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基地の街 #1

 はじめて足を運んだ基地の街は横須賀でした。村上龍さんの小説「限りなく透明に近いブルー」「69」の影響なのでしょう、僕は基地の街に憧れがありました。太平洋戦争後に作られた米軍の基地のある街は東西冷戦が終わるまではアメリカ文化の入り口としてまだ見たことのない海外の最先端が溢れていた時期もあったと思います。おそらく米軍を介してなければ日本に入って来にくいものもたくさんあったと思います。

 僕は高校を卒業し地元を離れ東京の全寮制の予備校で浪人生活を送っていました。都内のあちこちに寮がありましたが、非常に厳しい予備校で門限等も厳しく管理されていました。僕の入っていた寮は予備校から電車で1時間半近くかかる場所にありましたが、予備校を出て寮に2時間で戻るというルールがありました。理由をつけられなければ反省書を書かされ、反省書が5枚貯まれば始末書1枚、始末書が3枚貯まれば退寮、退学処分となってしまうのでした。いちいち外出するにも許可が必要で、休日に1日外出するとなると所要時間を計算して申請を出さなければなりませんでした。日常はまるで旧日本軍の訓練施設さながらでした。「監獄予備校」そんな呼び名で揶揄されることもある予備校でした。そんな息の詰まる寮生活から少し抜け出すために基地の街に行くことにしました。そこで神奈川県内の大学が説明会やオープンキャンパスを行う日程を調べ、その日に合わせて外出許可の申請を出しました。

 寮長に嫌味を言われながらも申請を出し、許可を貰いました。当日は梅雨も明けた7月の晴れた日でした。新宿まで出て山手線に乗り換え、品川から横須賀線に乗り込みました。海の方に向かうというだけで開放的な気分になることができました。電車が田浦駅を出ると左手の海の方には艦船が見えました。それは海上自衛隊の艦船でした。横須賀は古くからの軍港です。自衛隊の基地が見えたのでした。横須賀駅に着く前から僕の気分は高揚していました。

 横須賀駅で降り、外に出ると海が近いのに乾いた空気を感じました。日本特有のじめじめした感じではなく乾いた空気、それは今までに経験したことのないものでした。乾いた暑さの中を国道16号線の方に向かって歩いて行きました。

 まず向かったのは基地のメインゲートとドブ板通りでした。メインゲートは6車線になっていました。普通車よりも大きな車が出入りするということなのでしょうか。かなり大きなゲートでした。戦勝国、世界の警察アメリカの強さを誇示された気がしました。そして16号線を隔てた向こう側のドブ板通りに向かいました。

 ドブ板通りは横須賀に駐留している米軍関係者御用達の繁華街でサテン生地に刺繍の入ったスーベニアジャケットの発祥の地として有名でした。いわゆるスカジャンです。足を踏み入れると今まで見てきた繁華街とは全く異なった顔を持った街であることはすぐにわかりました。僕の叔父は横須賀に住んでいたことがあったようなので話を聞いてみたことがありました。末期とはいえまだベトナム戦争中で米兵で賑わっていたようでした。日本人があまり近づかない場所だったと言っていました。僕が訪れた時は東西冷戦も終結を迎えていた時期であり、空母も寄港していなかったかもしれません。ずっとシャッターが下りたままと思われる店もたくさんありました。寂れてはいましたが軒を連ねる店の看板は完全にアメリカ人向けに作られたものが大半でした。軍用ワッペン等の刺繍をするお店、スカジャンの有名店、軍放出品を扱うお店、アメリカ人向けの土産物屋、ファーストフード、ビリヤード台が置いてあるバー、僕は望んだ景色の中を歩くことができて満足していました。

 ドブ板通りを抜けて、僕は三笠公園に向かいました。「最後に海を見たのはいつのことだっただろう」自分でも思い出せないほど前のことでした。そんなことを考えながら米軍基地が見えるところまで歩いていきました。埠頭の公園から見えた景色は日本ではありませんでした。運動場なのでしょうか野球場のようなもの、ファーストフードチェーンの看板、日本にも同じものはあるものかもしれませんが、そこにあったのは写真や映画の中で見たアメリカの光景でした。「ここは一番近いアメリカなのだろう」海を隔てた遠い国であるアメリカ。でもフェンスの向こう側はアメリカなのです。僕が訪れた時には太平洋戦争から50年が過ぎていましたが、日本はまだ敗戦国のままである現実を見た瞬間だったのかもしれません。

 高校生の時に読んだ常盤新平さんの「遠いアメリカ」を思い出しました。僕はその後の人生でイギリスには行っています。その後にオーストラリアに行く機会もありました。でもアメリカ文化はずっと追いかけ続けていますが、まだ行ったことはありません。僕にとってアメリカは依然として「遠いアメリカ」のままなのです。

 

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