S.K.Langer Philosophy in a New Key S.K.ランガー『シンボルの哲学』  読書ノート① 3章 「サインとシンボルの論理」

読むまでの経緯

大学院を修了してから、ゼミの教授が以前研究していたS.K.ランガーの「シンボルの哲学」を古書店で見かけ、思わす手にとった。というのも、すでにこの本は絶版で、興味はあったもののなかなか手に入れることができなかったからだ。

購入してみたものの、なかなか読むまでに至らず、1年が経過していた。が、ここ最近になって分析美学分野に興味が沸き始め、いろいろと本を買い漁っているうちに、ランガーの他の著作「感情と形式」「芸術とは何か」(いずれも絶版)まで手に入れてしまい、いよいよ読むしかないという時期に、コロナの影響で1ヶ月在宅を命じられた。ここまできたら読み進めるしかない。

ちなみに、分析美学分野のとっかかりとして、N .Goodmanの「芸術の言語」を読もうと思っていたのだが、Goodmanの記号論はランガーの記号論を批判したものらしく、であればまずはランガーから読みはじめようという気になった。Goodmanを読むまで道のりは長い…。

S.K.Langerについて

さて、まずは著者のS.K.ランガーについて簡単にまとめておこう。

以下、ブリタニカ国際百科事典 小項目辞典より引用。

[生]1895.12.20. ニューヨーク
[没]1985.7.17. コネティカット,オールドライム             アメリカの哲学者,美学者。カッシーラーらの影響のもとに象徴 symbolの論理学を研究。芸術に深い関心をもち,芸術の源を生命の自己表現としての趣意 importに求め,そこにも抽象的構成力の作用が潜在することを認め,芸術を象徴すなわち人間感情を表現する仮象の形式の創造と定義した。主著『シンボルの哲学』 Philosophy in a New Key (1942) ,『感情と形式』 Feeling and Form (53) ,『芸術とは何か』 Problems of Art (57)

また、日本大百科全書より引用。

アメリカの哲学者。ハーバード大学、コネティカット大学などで教鞭(きょうべん)をとる。師ホワイトヘッド、カッシーラーの難解な哲学を理解・消化したうえで、モリスらの記号論との接点をみいだし、読みやすく明快な『シンボルの哲学』(1942)を出版。ここで彼女はサインとシンボルの相違を鮮やかに説いたのみならず、芸術作品が非論弁的でありながら、一定の論理構造をもつシンボルであり、感情の「意義」を備えていることを説いて、芸術に対する記号論的アプローチを展開し、記号美学の発展の重要な一歩を踏み出した。[塚本明子]
『矢野萬里他訳『シンボルの哲学』(1960・岩波書店) ▽S・K・ランガー著、大久保直幹他訳『感情と形式』全2巻(1970、1971・太陽社) ▽池上保太、矢野萬里訳『芸術とは何か』(岩波新書)』

そう言えば、カッシーラーの著作もゼミの推薦図書に入ってたなぁ。買うだけ買って、読めていない。ホワイトヘッドは最近よく見る名前。こんな昔の人だったのか。

さて、じゃあまとめていきますか。とは言っても、知識不足と60年前の翻訳という読みづらさも相まって、読み終わった現段階でおそらく3割も理解できていない。ので、まとめながら理解していきたい。そういう思考のプロセスも書き綴りながらまとめていこう。というわけで、冗長なものになること間違いなし。では、やっていこう。

読み始める前に 1951年版への緒言から

本章に入る前に、ランガー自身によっていくつか前書きが書かれている。その中の1951年版への緒言の中から、ランガー自身が用語の変更を指摘する。第3章「サインとシンボルの論理」の見出しを「信号(signal)とシンボルの論理」と読み替えられるという。それは、同じく記号論者のモリスの用法に倣ったものによる。つまり、この先読み進めていくにあたって、サイン=シグナルと言い換えて読んだ方が良いということだ。実際、その方が理解しやすい部分も多い。

