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ジャマイカ音楽に関する備忘録
限りなくノンフィクションに近いフィクション
一番近いアメリカへの憧憬
「攻殻機動隊」日本代表する漫画として有名な作品です。1995年には、アニメ化されてオタクだけではなく音楽系サブカル界隈でも話題となっていた気もしますが、リアルタイムではまったく興味がありませんでした。 アニメ、漫画に限らず、映画、小説には名セリフというものがあると思います。 僕が所属しているDJ/Selectorチームはこれが成立していると感じています。2つDJチームに所属していますがどちらも組織としては公安9課みたいですね。 驚くほど、全員が自分勝手なんですよ
「Shazam」知っていますか?1970年にリリースされたThe Moveのセカンドアルバムではなくてスマートフォンのアプリの方です。 スペクトログラムと呼ばれる時間-周波数グラフに基づいた音響指紋を元に曲を特定してくれるアプリです。 街でかかっている曲、テレビから流れてきた曲、クラブでかかっている曲、それを特定できる便利なものです。僕はこのアプリケーション使っています。 ある時、イベントでDJしたあとに「今日も格好良いけど知らない曲たくさんかけてたんでShaz
地方とはいえDJをやっていると、会場で人から声をかけてもらえることがあります。 「この曲、大好きなんですよ」「良い曲ですよね〜」 「これは誰の曲ですか?」「〜の〜って曲ですよー」 「〜かけられる?」「ごめんなさい...今日は持ってこなかった..」 アナログDJは持っていけるレコードに限りがあるので謝らなければならなかったりもするのですが、どれも素敵な言葉のやりとりなのです。 声をかけてもらえることは嬉しいですし、次のDJの機会の時の参考になるのです。自分
ありがたいことに2024年1月の後半はDJをする機会をたくさん与えてもらえて、週末は家を空ける日々でした。 自分がDJをやる時だけではなく、音を探して家を空けるのことが常態化しています。常に客でいたいのです。 2月上旬に仲間が主催しているイベントに出かける機会がありました。アーチスト名は伏せますが、全国的に有名なドラマーの方のユニットがゲストとして来ていました。 僕が10代の後半から20代に入るくらいまでしょうか。僕はギタリストですが、そのドラマーの方にとても影
「Bootleg」海賊盤のことです。僕が最初に買った海賊盤はSex Pistolsのライブ盤です。 これも高校受験浪人時代のことです。まだ洋楽を聴き始めたばかりで知識がまだ乏しかったのですが、Sex Pistolsを聴いてみようと思い、探しに出かけました。 「Never Mind the Bollocks」が欲しかったのですが、僕が行ったお店にはその時はありませんでした。でもまったくSex PistolsのCDが置いてなかったわけではなかったのです。 「Indec
米国におけるR&Bレコードのリリースの減少に大きく関係したのは1950年代半ばのRock ’n’ Rollの誕生が大きく関わっていると思います。 要は米国音楽の流行が変わったのでしょう。しかも、米国が消費という側面で一番勢いがあった時代です。商業的に売れるものが主流になっていくのはごく自然なことなのかもしれません。 これは僕の個人的な解釈ですがRock ’n’ RollはブラックミューッジックであるR&B等をベースに白人が作ったものだと思っています。そこにはブラック
これまで綴ってきたことを読んだいただければ、ジャマイカの初期のサウンドシステムのかけられていた音楽はReggaeではなかったことはもうおわかりいただけたかと思います。 ジャマイカの庶民の娯楽であるサウンドシステムで好まれた音楽がなぜ米国のBoogie-woogie、Jump Blues、R&Bだったのでしょうか。これはそれらの音楽がアフロアメリカンによるものだからです。 これにはジャマイカという国の成り立ちを考えていくと自然なことであるということがわかります。
団塊世代、バブル世代、氷河期世代、ゆとり世代、ジェネレーションX、ジェネレーションZ…挙げていけばきりがありません。 年功序列という考え方や、体育会部活動教育的なものは自分の行動に伴わないように意識はしています。いわゆる先輩面はしないということです。 でも僕はこの世代という考え方を強く意識して生きています。日本に限らずこの考え方は世界中にあるようです。 誰しも苦手な人はいると思います。そんな人と対峙した時に、世代を把握することが役に立っています。 僕は年齢を
