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156「第1回 教えて先生!!」〜スティーブ・ジョブズ〜前編


おはようございます。

今日から2日に一度、僕が面白い、かっこいいと思った起業家、独立(フリーランス)として活躍している(過去にされた)人達を紹介していこうと思います。

このコンテンツを読むことで、
起業、独立ってどうやってするんだろう?
偉人達は、何を考えて行動したんだろう?
壁にぶつかった時の対処法は?

等の悩みや次のステップに活かして頂けたら幸いです。

僕も偉人達に学びながら、文章を書いていきますので共に成長していきましょう!

いきなりですが、とても長くなることに気づいたので前編、後編と分けて授業を開催します!!


それでは、第一回目の先生は、、、


Appleの創業者「スティーブ・ジョブズ」

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世界を変えたひとりと言っても過言ではない、スティーブ・ジョブズ。

アップルの創業に限らず、ユニークなエピソードやファッション、プレゼンスタイルなど、あらゆる面で世界にインパクトを与えてきた。

そんなジョブズから何を学べるのか、そして今後の人生にどう活かせるのか説明していこうと思う。

教えて下さい。

スティーブ・ジョブズ先生。

さぁ、授業が始まりますよ、ゆっくり時間を取ってリラックスして学びましょうね。

1時間目 ジョブズの人生(幼少期〜Apple創業まで)
2時間目 Apple創業後〜Apple退任期間
3時間目 Appleに戻った後〜伝説のスピーチ
4時間目 ジョブズが死ぬ前に放った一言
・学び、活かせることは所々記載しています。
そして、最後にまとめ。
時間割はこんな感じで進めます。


・ジョブズの人生(幼少期〜Apple創業まで)

スティーブ・ジョブズは1955年2月24日、シリア人の父アブドゥルファター・ジャンダーリ と、アメリカ人の母ジョアン・キャロル・シーブル との間に、サンフランシスコで生まれた。ジョブズは生後すぐに養子に出され、養父母となったポール・ジョブズ、クララ・ジョブズ夫妻によって育てられた。

両親の宗教上の問題により、ジョブズは幼い頃に養子に出されている。

この背景を知らない人からすると驚きですね。幼い頃に養子に出された経験がジョブズの思考、ビジョンが設計されるきっかけになったかもしれない。


その後、、

幼い頃から超優秀!!

小学校4年生の時に受けたIQのテストで、高校2年生のIQレベルがあると結果が出ていた。
なので、飛び級として4年生ながら中学校に通うことになる。
(すごすぎる、、)
勉強が好きになったのは、小学校の機転の利く女性教師と出会ったのがきっかけだそう。

幼少期から宗教、哲学、アートに興味関心があったのは、養子に出された経験があり「なぜ宗教上の問題により出来ることが出来ないとなるのか?」という考えを持っていたそうだ。

中学生では、皮肉にも周囲の学生からイジメられていた。それに耐えることが出来ないと思い、両親に違い学校に通いたいと要求し、一家は費用を捻出してロスアルトスのクリストドライブ2066番地にガレージ付の一軒家を購入して転居し、ジョブズをクパティーノ中学校に転校させた。
ガレージ付きの家というのがめちゃくちゃポイントだね。その理由はまた後ほど。

「学びポイント!」
ジョブズの凄いところは、判断力がとてもあることだ。幼い頃から判断力が長けていたのではないかと僕は思う。
自分にとって必要なことが皆んなが必要としていないことであっても突き通すこともあったそう。

学校でいじめられて、こんな環境よりもっと良い環境があると思い、行動に移す。
判断力と行動力がずば抜けていた。

エジソンと同じ?!頭はいいが、超が付くほどヤンチャ!!


・授業中に花火をする
・ヘアピンに電気が通るか試し、感電する
・大学では必須単位を取らず、学びたいことだけを学ぶ(グラフィックデザイン、宗教、)
等をやらかしているが、最もやばいのが、、

「13歳の頃に、ヒューレット・パッカード社のCEOビル・ヒューレットの自宅に電話をかけた。」こと!

当時、ヒューレット社がとても大好きだったそうで実際に働けないかなと思い、直接電話をするという、とても大胆な行動!!

