音楽鑑賞を考える前に、音楽について考える

必要性の増す鑑賞教育

コロナウィルスの影響で、学校の音楽教育の授業内容にも様々な制限がかかってきている。例えば、歌唱の指導、リコーダーなどの管楽器の指導などは当面の間、従来通りに行うことは難しいだろう。学校教育では大きな比重が置かれているこれらの内容が実施できないとなると、それらの代替となる授業を考えなくてはならない。

そこで、おそらく多くの教員が鑑賞の授業を行うのではないだろうか。コロナウィルスの収束がいつになるか諸説あり、具体的な見通しはつかないが、当面、鑑賞を軸に授業を構成していく必要があるのは間違い無いだろう(余儀なくされているともいえる)。鑑賞の教材研究がこれまで以上に必要だ。

とはいえ、昨今「鑑賞領域」についての研究は様々な研究者が進めており、それらを参考にするのも良いだろう。この機会に、学習指導要領を改めて読んだうえで、授業を作るということもできる。どんな曲を教材にするのか、楽曲分析を行ったり、指導事項に適した演奏を探したり、普段そこまで時間をかけられない点にも時間を割くことができるだろう。

自分の音楽観に自覚的になること

しかし、あえて提案したいのはそのような教材研究を行う前に、「自分の音楽観」とはどういうものなのかを改めて考える、ということだ。

なぜか。それは、鑑賞指導にせよ、諸々の実技指導にせよ、そこには少なからず「自分の音楽観(あるいは指導観)」が介入するからだ。言い換えれば、自分のこだわり、ここだけは譲れない、という視点が入り込んでしまうということだ。

学習指導要領を読んで、学校における音楽教育には〇〇という視点が求められていることが分かったとしよう。例えば、鑑賞においては、「音楽を形作る要素の知覚・感受」が共通事項に挙げられている。この部分を読み、鑑賞授業において、リズムや音高、音色やテンポといった音楽の要素に着目させることが求められていることがわかる。しかし、音楽の全体性を重視するような音楽観を持つ人であれば、音楽はこのような要素が積み重なってできているものではない、これでは木を見て森を見ずである、と思ってしまうだろう(この批判に関して、平成29年度版の学習指導要領では、これに加え、「その関わりについて考える」などの文言が追加され、要素同士の関わりや音楽の全体としての構造も考慮されることになったのは注目したい点である)。

学習指導要領とは異なる音楽観を持つ場合、その音楽観が授業に影響を与えることは想像に難くない。とはいえ、そのような独自の音楽観を持つことは学習指導要領に音楽観に合っていないからといって否定されるべきではないし、むしろその独自の音楽観があるからこそ、良い授業が生まれることもあるだろう。学習指導要領は、指導のあるラインを決めているだけであって、それを超えた発展的な内容を実施してはいけない、ということではないと指摘する研究者もいる。

さらにいえば、自分の音楽観に自覚的になることで、自分の音楽観のメリットやデメリットにも気づくことができる。ある曲の鑑賞では自分の音楽観が有効になることもあれば、適さない場合もありうる。例えば、クラシックを主に聴き、ジャズやポピュラー音楽をあまり聴かないという人は、ジャズやポピュラー音楽についても、クラシックの枠組みで聴いてしまうかもしれない。それでは適切に音楽を評価できているとはいえないだろう。また、同じクラシック音楽でも、時代区分によって聴き方は異なるだろう。自分の音楽観が、どのような音楽には適しており、どのような音楽には適していないのかを考えることは、様々な音楽観を否定するのではなく、受容することにも繋がる。そしてそれによって、自らの音楽鑑賞の幅も広がるし、指導すべき内容や、指導方法も明確になるだろう。

音楽とは何かを考える

では「自分の音楽観」をどのようにして自覚すれば良いのだろうか。これについては、「音楽とは何か」と考えてみることが必要だろう。音楽を哲学する、ということだ。

音楽鑑賞のモデルの多くは、その根底に「芸術哲学」「音楽哲学」を持っている。芸術とは何か、音楽とは何か、という問いに対して、ある哲学者や研究者が出した答えに則って、そのモデルが構築されている。音楽は音楽的な要素の塊である、という答えにのっとれば、それぞれの要素を正しく知覚することが音楽鑑賞の正しい方法だ、ということになるし、音楽は出来事であり、行為である、という答えにのっとれば、音楽に没頭することが音楽鑑賞の正しい方法だ、ということになるだろう。

つまり、音楽とは何か、という答えによって、音楽鑑賞の方法が変わってくる。そして、自分が考える「音楽とは何か」への答えが、自分の音楽への向き合い方を形作るし、教えるという場面ではその答えによって指導が方向付けられる。

だからこそ、教材研究を行う前に、そもそも「音楽とは何か」と考えることが必要なのだ。

とはいえ、そのような哲学的な問いに答えることは簡単なことではない。では、どうすれば良いのだろうか。そのためには、これまでに論じられてきた「音楽とは何か」という問いへの答えを知り、自分の音楽観がどの論とよく適合するのかを考える、ということができるだろう。

では、どのような論があるのだろうか。これについては、分析美学の分野で論じられている内容を参考にしていきたい。源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学-』が詳しい。これについてはまた別でまとめる。

もちろん、このような考え方は他の分野にも適用可能だ。一般的に言われている「〇〇とはこういうものだ」という理解に、一度疑問を投げかけてみる。そして、自分がそれについてどのように考えているのかに自覚的になってみる。それによって、一般論に埋もれていた自分の視点やこだわり、大事にしていた点などが見えてくるのではないだろうか。


おそれいります、がんばります。