想を基にして行動する事を言います。一方で他人軸は自分のやりたいことよりも相手の考えを尊重するというものだそうです。

自分の行動は自分軸?他人軸?

自分軸と他人軸の定義を確認したところでじゃあ自分の今までの行動はどちらに当たるのかというのを少し確認してみようと思います。
中学校から大学4年生に至る今まで常に他人軸が頭の片隅にしがみついていて振り払おうにも振り払えない呪縛とも言えようものが自分にとっては他人軸なんですね。
学校って何かと他人への配慮を求められるじゃないですか。
特に中学生の時には室長(学級委員的なやつ)を務めていたこともあってリーダーとして動くことが多かったんです。ただ、自分は先頭に立って引っ張るようなタイプではなかったので常に周りを見つつ遅れる人がいたら後ろから押していくというものでした。
思い返せばこの頃から自分よりも他の誰かという感覚だったのかもしれません。
一般的にこの感覚でいれば賞賛されることが多いしその点だけ見ればいいことなのかもしれませんが、そういう人だという認識が広がってしまえばそれはただのいい人にしか過ぎなくなるわけで。自分の行動原理に対して疑問を抱き始めるのはこのあたりからです。
一度こちら側に入ってくるとなかなか抜け出せなくなってしまうんですが、抜け出せなくなった結果が今に至るわけで。

他人軸から「自分を殺す」へ

高校に入ってからもこの癖は抜けなくて、部活に入ってからも常に一歩引いて接していたんですが、この頃から少し変わってきて「自分を殺す」という意識に変わっていったんです。
これが自分の中では大きなポイントで、自分を殺し始めてからというものどんどん自分の思うことを発信できなくなったんです。
これがまだ他人軸が強かった時期ではところどころで自分の思っていることをしっかり発信できていたんですが、意識の転換が行われてからはそれを無意識のうちに止めるようになってしまったんです。

自己肯定感の根源を失った高校生

先ほど他人軸から自分を殺す方向へと変わったという話をしましたが、こうなってくると自己肯定感を上げる術を自ら手放すことになるんです。
というのは、他人軸がある状態では意図的に相手の考えを尊重した行動を行うということなので、いわば送りバントという自らの役割を確立した上での行動というわけですから自己肯定感というのはそこから上げることは可能なんです。
ただ、自分を殺す方になると無意識のうちに自分を引っ込めてしまうわけですからそこから生まれるものって何もないんですよ。
だから自分にとってプラスになることって何もないし、自己肯定感の向上につながることなんて一つもないんですよね。
結局このモードに入ってからというもの22歳の今に至るまで抜け出すことは出来ていません。


大学生編は話が重くなる気がするので別にします。
それでは今回はここまで。ばいばい



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