ジョブズが「周波数カウンタの部品をください」と言うと、ビル・ヒューレットは部品をくれたばかりか、夏休みにアルバイトをしないかと持ちかけたそうだ。
了承を得て、ヒューレット社で働き始める。


そして、、「天才エンジニア、ジョブズの右腕と出会う」
この当時は、誰もAppleという会社がこの2人で作られるだろうと予想した人は誰もいないだろう。
運命的な出逢い、のび太君とドラえもんが出逢ったような。

その人物は、、スティーブ・ウォズニアック

16歳のジョブズは友人ビル・フェルナンデスの紹介で当時21歳のスティーブ・ウォズニアックと知り合い、すぐに意気投合した。

ウォズニアックは、超天才エンジニアなので彼に頼めば作れないものは何もない。
全部、作っちゃうというガチのドラえもん。
見た目も、ドラえもんみたいだけどね。

(左 ウォズニアック 右 ジョブズ)

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ジョブズが作りたいものを何でも作れるが、ビジネス的センスは無かった。お金儲けに全く興味がなかったが、一方でジョブズはデザイン、商売的センスは長けていた。

このコンビ、最強です。まじで。

青春時代、とてつもない2人のエピソード

ジョブズが16歳の時にウォズニアックの母親にもらった『エスクァイア』誌1971年10月号に掲載されていたブルーボックス(不正に無料で長距離電話をかけることを可能にする装置)についての記事を読んだ2人は、急いでスタンフォード線形加速器センターの図書館に向かい、AT&T(ベル社)の技術資料を見つけ出し、それを元にウォズニアックがオリジナルのブルーボックスを作り上げた。

作れるのが凄いよね。。

ウォズニアックは装置を作ったことで満足したが、ジョブズはこの装置を1台150ドルで、学生を主な顧客として売りさばいた。

装置を作る天才、装置を売る天才。

ジョブズのヤンチャエピソードで、誰でも電話を掛けれるのであれば1番面白い人に電話を掛けようと思い、その相手がローマ法王。

まじで、やばいでしょ、、

しかも、電話繋がったそうだ。慌てて電話を切って、高笑いでもしてたのかな、、

行動力がまじで凄い。大胆だな〜。


後にジョブズは、ブルーボックスで商売をした経験がなければAppleが誕生することもなかったのは、「100パーセント確実」だと語っている。

「学びポイント!」

僕も大事だなと思ったのは、一度成功体験をすること。それは小さくてもいい。
起業、独立をする上でビジネスモデルを自分で作り、そして実践し経験しなければいけない。


究極の思想体系を構築することになった、LSDの経験。

高校の4年生(最終学年)であったジョブズは幻覚剤のLSDを使用し始めた。
ある日サニーベール郊外の畑で服用した際に体験した、麦畑が突如バッハの曲を奏で始めるという幻覚は、後年までジョブズに強い印象を残した。
のちには、LSDによる作用を人生でトップクラスの重要な体験であると述べ、人生を金儲けだけに費やすのではなく、「歴史という流れに戻すこと、人の意識という流れに戻すこと」の重要性に気づかせてくれたと回想している。


正直、体験していない人には何のことかさっぱり理解出来ない。だけど、この思想こそが世界一の会社であるAppleの全てだ。
ジョブズ思想こそがAppleと言っても過言ではない。

大学時代のジョブズ。

1972年9月、ジョブズはオレゴン州のリード大学に入学した。リード大学は学費が高額な私立大学であり、両親の金銭的な負担は大きかったが、ジョブズは他の大学を受験することを断固拒否した。
大学時代のジョブズはユダヤ・キリスト教・イスラム教・アニミズム・太陽神・思想・坐禅・食事・ヒッピー文化に心酔し、裸足で校内を歩き、一時は風呂に入らない時期もあったという。ジョブズは大学に半年間通ったが、興味のない必修科目を履修することを嫌がり、本人の弁によれば「両親が一生をかけて貯めた学費を、意味のない教育に使うのに罪悪感を抱いた」ために中退した。

自分が必要なことは絶対、必要ではないことは要らないというこだわり。
皆んなが必要なことと、ジョブズが必要なことには大きなズレがあったのかもしれない。


その後、ジョブズはインドに導師を求めて旅をしたいと考え、働くことを決めた。
雇うまで帰らないという、ジョブズ様々なエピソードもある笑とほほ。
社長からジョブズの行動を気に入って貰い、時給5ドルでエンジニアとして働き始める。

