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武道に目覚める

近所にあった「江戸川総合体育館」で行われていた空手クラブ「正晃館空手道場」過去の事件のせいで、どこに行っても受け入れてくれない自分を受け入れてくれたのは、空手だけでした。
一人で行くのは、緊張するのでバイト先のお兄さんと連れだって体験を申し込んだ。お兄さんは大学行事が忙しく入門は断念されたが、入会費と道着代を貸してくださり入門することができました。
今、想うとあの時の親切がなければ空手を習うことがなく自分の人生も変わっていたと考える事があります。
小岩に本部道場があり、新聞配達で稼いだバイト代で会費を払いました。
中学生でありながら、新聞配達をしながら道場に通っていると聞いた先輩方が、強く優しく激励をしてくれました。
「重松くん、いろいろあっても、いつか必ず今の苦労が身を結ぶ日が来るから、がんばってな」と励ましてくれた空手の先輩を忘れることができません。また、その少し前、小学校最後の学年で担任だった町永先生も忘れられない話をしてくれました。
町永先生は広島原爆の被爆者で背中には大きな火傷の跡があり、怪我をして泣いている子供がいると、その傷を見せて体験を語ってくれました。
「今、私が生きている事は奇跡であり、この世でやるべき仕事をするために、生かされているのだ」と語っておられたのを覚えています。
またあるときに、学校の前にある文房具屋(昔の学校の前には必ず文房具店がありました)の親父が自分のクラスに怒鳴り込みに来て「このクラスには毎日うちの賞品を万引きしている子供がいる」と先生の前に立ちはだかりました。「うちの生徒に限ってそんな子はおりません」毅然と答えるも、文房具の親父はツカツカと万引き犯の子供の前に行き目の前の文房具を取り上げ「これが、その証拠です」と子供に迫りました。
顔を俯き黙り込んでしまった子供に町永先生は「これを盗んでしまったのか」と諭すように聞きました。
罪を認めた子供を前に町永先生の取った行動を自分は一生忘れられません、文房具の親父の前に座りこみ土下座をして泣きながら謝ったのです。
「本当に申し訳ありませんでした、二度とこの様なことはさせません、どうか許して上げて下さい」
泣きながら許しを請う先生に驚いたのは文房具の親父と万引き少年でした。文房具の親父は真っ青になり「そ、そんな先生のせいではないので、頭を上げて下さい」そして万引き少年は大きな声で泣き出してしまいました。
「返してもらえばもう結構です」文房具の親父はいそいそと帰っていきました。先生は万引き少年に「どうしても欲しければ、頑張って働いて、それから手に入れなさい」と諭し、それ以降その少年は一切万引きをしなくなりました。ともすれば責任逃れしかできないサラリーマン教師が多いい中、これこそが本当の教育だと思いました。
そうした様々な体験を少年時代に積んできたので、自分が癌だと宣告されても、それほど恐怖は感じませんでした。
今まで元気に生きてこられた、それだけで丸儲けです。

夜間中学を卒業するまで、新聞配達を続けていました。
当時はまだ、現代のようにネットでニュースなど見られなかったから、新聞の配達員はいくらでも募集されていたような気がします。
配達は多く部 数を配ることによって、給料が決まります。
自分は一人が配れる限界の300部を朝夕配達しました。
日曜日などは広告が多く入るため、1回の荷積みを、どんなに高くしても乗せ切れず、何回も配達場所と新聞店を往復することになります。
配達が遅れると苦情が来てしまうので、夜中の一時には起きて、 2時には配達を開始しました。
 たまに新聞の集荷が遅れると、慌てて広告を入れて、大急ぎで配達をしました、自分は広告を入れる手作業が得意で、中学生でありながら1分間に200枚の広告を差し込むことができました。
 自分が配達する場所は都営住宅が多く、縦長の階段でエレベーターもついていません、5階一部だけを入れるとなると、何度も階段を往復しなければならないのです。考えてみたらその時に、足腰が人一倍強化されたのだろう、後に人をめったに誉めないキックボクシングの会長が「足腰の強さが魅力だな」と誉めてくれました。
 その後、夜間高校に通いながら、二十四年間勤める会社に就職 しました。とても変わった仕事で、毎週1回は火葬場に行き遺体を焼く窯 を掃除する仕事でありました。最近見たYahooNEWSに、飲酒運転で事故を起こした人間は、罰として火葬場の釡掃除をさせられると報道されて、思わず笑ってしまいました。自分は二十四年間も罪に服役していた ことになります。

こんな、駄文を読んでくださり貴方は仏様ですか?