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SYNDIばーちゃんの墓標はこのような困難を抱えている 序章

わしはすでにばーちゃんなの

 noteって、ものを書くのが好きな人が数多くいらっしゃる場所であるかと思い、ちっと愚痴をきいてくんないかい?と思ってばーちゃんのキャラで書いてみようかと思うの。「愚痴」と「ばーちゃん」って似合うと思わない?思わないかしら。
 実際はあたしは孫もいないからばーちゃんにさせてもらってないんだけど、まあバーチャルばーちゃんがバーチャル孫とかにわけわかんないことをウダウダ話す感じ?

ばーちゃんは死後のことを考える

 孫らよ。ばーちゃんはね、実に大量の愚にもつかないエッセイ(以下駄文という)を、書く人間なの。駄文歴は半世紀にも及ぶのよ。息するように駄文。それがかなり貯まっているの。仕事の合間合間にそれやってきたの。
 ばーちゃんは職業ライターでもあるからさ、なんとなく何を書いても商品的なもんにする癖があんのね。読者は想定するし、だーいたい文体はシリーズごとに統一するし、それで、何回も読んで字の間違いとか語句の繰り返しとか直したりいじったり改めたりしてさ、ムダ毛を刈り込んで縮めたりとかさ、要するにお金をもらってなくてもそれら推敲の手間ってのもかけているの。

 かけているというより、それをしないではいられないのね。絵はあとでいじっても悪くなるばかりってことが多いんだけど、文章はそもそも作り方がちがうので、案外そういうことでベターになったりするんだよ。それでさ、中には孫らにも将来(わかるようになったら)読んでもらいたいな、というようなものも出来上がったりするのね。つまり読んだら面白いかも、ってもの。別に役には立たないんだけどさ。
 でも、どうやったらそれらに孫らがアクセスできるかってことは、案外難しいなあって思って、今ちょっと悩んでるの。

 ばーちゃんだって書いたものすべてを「読んで欲しい」わけではない。適切な人に適切なタイミングで読んでほしいのね。例えばわしが一族の中でも珍しいぐらい長生きしたらさ、公開してもいいなーって思うものもある。それはもう題名考えてあるんだ。『関係者存命につき』っていうの。気を悪くする人がいなくなったら出しちゃおうってたぐいのものね。それを関係者存命の間に書いて隠してあるわけよ。矛盾しているけど、『公開内緒話』みたいなもん。このタイトルもいいね。

 そういうものは結局わしが関係者よりも短命だったら永遠に人の目に触れないかもしれない。それはそれでいいの。人の目にって部分も、実は大勢って意味でもないんだよね。ひとりでもふたりでもいいの。ただ、書いたからには、読んでもらって初めて命が吹き込まれる文章というのがあるんだよね。それが「駄文」と「日記」の違いかもしれないな。(日記や日誌は必ずしも読まれなくても命がある類のものと考えてます)あとね、フィクションはたとえ話になっているんで、書き方にもよるけど、これは関係者が読んでもわかんないからOK。本来駄文ではなくて、フィクションの形で「言いたいこと」を吐き出すのがいい、というのはかつて師匠が言っていたことなんだけど、今の所それはあんまりうまく行ってないんだ。それはまた別の話。

noteはきっと墓標になるだろう

  編集者で、人の悪口は絶対に言わない、書かない、噂もしない、っていう自戒を、何十年も守ってこられた方がいるんだけど、その人が70歳を過ぎたときだったかな?「もういいや」ってんで、わりと本音で毒舌を吐くようになったのね。さすがに文章にはしてないかもだけど、しゃべる時にちらちら人物評とか出るようになったんだ。それがとても印象的でね。客観的には信用できる人物評でもあったから。

 あたしはそれにちょっとあこがれて。もしかしたら年取ったら、口が悪くなっても、人が悪くても、鋭すぎる指摘をしても、多少自分勝手でもまあいいや、この人ずっと基本、立派な人だったんだから、って(少なくとも一部の人に)許される人になっていられるかもしれない、とか思ったのね。
  だからこっちがこっちの立場で、対立するなにかに向かって勝手に毒を吐くようなものを、面白く読んでもらえる仕掛けとか、考えてたりはするわけよ。でもそれは取らぬ狸の匂いがする案件だね。
 
 ともあれ、早死にしたらこの企画はパーなの。早死にも想定しておかないとならない。とにかく死んだら、そういう仕掛けの「つもり」も何もかも崩れるんだわ、って思って、今年2020年ね。疫病と引きこもりの年だったけど、特によおっく考えてしまったんだわ。メメント・モリな年だったって意味では乳ガンの手術した時以来の感じで。それで思ったの。結局、だれでもアクセスできるようなウェブ上に置いておくことが、一番確実なのではないか?って。
 