本当にヤンチャで大胆な方なんだなと思う。

こんなエピソードもある。

入社後のジョブズは長髪で風呂に入らず、ビルケンシュトックサンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿に加え、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、夜勤でひとり勤務していたにもかかわらず、技術部長のアラン・アルコーン(英語版)などの同僚の大半から「無礼者」と認識された。

皆さんはジョブズのような行動を出来るだろうか??
出来ないからダメではなく、時には大胆な行動が必要になる場面はあるだろうから、勇気持ってチャレンジしよう。


ゲーム会社での期間のエピソードはまだまだあるが長くなってしまうので、省略します。

ついに、Apple創業に動き出すジョブズ


「Apple I」の登場。

に「Apple I」と命名されるマイクロコンピュータを独力で設計し、完成品を「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ」の会合に持ち込み称賛を浴びた。ウォズニアック自身はコンピュータの回路図を無料配布することを望んでいたが、ジョブズはこのマシンを利用したビジネスを始めるべきだと主張した。

ジョブズは、ビジネスセンスが長けていたことがここでも分かる。
作って届ける所まで設計しなければいけないと。製品を誰よりも愛していたのだろう。
学ぶべきポイントである。



ヒューレット・パッカードとアタリにマシンの商品化を断られた後、ジョブズとウォズニアックは自分たちで新事業を立ち上げることを決意した。事業を始めるため、ジョブズは愛車のワーゲンバスを、ウォズニアックはHP製のプログラム電卓を売り払い、1,300ドル余りの資金を捻出した。

いよいよ、伝説の始まり


1976年4月1日、ジョブズとウォズニアック、そしてロナルド・ウェインの3人はカリフォルニア州のビジネスパートナーシップとして「Apple Computer Company(アップルコンピュータ・カンパニー)」を創業した。

場所は、ジョブズ家の駐車場。
いいよね、オフィの始まりが駐車場って。ここからスタートするんだ!!という強い意志が込められている。

なぜ、Appleという名前にしたのか??気になったので調べてみたら、、

ジョブズは「Apple Computer」という社名の由来について、当時果実食主義を実践していたことに加え、リンゴ農園から帰ってきた直後だったこともあってこの名前を思いつき、その響きが「楽しげで、元気がよく、威圧感もない」と考え、「その上、電話帳でアタリより上に来る名前でもあった」ので採用したのだと説明している。

僕は、りんごは創造の果実だと思ったのでAppleという名前にしたと覚えていたけど違っていたのかな。
まぁ、でもここでもジョブズの思想が込められているね。


ここで、ジョブズの人生(幼少期〜Apple創業まで)の内容は以上。

1時間目終了です。

学ぶべきポイントが盛り沢山で、エピソードもめちゃくちゃ凄かったですね。
ジョブズの過去からApple創業までの話を読んでいかがったでしょうか。
皆さんは何を学び、そしてどのように自分の人生に活かしていくのでしょうか。
それは、皆さん次第です。

では、ゆっくり休憩してから2時間目に移りましょう。
「Apple創業後〜Apple退任期間」

最初は、コンピューターではなく比較的安価に製造できるプリント配線版だった。
この当時、今で言うパソコン(パーソナルコンピュータ)という概念が存在していなかった。主にビジネス上だけで使われるモノであり、一般的にコンピューターを使う文化が無く、ジョブズはコンピューター誰でも気軽に使えるモノにしたいと考え、AppleⅠを普及させることを決意したのだ。

ジョブズはコンピュータ小売店「バイトショップ(Byte Shop)」の経営者ポール・テレル(英語版)にApple Iのデモンストレーションを見せた。

またまた破天荒ぶりを見せるジョブズ。

興味を持ったテレルはジョブズに名刺を渡して去ったが、ジョブズはその翌日にマウンテンビューのバイトショップ店舗に押しかけ、テレルにApple Iの配線板を売り込んだ。説得されたテレルはその場でApple Iを50台注文し、納品時に1台につき500ドル(合計では2万5,000ドル)を現金で支払うと約束した。


