コミュニケーションは約束事形成:コミュニケーション考2―爺のお勉強note
介護現場ではコミュニケーションが困難な当事者(お年寄り)も多く、また最近では海外から来ている介護職員も増えてきており、コミュニケーションに関わる問題、課題が先鋭化してきているように思われます。
そもそも、介護は相互行為です。そしてコミュニケーションは相互行為の最たるものです。この際、コミュニケーションについてしっかりと考えておく必要があると思います。
1.コミュニケーションと会話
コミュニケーションについて考えるとき、まず、コミュニケーションと会話の違いを明確にしておいた方が良いように思われます。
コミュニケーションと会話の違いは、会話は発語によるコミュニケーションに限定されますが、コミュニケーションは非言語的(表情、身振り手振り、態度など)かつ多様な形式(会話、文書、画像、映像など)によって成り立っています。
集合論の記号を用いてコミュニケーションと会話の関係を表せば次のようになると思います。
コミュニケーション ⊃ 会話
介護現場でも当事者(お年寄り)とのコミュニケーションといえば、即、会話を思い浮かべますが、表情や態度や身振りもコミュニケーション(メタ・コミュニケーション)に含まれることをしっかりと理解しておく必要があるでしょう。
特に、認知症や発語できない当事者とのコミュニケーションは表情や態度などの非言語的なものとなることが多いと思われます。
2.メタ・コミュニケーション
介護は当事者(介護される者)と職員(介護する者)との相互行為であるため、介護は対面的なコミュニケーション行為を必須とします。
しかし、コミュニケーションもままならない当事者(お年寄り)の介護にあっては「介護ではコミュニケーション行為が成立しているのか?」という疑問を持つ人もいるかも知れません。
認知症介護の現場で良く使われている用語に「偽会話」というのがあります。「偽会話」とは、認知症高齢者同士の間で、一見会話をしているようだけれど内容としては噛み合っていないものを指します。
例えば、次のような会話です。
Aさん「昼ご飯食べたましたか、」
Bさん「爪が伸びてしまって爪を切りたいんですよ。」
Aさん「お腹すきましたね。」
Bさん「そうそう、昔、私、マニュキュアしてたんですよ。」
そして、この「偽会話」は会話の流れ・内容は支離滅裂なのに、同調的・迎合的な雰囲気をお互いが一方的に作り上げて、情緒的に良好な交流をしていると思われます。
私は、認知症介護でよく知られるこの「偽会話」は内田樹(哲学者)さんが紹介しているローマン・ヤコブソン[1]の「メタ[2]・コミュニケーション」「交話的機能」だと思います。
内田樹さんはヤコブソンの具体例を示していますが、これが実に微笑ましいのです。
以上、紹介した交話機能、メタ・コミュニケーションも立派なコミュニケーションの一つです。
ならば、認知症の方のメタ・コミュニケーションを「偽会話」と呼ぶには少々抵抗感があります。なにしろ「偽」ではないからです。メタ・コミュニケーションのメタ(Meta)には超越したという意味もあるので「超会話」くらいにしたらどうでしょうか。
3.バケツリレー理論
三木那由他(哲学者)さんは一般的にコミュニケーションとは次のようなものだと捉えられていると指摘しています。
そして、三木那由他さんは多くの人が思っているこの一般的なコミュニケーションの理解をバケツリレー式コミュニケーション観と名付けています。
私は、コミュニケーションは情報伝達、情報のキャッチボールというイメージかなと思っていたことがありますが、このようなコミュニケーション観は、情報発信者と情報受信者が実体的、孤立的な存在であることを前提としてしまっています。そこには、発信者と受信者の関係性、共同性が欠落してしまっているように思われるのです。
また、このようなバケツリレー式のコミュニケーション観では、発信者のその発信内容が何を意味しているのかを決めるのは発信者だということになりますが、これでは「意味の占有」のような事態をうまく説明できません。
さらに、外国籍の方や認知症高齢者とのコミュニケーションが上手くいかないのは彼ら・彼女らのコミュニケーション能力のせいにされてしまいます。
コミュニケーションは相互行為であるにもかかわらず、外国人労働者とのコミュニケーションがうまくいかない場合、一方的にその外国人労働者の日本語能力のせいにされてしまいますが、これもバケツリレー式のコミュニケーション観の影響だと思うのです。
意味の占有に関しては以下のnoteを参照願います。