第3章 サイン(信号=シグナル)とシンボルの論理

第1章と第2章は割愛。

意味について

意味は論理的な面と心理的な面の両方を持っている。心理的には、意味をもちうるどの事項もサイン、またはシンボルとして使用されなければならない。すなわち、それはたれかに対するサイン、またはシンボルでなければならない。論理的には、それには意味を伝達する力がなければならないし、それはそのように使用されうる種類のものでなければならない。p.62

意味を持つ何かしらのものは、サインまたはシンボルとして使用されなければならず、また、サインやシンボルには意味を伝達する力が必要になると。つまり、何も意味しないサインやシンボルなんてものはないぞーってことか?まぁそりゃそう。つまり意味とサイン(シグナル)orシンボルには何かしら対応関係があると。

事実、意味には性質などというものはないのである。それの本質は論理の領域に存在する。…意味かいくつかの項を含んでおり、そして意味の型の相違は関係の型や階数の相違によるのである。だから、「意味は性質ではなく、項の機能である」…機能とは、項を、中心となる或る特定の項について眺めた場合のパターンである。このパターンは、われわれがその与えられた項を、それの周囲の他の項との全体的関連において見る場合に現れてくる。p.64

ただ、対応関係って言っちゃうと一対一の対応関係しかイメージできなくなっちゃいそうだから一応指摘しとくと、意味にはいくつかの項が含まれる場合がある。だから意味とは関係であるとは言わずに、意味とは項の機能であると言った方がいいでしょうと。で、その機能っていうのは何かしらの項を見る時に、その周りにある項たちとの全体的な関係の中ででてくるパターンなんだよと。機能=パターン。

これと同様に、項の意味は機能である。その意味はその項自信が基本的な位置を占めているパターンに基礎をおいている。最も単純な種類の意味にさえ、「意味する項」と関係する他の少なくとも二つのもの、すなわち、「意味される」対象と、項を用いる主観とがなければならない。p.65

機能とかパターンとかめんどくさいな。要するに、項が意味を持つには、それだけじゃなくて他のものとの関係が必要になってくるってことか。相対的に意味が決まる。機能とかパターンを、「関係のなかで決まる」と言い換えてもいいんじゃないか。めっちゃ単純な意味だとしても、「意味する項(シンボルとか)」と、「意味される項(何かしらの事物)」と、「その項を用いる主観(つまり誰目線、誰にとっての意味になるん)」という3つのものの関係が必要になるってことでいいのかな。

いやー、こんな感じでいちいち読み替えていくもんだから骨が折れる。代名詞が多すぎるんだよな。英語はそういう言語だからいいとして、翻訳する時まで「それ」「そういうもの」とかで訳しちゃうかね。いちいちそれってなんだよ!って足を止めてしまう。まぁ、文句はおいといて進めていこう。

われわれは或る意味−パターンを、そのなかにあるどの項の観点からでも眺めることができる。そこで同一のパターンについての記述も、それに応じてさまざまに異なってくる。われわれは或る種のシンボルが或る人に対して或る対象を「意味する」というように言うこともできるし、あるいは、彼はそのシンボルによって、その対象を「意味する」というように言うこともできる。第一の記述は意味を論理的な意味に、第二の記述は心理的な意味に取り扱っている。前者はシンボルを基調として、後者は主観を基調として取り扱っている。そこで、最も論争の的となっている二種類の意味ーー論理的意味と心理的意味ーーは、意味を項の性質としてではなく、項の機能として眺めると言う一般的原理によって区別され、同時に互に関係づけられる。p.66

さっきも言った通り、なんらかの項が意味を持つためにはそれだけじゃなくて他の項とか主観との関係が必要なんだけど、ここで言ってるのは、その関係にあるどんな項からでも、その意味を捉えることができるよねーってことか。

タイトルにもあるけど基調って聴き慣れない言葉。「主調」と同義だと。Keyか。つまり、シンボルを基調としてっていうのは、シンボルからみてってこと。シンボルを主語にして。主観を基調としてってのは、主観から見て、主観を主語にしてってこと。この文章の対応関係を考えると、意味の論理的側面=意味のシンボル的側面、意味の心理的側面=意味の主観的側面、ってことになるのか。