この飛び込み営業力。自分が売れると思った製品はとことん売りに行く。ジョブズはスーパー営業マンでもあった。


ジョブズは、自分のこだわりと自分が天才であるという態度を同僚に向けて常にぶつけていた。
菜食主義だからお風呂に入らなくても俺は臭くならない!!と言って、お風呂に入ることは全く無かったそうだ。
(渋々、水道で足を洗っていたそう。笑)


天才ではあったが人間関係を構築することは苦手だったのかもしれない。

「学びポイント!」
全てにおいてパーフェクトな人間はいないということがわかった。
完璧を求めるのではなく自分のこだわりや何がしたいのか、やりたいのかを磨き上げることの方が大事である。

その後、マイクマークラという投資家と出逢い、ジョブズの野心とウォズニアックの技術的才能に心を動かされ、1976年11月に引退から復帰してAppleに加わった。マークラは自分の個人的資産から9万2,000ドルをAppleに投資した。
当時の額ではとてつもない金額だったのかもしれない。

マークラの助けを得て新法人「Apple Computer, Inc.(アップルコンピュータ)」が設立された。

どんどん成長していくApple。

だが、当時のジョブズはまだ若すぎた。天才ではあったが組織の長としてのスキルや経験はまだまだ浅かったのかもしれない。

なので、、マークラは会社の成長には経験豊富な経営者が不可欠であると考え、ナショナル セミコンダクターからマイケル・スコットを引き抜き、Appleの初代社長兼CEOに任命した。ジョブズの当時の肩書きは、事業統括担当副社長であった。

そうなんです、最初のCEOはジョブズでは無かったんです!ここ面白いですよね〜。


そして、世界を驚かせた伝説のコンピューター
「AppleⅡ」の登場だ!!


むき出しの基板として販売されたApple Iとは大きく異なり、Apple IIは基板やキーボード、電源装置などが一体化された筐体であり、テレビ等の外部ディスプレイを接続すればすぐにコンピュータとして使用することができたほか、ディスプレイにカラー表示することが可能なのも大きな特長だった。

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Apple IIは1980年には10万台、1984年には200万台を超える売り上げで、莫大な利益をAppleにもたらした。1980年12月12日、Appleは新規株式公開(IPO)を行い、自動車会社フォードが1956年に行ったIPO以来最高となる資金調達額を記録した。このIPOにより、750万株を持つジョブズは約2億5,600万ドルの個人資産を手に入れた。


成長スピードがとてつもない、、、
世界を変えた会社、人物の成長速度はとてつもない速さなのだと改めて学んだ。。


1981年、IBM(international Business Machine Corporation)はIBM PCを発売し、パーソナルコンピュータ市場へ参入した。次第にApple IIはシェアを奪われてゆき、新しい製品が待望されるようになった。
1978年、Apple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータとして、Lisa(リサ)・プロジェクトが立ち上げられた。

ジョブズがリサプロジェクトに携わっていたのだが、、、
人間関係が原因で、、

社長のスコットによってLisaプロジェクトのメンバーから外されてしまう。
行き場を失ったジョブズは、1981年、突如としてMacintoshプロジェクトに参画を宣言する。


Macintoshとは、誰にでも簡単に扱えるノート代わりのコンピュータを目指していた。AppleⅡが一般向けには複雑すぎると考えてられていたからだと言う。

Lisaプロジェクト とMacintosh


(Lisaプロジェクト)

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(Macintoshプロジェクト)


殴り込みをかけるかのような展開ではあったが、数人で動いていたMacintoshプロジェクトはジョブズを迎え入れた。そして、ハード担当がジョブズ、ソフト担当がラスキン(Macintoshの立ち上げメンバー)となり、取締役だったジョブズの働きで予算も開発メンバーも増え、同時にLisaプロジェクトからもスタッフの引き抜きを行った。

「学びポイント!」

凄い!!いきなりアサインしてすぐにチームをまとめる力、1つにする力が半端ないんだろう。態度は横柄ではあるが人を惹きつける能力はずば抜けていたのだろう。

だが、自分がやりたいことのために実行してしまった為にラスキンと激しく対立した。ラスキンは役員に対して「ジョブズの首を取るか、自分を新たな場に移すか」と直談判した。最終的に役員サイドは、Macintoshプロジェクトにジョブズを押し込めておく方が会社にとって悪影響が少ないと考え、ジョブズの考えを優先し、1982年3月、ラスキンはAppleを去った。