4.約束事としてのコミュニケーション
先に紹介しました情報交換を中心としたキャッチボール式、バケツリレー式のコミュニケーション観では「意味の占有」を説明できませんし、外国人労働者が急増している日本社会、介護現場でのコミュニケーション・トラブルは外国人の日本語能力だけのせいにされてしまいます。
コミュニケーションを単なる情報交換という理解ではコミュニケーション問題の解像度が低すぎるように思われます。
三木那由他さんは、コミュニケーションには「約束事を形成する」という側面があると指摘しています。
例えば、職員が入居者に「山田さん、最近、元気になりましたね。」と言ったとすると、それは「私はあなたが元気になったと思っている者として今後は振る舞うことを約束します。」ということになります。
そこで、職員が「山田さん今日の入浴は止めておいた方が良いですよ。」と言葉を継げば、それは先にした約束を反故にしてしまいます。これは、コミュニケーション・会話が文脈に依存している事実からしても理解できるでしょう。
また、例えば入居者から「カラオケやりたい」と言われ、職員が「いまは忙しいから後にして」とあしらったつもりが、その入居者から「いつカラオケするのか」と何度も聞かれて閉口してしまうようなことがよくあると思います。
職員は、忙しいから「カラオケをやる約束はできない」というつもりでも、入居者は、今以外だったら「カラオケをすると約束してもらった」と理解しているのでしょう。
コミュニケーション・会話は約束事を形成するものです。そして、その約束事は発語者の自由にはならないものだと、三木那由他さんは次のように指摘しています。
さて、介護現場でのコミュニケーション、約束事としてのコミュニケーションはどのようになっているのでしょうか?
私は、介護する者とされる者との関係の非対称性、権力性を考慮すれば、約束事が反故にされやすいのではないかと思われるのです。
認知症の方との会話においては、その方の言っていることをまともに受止めないことは多いですし、また職員が何らかの約束事をしたとしても、どうせ、相手はすぐに忘れてしまうと決めてかかっていることも多いのではないでしょうか。
このように、介護現場では、約束事形成としてのコミュニケーション・会話が成り立っていない場合が多いようです。
「相手の言うことを真面目に受け取らない」「自分の言っていることにあまり責任を感じない」そのようなコミュニケーションになり下がっているように思います。
5.共同的コミットメント
三木那由他さんはコミュニケーションは約束することだし、その約束事はある共同体への所属、コミットメントするということだと指摘しています。
三木那由他さんはマーガレット・ギルバート(Margaret Gilbert:イギリスの哲学者1942~)の共同的コミットメントという概念を用いてさらに敷衍しています。
要するに、コミュニケーションとは、それによって共同的コミットメントを作り出すものだということです。
それでは、介護現場でのコミュニケーションは共同的コミットメントとなっているのでしょうか?
同じ重力圏内で言葉を用いているのでしょうか?
発信者と聞き手が共通のコミュニティに属していると思われているのでしょうか?
私は微妙だと思っています。介護現場のコミュニケーションは職員側からの単なる指示、命令という単純な情報提供である場合が多く、また、当事者(入居者)からの発信、発語は軽視または無視されていることが多いように思われ、そこでは合意が蔑ろにされやすくなっているのではないでしょうか。
介護現場では、コミュニケーションをとおした共同性の形成が非常に困難になっているのだと思います。そもそも、入居者は職員にとって「われわれ」の範疇には入っていないように思います。
介護の世界で、三木那由他さんのいう共同的コミットメントとしてのコミュニケーションをどのように育てていくのかが問われているのだと思います。
[1] ローマン・ヤコブソン(Roman Osipovich Jakobson 1896~ 1982)は、ロシア人の言語学者。ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学など多数の大学で名誉教授を務めた。
[2] メタとは「あとに」という意味の古代ギリシャ語の接頭辞。転じて「超越した」、「高次の」という意味の接頭辞で、ある学問や視点の外側にたって見る事を意味する。
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