で、その二種類の意味は、ある項と他の項、そして主観との関係から見た時に、区別されると同時に結び付けられる、と。

項とその対象との関係についてーサインとシンボル

次に、項とその項の対象との関係について。これらは主観によって関係づけられるんだと。それを理解した上で

まず第一に、項は明瞭に相異なる二つの機能をもっており、そしてそのいずれも「意味」と言う名前を与えられてよい十分な権利をもっている。というのは、意味をもつ音声、身振り、事物、事象(たとえば、閃光に似たひらめきとか、ある映像など)は、サイン、またはシンボルのいずれにもなりうるからである。p.67

項ってのはサインにもシンボルにもなりうるんだと。サインはシグナル。

サインは事物、事象、または状況がーー過去、現在、または未来においてーー存在したこと、すること、またはするであろうことを示す。p.67

例えば、道が濡れていたら、それは雨が降ったというサインだし、屋根の上にポタポタと音が聞こえたら、それは雨が降っているサインである、などなど。

ここに挙げたすべての実例は自然的サイン(natural sign)である。自然的サインは、いっそう大きな事象の、または複雑な状況の一部分であり、経験に富む観察者にとっては、そのサインが顕著な特性となっている状況の、残りの部分のサインとして作用する。それはある自体の兆候(symptom)なのである。

自然的サインは、何かが起こる前触れであると。

サインとそれの対象との論理的関係はきわめて単純な関係である。両者は連合して、ともかく一対をなしている。すなわち、両者は一対一の相関関係を生しているのである。…サイン作用(signification)というそれの重要な機能には、これ以外に第三の項、すなわち、その一対をなしているそれらの項を使用する主観が含まれている。…しかし、主観は一対となっている他の項に関連すると同時に、それらのおのおのと個別的にも関連しており、このために、一方がサインとなり、他方が対象となることに注意されたい。p.68

サインは対象と一対一の関係を持つ。

で、その一対一の関係に主観が関連していると。「サインー主観ー対象」的な構図であってるのかな。いや、間に挟まれると言う直線関係より、三角関係か?「サインー対象」と言う一対の関係に対応すると同時に、「サイン」に対しても、「対象」に対しても個別的に関連する、という構図が正しいか。

では、サインとサインが示す対象の違いとは何か。

その相違点は、次の事実である。すなわち、主観ーーこの主観に対して二つの項は一対をなしているーーは、一方の項が他方の項よりも興味の多いこと、また前者よりも後者が利用しやすいことを認めるに相違ないという事実である。…もし主観、すなわち解釈者(interpretant)がいないとすれば、サインとそれの対象とは互に入れ替えできるであろう。稲妻がやがて雷鳴の聞こえてくることのサインとして作用するのと全く同様に、雷鳴は稲妻が光ったサインであると言えよう。両者はそれ自体としては相関関係であるにすぎない。サイン作用が或る項に所属する場合が現実に生まれてくるのは、一方が知覚でき、他方が(前者より知覚しがたいか、または全く知覚できないかのいずれかであるが)興味を引き起こす場合に限られる。p.69

主観からして、2つの項の重要度(つまり興味の多いこと)の違いが、2つの項をサインとするか対象とするか決める。

サインと対象とは、一対一の対応をなしており、それによって、後者(対象)に関心を抱き前者(サイン)を知覚する解釈者は、自分に関心を与える項の存在を理解しうるのである。p.69

主観はサインと対象の対応関係によって、自分に関心を与える項の存在を理解する。

次に、シンボルについて。

シンボルとして使用され、サインとしては使用されないような項は、それの対象の存在に適当した行動を呼び起こすものではない。…シンボルは、それらの対象の代理ではなく、対象についての表象(conception)を運ぶものである。或る事物、または状況を表象する(心に描く conceive)ことと、「それに対して」はっきりと「反応する」こと、あるいは、それの現存に気づいていることとは同一ではない。事物について話す場合、われわれは事物についての表象をもつけれども、事物それ自体をもってはいない。そしてシンボルが直接的に「意味する」ものは表象であって、事物ではないのである。pp.71-72

