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マイクロアグレッション・外国人労働者への差別と連帯ー介護の国際化(3) 介護労働Ⅴ‐3


1.スティグマ

(1)多様性とスティグマ-あの人たちは違う-

 多様性を尊重すべき価値として紹介してきましたが、この「多様性」という言葉は要注意の言葉でもあります。
 伊藤亜紗さん(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)は次のように指摘しています。

『人と人の違いを指す「多様性」という言葉は、しばしばラベリングにつながります。』

伊藤亜紗2020「手の倫理」講談社p49

 要するに、多様性という言葉には、中国人なんだから私たちとは違う、ベトナム人なんだから私たちとは違う、というようなラベリング[1]にお墨付きを与える働きもあるということです。
 多様性からラベリングにつながっていく、そしてこのラベリングがスティグマ[2](stigma)「偏見や差別」の第一歩となるのです。

(2)スティグマの5つの現象

 熊谷晋一郎さん(小児科医/東京大学先端科学技術研究センター・特任講師)はスティグマの5つの現象を以下のように紹介しています。

①ラベリング:女性・子ども・障がい者など似た属性の人をカテゴリー[3]化すること

②隔 離:ラベリングしたグループの人たちを、時間的・空間的に分離すること。周囲と直接的交流や協働のない障がい者雇用や特別支援学級なども「隔離」の一例と考えられる

③ステレオタイプ:ラベリングした1つのグループの人たちを、「全員同じ」であるかのようにひとくくりにして見てしまうこと

④偏 見:ラベリングした一部のカテゴリーに対し否定的な価値を付与すること

⑤差 別:偏見を向けたグループを攻撃すること。「排除型」と「同化型」の2種類ある。

 ・排除型:特定のカテゴリーの人たちを排除する行動

 ・同化型:特定のカテゴリーの人たちを、多数派に強制的にあわせようとする行動

 熊谷晋一郎さんは、差別はスティグマに含まれる現象の一つであり、具体的な行動として表れた場合のみ差別ですが、人々が心の中だけで感じている「行動に表れないスティグマ」もたくさんあると指摘しています。

 介護現場でも、①ラベリング、②隔離、③ステレオタイプまではよく観られる現象でしょう。

 特に「中国人は・・・」「ベトナム人は・・・」「フィリピン人は・・・」「ミャンマー人は・・・」等々のステレオタイプに注意すべきです。

 同じ日本人でも様々です。中国人もベトナム人も、フィリピン人もミャンマー人も一人ひとり違います。この③ステレオタイプに否定的な価値が付与されると偏見となってしまうのです。

 外国人労働者を受入れている介護施設では、職員間のステレオタイプを臭わせる会話に注意を払う必要があります。

 スティグマを向けられた外国人労働者のモチベーションは大きく下がってしまいます。介護施設として介護サービスの品質を維持向上させるためにはスティグマを防止することが大切なのです。

2.マイクロアグレッション

 熊谷晋一郎さんは、このスティグマ対策についても紹介しています。

 基本はマイクロアグレッション[4](Microaggression)に意識を向けるということです。
 介護施設でも是非、このマイクロアグレッションという概念を意識し、この言葉を使用し、活用してほしいと思います。

Microaggression

 このマイクロアグレッションとは、日常の中に表れるスティグマのことで、意識的であれ無意識的であれ、人種、ジェンダー、性的指向、社会経済的地位、宗教、障害など、個人的特徴やグループ帰属に基づいて、日常的な短いやり取りの中で、他者を見下したり、軽蔑したり、否定的な態度を取ることと定義されています。

 マイクロアグレッションには3つの主要な形態があります。

(1)マイクロアサルト

一つ目は、マイクロアサルト(Microassaults「攻撃」)。

 これは意識的かつ意図的な悪意のある言動で差別行為です。当たり前ですが、これは明確な差別であって決して許される言動ではありません。

(2)マイクロインサルト

 第二番目は、マイクロインサルト(Microinsult「小さな侮辱」)で、相手の状況に対する無知からくる侮蔑、無視です。

このマイクロインサルトは、

① 能力や資質を人種に関連づけて評価する
② 二級市民(よそ者)扱いする
③ 文化・風習・宗教を否定的に評価する
  などの言動が該当します。

 例えば、①の能力や資質を人種に関連づけて評価するでは、「〇〇人だから怒りっぽい」、「〇〇人だから時間にルーズだ」、「〇〇人だから無責任だ」などの言動が該当します。