 例えばこのnoteのプラットフォーム。これだって永遠ではないかもしれないけど、これだったらnoteのアカウントがない人でも、あたしのお友達でないひとも、あたしの残された親戚と仲が悪い人でもアクセスはできるわけだ。知っていさえすれば。パスワードも要らない。
 もしも死後これをたたまない、ってことにしておけば、これはばーちゃんの駄文でできた墓標になるんだろうな、って思って、実はけっこう緊張しながら使ってるの。書き始めてもうまくいかないものについて手が止まるのもいつものことですわ。たくさんの人にみてもらうための工夫より、なーんか墓標性?(完成度と言い換えてもいい)そっちのほうに神経が行くのは、ちょっと困ったことだけどね。

ばーちゃんのストレージはあちこちにある

 お金をもらっている仕事の場合、下書きは必ずPCとか外付けHDDとかに保存されているんだけど(これはこれで第三者にはどうにもわけがわからないだろうな)、それとは関係ない駄文は、ネット時代が到来してからSNSとか無料のブログとかに書くってことをするようになり、結果わしの文章はシリーズごとにいろんなところに散らばって保存される運命をたどっております。 殆どは一回ローカルのエディタで書くけど、出先で直接ブログに書くこともあって。それから、下書きをコピペしたあとに修正をかけても、下書きにそれを反映させることまではやってないので、草稿よりも重大な本原稿はウェブ上にしかない、という状態がついついできてしまってるの。

 まず、mixi内の日記。初期の頃のmixiで基本、リアルでも会うようなお友達がたくさんできてるんで、いろんな形で文章の実験もしたんだよね。それで、字数制限をされない時に、自分はどのぐらいの長さで書くのが快適か、などのこともわかってきた。長さがどのぐらいまでなら読んでもらいやすいのか、読者に本を作るギョーカイの人が多かったこともあってその属性にも左右されるんだけど、まあそれらは、公開していない下書きも含め、大変な宝物です。今となってはってことなんだけど。

 ばーちゃんという生き物は、とかく、過去にやったことがだんだん宝物じみて来るわけなのよ。その時は、そんなに考えてたわけじゃないんだけどもさ。あれら、宝物なんだよ。しかしね。mixiが仮にかなーり長く続いたとしたって、マイミクさんにしか見えないようにしているのがほとんどなんで、孫らに読ませるには適当とはいえないよね。仮に遺族にパスワードを渡しておいたとしても、その遺族があんな大量のものをどうにかしてくれるとは思えないわ。

 あと、別のSNSに書きやすかったネタなどもあって、それらは実はそのまま放置されてたりするの。大変限られたひとたちに向けて書いてて、だけどそれなりの完成度があるものとかもある。
 ただ、SNSはものによってはつぶれたり閉じられたりそうでなくてもおそろしい寂れ方をして、捨て置かれていたりするよね。実のところ、mixiも閑散としてるけども、少なくとも潰れたところよりは勝ち組でっす。それこそアカウント主が亡くなっていて、ほんとに”墓標”となってるものがあります。あれはあれで、消えてしまったらすごく悲しいと思うんだわ。

 つぶれてしまったSNSについては、閉じられる前に全部のエントリーをコピーして、ローカルのHDDに保存してるんだけど、これを外に出すとなると、これはこれで結構な手間!

 ブログもね、ミラーリングみたいなことをしてウェブ上にバックアップしてたりするけど、さてさて。これ、本人にもだんだんわからなくなってくるんだよね。何をどこにおいてあって、何のバックアップは不完全なのか、とか。何よりも、バックアップしてあったからって、これどうなんの?ということが。でもさ、それを、まあどうでもいいや、なるようになるべ、っていう気持ちには、まだなれないでいるんだよね。

面倒なことになってるノートの話



 ってなわけで試行錯誤の中、決定打を欠いたままではあるが、このnoteが墓標本命なんだわ。しかし!友達にだけみえる墓標もあるといいにゃーとか思って使ってたプラットフォームもあったんよ。ついこないだまで。それは、Facebookのその名も『ノート』という機能。これが、先日10月末日をもって廃止されたんですわ。
  これ、過去記事を掘り起こすことがとかく大変なFacebookにおける、長文保存のソリューションだったはずなのだが・・・・・これが、FBユーザーにとって、どんなことになってるか、現在のところを記録しておこうと思うんよ。っていうか愚痴っておきたい!

 この愚痴つづきます。孫らにはどうでもいいかもしれんが、きみらも年取ったらきっと愚痴りたくなるから、まあきいておいてや。

続く。

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