要するに、シンボルは事物ではなく事物の表象(イメージ的な)を意味すると。

サインとシンボルとの根本的な相違は、この連合の相違であり、したがって、意味機能について第三者である主観が、それらを利用するその用い方の相違である。シンボルが主観を導いて、それの対象を表象させる(心に描かせる)のに反して、サインは主観に対してそれの対象を報告する。p.72

サインとシンボルの違いをいったんまとめておく。

・サインは対象(事物)それ自体を意味する。

・シンボルは、対象(事物)の表象(イメージ)を意味する。

・シンボルは主観のうちに対象を表象させる。

・サインは主観に対して事物の存在を報告する。

この後、犬と人間の固有名詞への対応の違い(犬はサインは理解できるが表象することはできないためシンボルは理解できない)やヘレンケラーの逸話などを取り上げていくが詳細は割愛。その後にランガーはこう述べる。

サインは行動の基礎であり、シンボルは思考の道具である。p.75

これはサインをシグナルと言い表した方が理解しやすい。行動心理学的な影響が見て取れる。

言語についてーー語、文法的構造

ところで言語はサイン作用もシンボル作用も両方持ち合わせる。しかし、ランガーはヘレン・ケラーの逸話をもう一度引用して、シンボル作用の方こそが「真の言語」だ、と言う。

どんなに狭い範囲での言語であるにせよ、またどんなに原始的な言語であるにせよ、ともかくも真の言語の光に照らされてこそ、真の思考が可能になる。彼女(ヘレン・ケラー)の場合、w-a-t-e-rという語が必ずしも水が要るとか、水を持ってきて欲しいというサインではなく、この物質のことを述べたり、考えたり、思い出しうるための名前であるということを発見して、はじめて真の思考が可能となったのである。p.75

さて、まだサインとシンボルの区別の話は続く。

普通のサインの機能には、三個の必要欠くべからざる項、すなわち、主観、サインおよび表象がある。最もありふれた種類のシンボル機能である表示作用は、四個の項、すなわち、主観、シンボル、表象および対象を必要とする。…表示作用とは、名前がこの名前をもつ対象に対してもっている複雑な関係である。しかし、名前またはシンボルと、これと連合した表象とのいっそう直接的な関係をどのように呼んだらよいであろうか。それは伝統的な名前である含蓄作用(connotation)と言う語で呼ぶことにする。語の含蓄(内包)とは、その語が運ぶ表象である。語の表示する対象が存在もせず、期待もされない場合でも、語の含蓄(内包)がシンボルに残っているために、われわれは対象に対して全然あからさまに反応することなく、その対象について考えることができるのである。pp.76-77

語の含蓄=語の運ぶ表象。これがシンボルに残っているから、対象が存在しないような時や物事についても考えることができるのだと。

とはいえ、これらの作用、つまりサイン作用、表示作用、含蓄作用にも失敗は当然存在する。

いずれの場合の表示作用にも、ある種の心理的な行為が含まれているが、これいわば、或る項(名辞)の、或る対象への適用作用(application)と呼んでよい。…語の内包は、長年月にわたる適用作用から派生してきたのではあるが、現在では、その語を適用できる若干の場合に比べて、より限定されたものになっている。われわれが或る項(名辞)を誤って適用したとき、すなわち、それの内包を満足させない対象にそれを適用したときには、われわれはその項(名辞)がその対象を「表示した」という風には言わない。それは、四項から成立する意味-関係のうちの一つの特性が欠けており、だからそこには真の表示作用は全然なくーー単に適用作用という心理的な行為があるだけで、しかもその適用作用が間違っていたのである。pp.77-78