サウンドシステムではライバルがかけていないレコードを入手するのに躍起になっていましたが、米国でリリースされる音源には限りはあったと思います。そして米国音楽のトレンドの変化に影響を受けてしまいます。1958年頃にはジャマイカの人たちがサウンドシステムで踊るの好みのR&Bのリリースが減ってきてしまったようです。 そこでサウンドシステムが主導してジャマイカのミュージシャンによるR&Bが録音されレコードとしてリリースされ始めました。好みのR&Bのレコード足りないなら自分たちで作
何故、米国の音楽が初期のサウンドシステムでかけられていたのか? 1950年代の当時はジャマイカはまだ独立国ではありませんでした。宗主国は英国であり、まだ植民地であったわけです。そして第2次世界大戦後に英国領であった西インド諸島の島々は米国との英国との間で米軍基地のために植民地の土地を貸与する協定がありました。ジャマイカにも第2次世界大戦後に米軍基地があったのです。 当時、ジャマイカの庶民階級にも普及していったのがラジオです。ジャマイカでは米国のフロリダやニューオリン
そして僕はある「族」に属することを決めて通い始めました。その「族」は僕の出てみたかったライブハウスを根城にしていました。その世界は音楽だけではありません。ファッション、車や二輪車等の移動手段、細部に到るまで様式美が存在していました。 ある意味では自分を縛ることだったのかもしれませんが、魅了された世界に染まることにしました。僕が昔から聴いていた音楽が中心にある「族」でしたから抵抗は全くありませんでした。 そこで生き残っていくというと大げさですが、とにかく「族」の一員と
サウンドシステムがジャマイカ音楽における最重要事項と表現しましたが、これは言い過ぎではないと思います。サウンドシステムは現在に至るまでジャマイカの庶民階級の娯楽として非常に重要な位置を占めています。 1950年代にはジャマイカ音楽には、既にメント(Mento)というフォークミュージックがありました。ジャマイカの庶民階級が聴いてきたものがメントです。米国にも輸出されていた音楽でしたが、輸出品としてのジャマイカ音楽としてはまだまだ弱いものでした。同時期の音楽として同じカリブ
正直、SKA、Rocksteady、Early Reggae、ジャマイカン・オールディーズのselectorになるとは思ってもみませんでした。 やはり音楽を追求する上で「繋がり」を探しているうちに無視できなくなってしまったのだと思います。 一つ目の「繋がり」は米国とジャマイカの繋がりです。 二つ目の「繋がり」は英国とジャマイカの繋がりです。 僕にとっては米国と英国の「繋がり」も非常に重要なのですが、今回はジャマイカに軸を置きたいと思います。 ジャマイカ音楽
僕たちは大学を卒業しそれぞれの道に進んでいくことになった。 僕は卒業とほぼ同時に恋人とは別れることになった。お互い結婚すると思っていたのではないかと思う。双方の両親含め誰もが結婚すると目されていた。でも別れはやってきた。 お互いにその当時は捨てられないものがあったと思う。僕には捨てることもできなかったし、彼女に捨てさせることも出来なかった。それは彼女も同じだっただろう。僕には強さが足りなかったのだ。今となってはそんなものに拘っていたのかという後悔の念が湧き上がってく
「米軍基地の街に行ってみたいんだよね」付き合ったばかりの恋人にそう言われました。僕たちが付き合い始めたのは6月でした。「横須賀なら一度行ったことがあるんだよ」「私も行きたい」付き合ったばかりであったし、二人で遠出をしたことはまだありませんでした。 「基地の敷地内に入れるオープンベースがあるみたいなんだよ。行くならその日に行ってみない?」その頃はインターネットが一般的に普及している時代ではありませんでした。 僕は予備校の頃の友人からオープンベースは7月4日の独立記念日
迷信と言うと、映画「ドラッグストア・カウボーイ」を思い浮かべます。大学に入学した頃にビデオで繰り返し見ていました。 「帽子をベットにおいてはいけない」これが印象的ですね。この映画といえばこの迷信を思い浮かべる方多いのではないでしょうか。 映画では仲間がそれを守らなかった(嫌がらせにやった)がためにそこからすべて上手くいかなくなっていくのですが、自分だけではなく行動を共にしている人間もしてはいけないのは、なかなか厳しいものがあります。 なんでもそうだと思うのですが