 ②の二級市民扱いでは「日本人以上に日本人らしい」、「日本人と同じ(だから差別しない)」などが該当します。

 ③の文化・風俗・宗教を否定的に評価する例としては「ヒジャブをかぶっていてダサい」「アーメン(キリスト教徒)だから日曜日に休みたがる」などが該当します。

(3)マイクロインバリデーション

 三番目はマイクロインバリデーション(microinvalidation「微細な無効化」)で外国人労働者の心理状態や考え方、感情、経験を排除、否定、無化、無価値化する行為です。

 例えば、マイクロアグレッションを向けられて困っている人に対して、善意で「考えすぎだよ」「落ち込まないで」という言葉をかけるのがマイクロインバリデーション。このような言い方は、相手が感じている感情や今までの経験を無効化していることになるのです。

(4)マイクロアグレッションという概念を活用しよう

 確かに、マイクロアグレッションを意識することは大切ですが、気にしすぎてノイローゼにならないようにしましょう。
 普通の人間は無意識にマイクロアグレッションを行っているのです。私なんかはマイクロアグレッションのデパートのような人間です。

 要は、外国人労働者が嫌だと感じるような言動がなかったかを率直に聞き、それを受け止めて、直せばよいのです。
 そのような機会をきちんと設けること。マイクロアグレッションについて率直に話し合うことができる職場の雰囲気、組織文化を醸成することが大切なのです。

 外国人労働者を受入れるに当たって、このマイクロアグレッションという概念を理解し、活用することがともても大切なのです。
 言葉、概念がないと認識しずらいことがあるのです。

3.インターセクショナリティ(交差性)と連帯

(1)インターセクショナリティ(交差性)

 社会には社会経済的属性に基づいたさまざまな関係性が併存しています。

「介護職-入居者」、「お客様-介護職」、「若者-年寄り」、「男性-女性」、「管理職-一般職」、「医療職-介護職」、「生産労働者-再生産労働者」「日本人労働者-外国人労働者」などなど、人は色々な属性を併せもっているのです。

 朱喜哲ちゅひちょるさんは、社会には、さまざまな属性を軸として、それぞれの軸に「力」の勾配があり、それらの軸が交差する「インターセクショナリティ(intersectionality:交差性)」があるのだと指摘しています。 

「社会にはさまざまな属性単位の「軸」があり、その両極に優位側(マジョリティ)と劣位側(マイノリティ)がある・・・こうした「軸」は数多く存在し、・・・「人種・民族」「ジェンダー・セクシュアリティ」以外でも、「心身機能の不具合」や「年齢」、さらには「容姿」とか「親の年収」といったものまで考えられます。」
「こうした社会的属性にかかわる多数の「軸」が行き交っており、それぞれの軸ごとに「力」の勾配がはたらいています。近年では、こうした描像を「インターセクショナリティ(交差性)」と呼びます。

朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p95,96

 

朱喜哲『<公正(フェアネス)>を乗りこなす』太郎次郎社エディタス

 当然、介護労働者もこのインターセクショナリティ、交差性のある社会を生きています。
 介護労働者は社会経済的には、再生産労働者ですので、生産労働者よりも低評価、低賃金となりがちですが、日本人労働者と外国人労働者という属性軸では優位側になっており「力」を有しているのです。

 私は、このインターセクショナリティ、つまり社会的属性軸の交差によって、ある社会的軸が他の軸に影響を与えているのではないかと思っています。
 例えば、社会的に低評価で低賃金の介護労働者という属性軸での劣等感が「日本人労働者-外国人労働者」という社会的関係軸での「力」の勾配の傾斜を強める、抑圧性を高める働きがあるのではないでしょうか。

 端的に言えば、「会社でないがしろにされている男性が、家庭では妻を蔑ろにする。」のと同じように「社会的に劣位の日本人介護労働者が、介護施設内では外国人介護労働者を蔑ろにする」ということがあるかもしれないと危惧しています。 
 一人の介護労働者の中に、さまざまな社会的属性軸が交差しているということ、そして、ある交差軸が他の交差軸の「力」の勾配に影響を与え合っているかもしれないことに留意することが大切だと思うのです。

(2)複数形のアイデンティティ(identities) 

 朱喜哲さんは、インターセクショナリティという観点から、人は複数のアイデンティティを有している、つまり、アイデンティティーズ(identities)という概念を紹介しています。

 「・・・わたしたちはみな複数の属性を併せもっているのであって、ある軸におけるマイノリティ性にばかり固執していて、別の面においてはマジョリティでもありえることを忘れるべきではありません。」
 「このように複数の軸が行き交う座軸のなかで、たえず自身の現在地ポジションが変わりうるというのが、インターセクショナリティをふまえて、複数形で語られるべきアイデンティティーズのあり方です。」