表示作用は、シンボル、主観、表象および対象という四項を必要とするが、語を誤って使用したとき、は、対象と言う特性が欠ける、という理解でいいのかな。だからこれは表示作用にすらならなくて、ただ間違った適用作用があるだけだ、と。

さて、次にランガーは文法的構造について述べる。

文法構造も意味のいま一つの源泉である。それは項(名辞)でさえないために、それをシンボルと呼ぶことはできない。だが、それはシンボル化の使命をもっている。それはおのおのが少なくともそれ自体の断片的な内包をもつ幾つかのシンボルを結合し、一個の複合的な項を形成するが、この項の意味は、そこに含まれるすべての内包の特殊な布置である。この特殊な布置がなんであるかは、複合的シンボル、すなわち命題(proposition)の内部における構文的関係に依存するのである。p.81

文法構造それ自体はシンボルではないが、それはいくつかのシンボルを結合する機能を持ち、それによって複合的な項を形作る。

布置、って聞き慣れない言葉だな。調べる。物を適当な場所に配置すること。配置って言い換えた方がわかりやすいな。

つまり、複合的な項の意味は、そこに含まれる項の内包(含蓄)の特殊な配置のされ方である、と。そしてその配置は、複合的シンボル=命題(proposition)の内部における構文的関係に依存すると。で、その構文的関係とは何か。

ある命題が事実に適合するのは、それがその事実のなかに必然的に含まれている事物や行動を表す名前を含んでいるからだけでなく、ともかく命名された諸対象が「事実として」結合されているパターンに類似したパターンによって、命題がそれらの名前を結合するからでもある、と言うことが明らかになってきた。或る命題は或る構造の、言いかえると或る事態の構造の絵画である。命題の統一性は、その内部にいかに多くの事項が識別されうるにせよ、全体として一個の景色を現示する絵画のもっている統一性と同種類のものである。p.82

比喩が多くてわかりづらい。が、比喩が多いところこそ著者が一番言いたいことだったりする。比喩を使えると言うことはそれに対して深い理解があるということでもある。

命題とは、複合的なシンボルだった。そしてその複合的なシンボルがある事実に適合するのは、対象が事実として結合されているパターン=関係の中での機能に「類似したパターン」によって、対象の名前を結合するから。

つまり、複合的なシンボル=命題は、事実的な意味と類似した意味をもつ、ということか?ちょっと判断は保留にして先に進む。

絵画の描出の仕方と概念、本質的なパターンについて

ランガーは絵画を例に出す。絵画はある対象を描出するが、そのためには実際の対象を完全に複写する必要はない。ある程度の自由の幅がある。

こうした自由の幅があるのは、絵画が本質的にそれが描出するもののシンボルであり、それの複写ではないからである。…言うまでもなく、イメージによっていっそう細部が描写されればされるほど、特定の対象との関係はますますはっきりしてくる。一枚のすぐれた肖像画は一人だけの人物を「そのまま」に描出する。だが、りっぱな肖像画でさえ複写ではないのである。…絵画はシンボルであって、いわゆる「媒材」はシンボル体系の型である。だが、言うまでもなく、その絵画をそれの原物に関連づけるなにものかが…ある。それがなにを描出しうるかは、全く絵画の論理、すなわち、それの諸要素の配列によって定められるのである。…(諸要素の配列が)或る対象を意味する形式を決定させる。これら形式は、われわれが類似した形式を認めるすべての対象、しかもそれらの対象だけを意味することができる。p.83

色や線といった要素の配列が絵画の形式を決める。そしてその形式は、類似した形式の対象だけを意味することができる、と。

簡単にいえば、ウサギという対象を書くなら、耳を長く書くことで、ウサギと類似した形式をもつことになり、それによってその絵画はウサギを意味する、と。

ある家について、写真、油絵、スケッチ、建築家の立面図、建築業者の図面というそれぞれ違う描出の仕方があるとする。なぜ、これをすべて「同じ家」を描出した物だ、と疑いなく言うことができるのか。