優秀な仲間が去ってしまったのだ、、、
人間関係って本当に難しい。


Lisaを上回るために様々な開発を繰り返した結果、Macintoshがデビューしたのは1984年1月のことだった。
だいぶ時間が経ってしまった。


 

1984年後半、ジョブズはMacintoshの需要予測を大幅に誤り、Appleは過剰在庫に悩まされ、初めての赤字を計上してしまった。

どれだけ製品が良くてもビジネスはタイミングと消費者のニーズが全てであることが学べる。


この経験をしてしまったことで当時の社長(ジョンスカリー..ペプシコーラの事業担当社長)の信頼を失い、ジョブズをMacintosh部門主任および副社長 (Executive VP)としての地位から解任することを取締役会に要求し、全会一致の承認を得た。

Appleを創業した人間が追い出されてしまう。

Appleでの仕事がなくなったジョブズは、新たなプロジェクトすら立ち上げられない状況にとどまることに絶望した。

この期間は相当辛かったのだと僕は思う。


そこから様々な経験、思考が洗練されたことで超有名なエピソードでもある、Next社を立ち上げることになった。

Next社でも色々なことを試行錯誤を繰り返していた。
だが、ジョブズのやり方はApple時代とは何も変わることは無かった。
ここがジョブズらしいよね。。

僕がこの期間の中でのエピソードとして、とても印象に残っているのは、、

ジョブズはAppleの解任後、シャープ東京支社を訪れて、東京支社長だった佐々木正元副社長に電卓についての相談をしており、「これからはネットワークの時代になるから、携帯IT機器が求められるようになる」との助言を受けていたそうだ。

す、すごい!!佐々木さん。という言葉しか出ないが未来を読む力が長けており、ジョブズに強い影響を与える言葉を投げかけていたとは、!!


この期間に結婚もしている。


そしてなんと言っても、ピクサーが生まれた話だよね!!

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1000万ドルでルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を買収し、ピクサーを設立しCEOの座についたジョブズ。

「学びポイント!」
先を読む力。判断と実行力は圧巻である。


1991年、ピクサーは、ディズニーにCGアニメーション映画作成の売り込みを行い、同年3月3日に3本の劇場用作品の契約を結んだ。

まじで営業力が凄い。。。

そして、僕も皆んなも大好き「トイストーリー」が1995年に公開され、ジョブズはまた巨額の資本を手に入れることになった。

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2006年5月5日、ディズニーはピクサーを買収し、同社はディズニーの完全子会社となった。また、ジョブズ自身も、ディズニーの個人筆頭株主(持株率約7%)になると同時に、ディズニーの役員に就任した。


話のスケールがデカすぎて頭がクラクラになってしまう。付いていくのに必死必死。

AppleがNext社を買収することになる。

NeXTは、ソフト事業に特化したあと、世界初のウェブアプリケーション開発・運用環境であるWebObjectsを出荷、NEXTSTEPも自社内開発を行う金融機関などに受け入れられ、まずまず安定した経営をしていた。しかし、ゴールドマン・サックスを頼って株式公開を目指していたが、Appleによる買収に変更している。


AppleのCEOとNextのCEOジョブズの話し合いの結果、AppleがNeXT社を4億2900万ドルで買収することに合意、次期OSの基盤技術としてNEXTSTEPを採用すると発表した。


ジョブズはAppleに非常勤顧問という形で復帰した。
本気でAppleで働こうとは思っていなかったそう。1997年2月、正式にNeXT買収が完了した。Appleに復帰する際、買収代金の一部として、6か月先まで売却できないとの条件で150万株の株式を譲渡されていたが、Appleの復活を半ば諦めていたこともあり、期日が来るなり、またしても1株を残して即座に売却した。


2時間目は、以上です。お疲れ様でした。

とてもボリューミーな内容になりました。疲れたね。

ドラマチックなストーリー、感動するし学べる部分も盛り沢山だと僕は思う。

漫画の主人公かよ!!とツッコミを入れたくなってしまうね。

皆さんが2時間目の授業で何を学んだのか、気になるなあ。


冒頭で述べたように、明日は3時間目からスタートなのでよろしくお願いします。

寝坊しないように!!
授業中に寝ないように!!

それでは、ゆっくり休んでまた明日も元気に登校してください。


おやすみ^ ^

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