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p98

 私は、朱喜哲さんのいうアイデンティティーズという概念は、とても大切だと思います。

 介護労働者の意識は、「介護する人 ー 介護される人」という介護の関係性にのみ向けられがちなのですが、介護労働者にも、次のように、さまざまな社会的属性があります。

  •  私は男性(女性・トランスジェンダー)である。

  •  私は夫(妻)である。

  •  私は若い(中年・年寄り)。

  •  私はベテラン社員(新人・中堅)である。

  •  私は正職員(非常勤・嘱託)である。

  •  私は介護福祉士(実務者研修修了、初任者研修修了、無資格)である。

  •  私は主任(リーダー・平職員)である。

 このように、介護労働者にもさまざまな人格、ペルソナ、仮面、アイデンティティがあり、その都度の現在地ポジションについて自覚的であることが大切です。
 そして、性別、年齢、体力、学歴、国籍、生産関係など、さまざまな属性軸の中で「力」の勾配、権力関係に敏感であるべきですし、ある属性軸が他の属性軸に与えている影響についても自覚的であるべきだと思っています。  

 外国人労働者を介護現場に招くということは、介護現場に、「日本人-外国人」という新たな社会的軸、「力」の勾配を生むことになります。そして、それが、差別などにつながって行く怖れがあるのです。
 
 でも、自分にさえ、さまざまなアイデンティティがあるということを自覚できていれば、その先にある他者のアイデンティティ、社会的属性にも理解を及ぼすことができるのかもしれません。
 その可能性に期待してみたいです。

(3)連帯は「われわれ」の範囲拡大

 伊藤亜紗さんは、『人と人の違いを指す「多様性」という言葉は、しばしばラベリングにつながります。』と指摘しております。
 つまり、「多様性を強調する」ということは、日本人と海外の人たちとの「違いを強調する」ことになるのではないでしょうか。

 多様性、違いを強調するのであれば、その一方で、海外から来ている介護労働者を「われわれ」の範囲に含める努力をしなければ、ラベリング、マイクロアグレッション、明確な差別へとエスカレーションしていく怖れがあります。

 朱喜哲さんは、リチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』の第Ⅲ部第9章の文章を紹介してくれています。

『連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないと
しだいに考えてゆく能力、私たちとはかなり違った人びとを「われわれ」の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力である。』

引用:朱喜哲2024 『偶然性・アイロニー・連帯』100分de名著 p99,100

 さらに、朱喜哲さんは「われわれ」の範囲を広げてゆくためには、人々の苦しみ、苦悩、困難さへの共感と自らの加害可能性についての自覚が大切だと説いております。

 『文化の違いや宗教の違いは、一見すると大変大きな違いに思えます。しかしそれがどれだけ違っていようとも、そこに苦痛を受けている人が存在する、辱めが存在する、そこに対して残酷さを行使するようなわれわれの加害行為がありうる、こうしたことに思いをせることによって、「われわれ」という範疇はんちゅうを少しでも広げることが可能になるのではないか。』

引用:朱喜哲2024 『偶然性・アイロニー・連帯』100分de名著 p100

 介護は、苦しみ、苦悩、困難さを抱えた人たちへの共感が大前提でしょう。であるならば、日本の介護労働者は外国人介護労働者との連携のための基礎はできていると言いたいのですが、違うでしょうか?
 そうであってほしいと願っておりますが、そうでもないこともかなり多いように思います。 

 同化とは、外国人労働者を二級日本人にしていくこと。
 連帯とは、「わたしたち」の範囲を広げていくこと。
 

 外国人労働者を受け入れる組織が同化政策をとれば、その組織はレイシズムが蔓延することになるでしょう。
 介護という営みをとおして、他者の痛み、苦しみへの共感をつちかいながら、「わたしたち」の拡張を目指していくことが、あるべき介護事業組織の姿ではないでしょうか。


[1] ラベリング(labeling)とはレッテル貼りのこと。 特殊な事実をもとにしてある人物やある物事の評価を類型的かつ固定的に定めること。

[2] スティグマ(stigma)とは直訳すれば烙印(らくいん)という意味。

[3] カテゴリー(Category)とは範疇(はんちゅう) のこと。範疇とは事柄の性質を区分する上でのもっとも基本的な分類のこと。

[4] マイクロアグレッション(英語: Microaggression)とは、1970年にアメリカの精神医学者であるチェスター・ピアス(Chester M. Pierce)によって提唱された、意図的か否かにかかわらず、政治的文化的に疎外された集団に対する何気ない日常の中で行われる言動に現れる偏見や差別に基づく見下しや侮辱、否定的な態度のこと。「小さな(マイクロ)攻撃性(アグレッション)」

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