それは、きわめて相異なるイメージのおのおのが、その家についての表象を定式化するに当って、あなたの目が捉えた諸部分についての同じ関係を表現するからである。…同じその家についての他の人々の表象がどんなに多くの個人的視覚をもっているにせよ、その表象はそれの本質的なパターンにおいては、それらの絵画と一致し、またあなたの表象とも一致するのである。われわれが感覚経験、感情および純粋に個人的な連想については、そこに個人差があるにもかかわらず、われわれが「同じ」家について一緒に話しうるのは、その家についてのあらゆる正しい表象が共通にもっているこのような根本的なパターンによるのである。或る対象についてのすべての適切な表象が共通に持たねばならないものは、その対象についての概念(concept)で或る。同一の概念が多数の表象として具体化されるのである。当面の対象を含蓄的に示しうるものは、さまざまな姿をとっている思考あるいは心象(imagery)のいずれのなかにも現れてくる形式、すなわち、それぞれ相異なる個人の精神にとってはそれぞれ別々な感覚の包被に覆われた形式なのである。pp.84-85

描出の仕方が異なっていても、それに含まれる諸要素の関係の仕方が同じだから、同じ対象を表しているとわかる。その諸要素の関係の仕方が、「本質的なパターン」だ、ということか。つまり、諸要素が同じでもそれらの関係の仕方が違えば、同じ対象にはなり得ないということでもあるな。それは確かにそうかも。無理やりこじつけて認識する場合でも、それはきっと自分のイメージの中で「本質的なパターン」を作っているんだろう。この「本質的なパターン」=「概念」ということになる。プラトンのイデア的な感じするな。

シンボルが真に運ぶものは概念だけである。しかし、その概念がわれわれに対してシンボルによって示されるやいなや、われわれ自身の想像力は、それを私的で個人的な表象によって装うのであるが、しかし、この個人的表象と伝達不可能な公共的概念との区別は、ただ抽象化の過程によってはじめて可能である。…シンボルを理解する能力…は、人類の特色を最もよく示す心的特性である。その能力は人間の精神の中で絶えず行われている無意識的な自発的な抽象作用の過程となってゆく。それは、経験に付与されたどのような配置形態(configuratiton)のなかにも概念を認知し、それに応じて表象を形成する過程である。p.86

表象とは私的なものである。これはその通りだと思う。そしてその私的な表象と、普遍的、公共的な概念の区別は抽象化の過程で可能になる。その抽象化の過程とは、どんな配置形態のなかにも、普遍的な概念を認知し、その概念に応じて私的な表象を形成する過程である。

さっきの家のさまざまな描出の仕方をもう一度例にあげれば、写真から図面のさまざまな描出の仕方はそれぞれ諸要素の独自の配置形態をもつ。しかし、その配置形態がどんな仕方であっても、その中から普遍的な概念(つまりその家であるということ)を認知することができ、その概念から私的な表象(あの家を表しているのだ)を形成する、という過程。ってことか?わかったようなわかってないような。

類比的なパターンについて

ところでその諸要素の独自の配置形態=複合的なシンボル=命題だった。

われわれが表示的シンボルのパターンを作り出すと、それは直ちに表示された事物の配置形態のシンボル、つまり、そのパターンとは非常に異なってはいるが、しかし類比的な関係にある配置形態のシンボルとなるのである。p.87

つまり、表示シンボルのパターンは(表示された事物の配置形態のシンボルの)「類比的な配置形態のシンボル」になる、と。

それによって、語の時間的順序が事物の関係的順序の代わりになる、とランガーは言う。語の時間的順序、と言う表示パターンが、すなわち事物の関係的順序という類比的なシンボルになる、ってことか?このへん自信ない。まぁ置いとこう。

次にランガーは絵画から言語に話題を移す。

言語では諸関係はどのようにして表現されるのであろうか。それらはおおむね絵画の場合のように、他の諸関係がシンボルとなって表されるのではなく、実名詞と全く同様に、命名されるのである。p.88

つまり、ある2つの項をIやYouというように命名するのと同じく、その2項の関係を動詞として命名し、表現する。

I help you.という文の中で、helpと言う動詞は、私とあなたとの間の関係を示す。しかし、この関係が対称的でない場合は、語順や文法がその方向性を示すシンボルとなる。I help you.とYou help me.は異なった事態を示すし、help you meでは全く文になっていない。語順がある程度文構造の意味を決定する。

そしてランガーは言語のメリットを挙げていく。まず絵画に比べて経済的なシンボルであること。そして次のように述べる。

語の長所として推薦できるいま一つの点は、それがシンボル(またはサイン)としての価値以外になんらの価値をも持っていないことである。…シンボルが中味のない、どうでもよいものであればあるだけ、意味機能の力(意味を表す力)はますます大きいのである。…音語そのものは無価値であるために、われわれはそれの物質的な現存を全く意識しなくなり、それの内包、外延その他の意味だけを意識するようになる。p.90
言語的シンボルのもつ最大の長所は、おそらくそれらが驚くほど容易に組み合わせに参加できることである。p.91

これらの特徴、つまり、シンボルとしての価値以外に価値はないということ、そして組み合わせることが簡単であることによって、事物についてだけではなく、状況についての概念も具体化できるようになる。先ほどの動詞のように。

精緻な関係パターンを表現する動詞によって、幾つかの要素を互に連結させている文のような複合的シンボル-構造は、一種の「論理的絵画」とも言いうるものであって、これを適用できるかどうかは、多くの語の外延と、多くの関係-シンボル(語順、不変化詞、格など)の内包とに依存する。もしそれらの名前が外延をもっておれば、その文はなにものかについて述言している。この場合、それが真であるか偽であるかは、表示されている事物相互間に現実に成立している諸関係が…複合的シンボルの構文論的パターンと類比を持っているかどうかに依存するのである。pp.92-93

外延とは、その概念が適用される事物の集合のことを言う。本という概念の外延は、絵本や小説、論文等々である。

つまり、ある語の適用できる事物の集合と、文法構造によって、文と言う複合的シンボルは適用できるかどうかが決まる、ということ。そして、その文という複合的シンボルの構文論的パターン=関係と、それが指す現実の事物の間の関係が類比的なものであれば、真であるし、そうでなければ偽であるということか。

多分、めちゃくちゃ当たり前なことを言っていて、例を挙げれば一発でわかるようなことなんだけど、それを厳密に理論化するとこうなるのか。もっと簡単に言い換えられないかなー。

語が示すことのできる内容と、文法構造によって、文が成り立つかどうかが決まる。で、その文における項の関係と、その文が示す現実の関係が似ていれば真だし、似ていなければ偽だと。当たり前すぎる…。けど、ここを厳密に定義しておくことが大事なんだろう。

そして最後に次のように述べてこの章は終わる。

すべての意味-関係のなかにある論理的構造の主な輪郭は、以上私が論じたものによって尽きている。すなわち、心的選択作用による、サインとそれの意味との相関関係、シンボルと概念との、および概念と事物との相関関係ーーこれは名前と事物との「最短絡的」関係、つまり表示作用と呼ばれるものを生じるーー、さらにまた精緻なパターンをもつシンボルを、経験のなかにあるそれと類比的なものにあてがうことーーこれはすべての解釈と思考の基礎であるーーなどもまた同様である。本質的にこれらが、人間生活の真の結構をなす錯綜した意味の織物を織りなすときに、われわれの使用するところの関係なのである。p.93

と、いうことで第3章終わり。1万字余裕で超えた。30pちょいにどんだけ時間かけてるんだ…。理解力欲しい。やっと6割くらいの理解な気がする。

とはいえ、これをまず理解できないことには次章以降に進めない。2回目の読みになるけど、きっと理解度全く違うだろうなー。時間がかかりすぎるが仕方ない。

とりあえず以上。お付き合いいただきありがとうございました。





おそれいります、がんばります。