倉田剛 日常世界を哲学するー存在論からのアプローチ 第3章 集団に「心」はあるのか?ー全体論的アプローチ まとめ
まだ読んでいる途中だけど、自分の関心のポイントになりそうなところがあったのでまとめておく。
第3章 集団に「心」はあるのか?ー全体論的アプローチ
集団を好悪の対象にしたり、集団にある性質(価値)を与えたり、集団を行為の主体として捉えたりするが、このとき対象となる集団とはどのような存在なのか。
集団の心
集団について語る時、その集団にある心的態度を帰属させるような言い回しが数多く含まれる。本書で挙げられている例から、集団に帰属させられているのは、信念、欲求、意図だと言える。
集団は何らかの心的態度を実際にもつのか
個人主義アプローチ
ここで言われる「個人主義」とは、集団に関する現象は個人に関する現象とその組み合わせによって説明できるという立場=方法論的個人主義methodological individualism
これに対立するのは全体論holismあるいは集合主義collectivism
総和説summation viewによれば、集団の心的態度は、個人の心的態度の総和として説明される
つまり、
集団Gはpを信じている⇔集団Gに属する全てのメンバーはpを信じている
しかしこれだと、集団のうちの誰か一人でもpを信じていなければ成り立たない。よって次のように提案される。
集団Gはpを信じている⇔集団Gに属する大多数のメンバーはpを信じている
だが、これでも集団の約半数がpを信じていなくとも、集団Gがpを信じている、ということもできる(すでに決定された事項を合理的に説明される時など)。
また、普通われわれは集団Gの決定や行動に関与する信念のみを「集団Gの信念」として記述する。
承認説acceptance view
この立場によれば、集団の信念は次のように規定される。
集団Gはpを信じている⇔Gの中に特別な地位に基づいて意思決定を行うメンバーがおり、かつそれらのメンバーが、pをGの見解として集合的に承認する
この立場のメリット:pを信じていないメンバーが多数いるときでさえGはpを信じているということができる(極端にいえば誰一人信じていなくても良い)
承認説の限界:特別な地位は、その集団から切り離すことはできないし、そしてその地位にいる個人は、個人ではなく属する集団の観点から判断を下す。そうであれば、「集団における現象は全て個人の現象及びその組み合わせによって説明される」という個人主義は成り立たない。また、集団の見解はそこに属する個々人の見解に還元できない。これも個人主義に合わない。
承認説は、個人主義を謳いながらもそこには全体論的な見方が紛れこんでいる。
心的態度の帰属とは
そもそもなぜわれわれは他人に心的態度を帰属させるのか?
→他人の行動を合理的な仕方で説明する、あるいは予測するため、またはそれを理に適った仕方で理解するために、他人に様々な心的態度を帰属させる
つまり、ある行動を合理的に説明、予測理解するため。
こうした説明や予測を可能にする枠組みは「素朴心理学folk psychology」と呼ばれる。これが与える説明は合理的だが科学的であるとはいえない側面を持つ。言ってみればそれは「態度帰属のゲーム」である。とはいえ
今日の社会諸科学の基礎理論の一つと目されている合理的選択論あるいはゲーム理論から、信念や期待と言った素朴心理学的概念を奪い取ってしまえば、それはもはや理論として成立し得ないでしょう。これらの事例からわかることは、素朴心理学の枠組みが、たんに私たちの日常生活にとって欠かせないだけでなく、現在の社会科学の基礎にとっても重要な役割を果たしているということですp.108
ダニエル・デネットの言葉を借りれば、われわれは、ある対象の振る舞いを説明・予測するために、「志向的スタンスintentional stance 」と呼ばれる戦略を利用している。
志向的スタンスとは、ある存在者(人、動物、人工物等々)を、あたかも「信念」と「欲求」の「考察」によって「行為選択」を決定する合理的行為者であるかのように扱うことによって、その存在者の行動を解釈する戦略であるp.109
この戦略にとって重要なのは、他者にそうした心的状態を帰属させることで得られる行動の説明や予測が日常世界において有効であるという点。
人工物に対しては「設計的スタンスdesign stance」と呼ばれる戦略を採用するのが普通。人工物である対象の設計にもとづいて、われわれは予測を立てる。ただ、その人工物は故障しているかもしれないし、設計ミスを含んでいることもあるというリスキーな面はある。
志向的スタンスは設計的スタンスの一部だが、さらにリスキーな推論を行う。志向的スタンスを用いたからと言って他者の行動の説明や予測がうまくいかないこともある。しかし、かなりの精度で成功してきたという事実から、この志向的スタンスは支持されている。つまり、ヒューリスティックなものであると言える。
社会はわれわれの行動に関して素朴心理学的な説明を必要としている
志向的スタンスから有効かつ実りある仕方で予測可能なものは何でも、定義上、志向システムである(Dennett 1991:339)p.112
集団の心を擁護する
著者は、集団に志向的スタンスを適用することで有効な説明と予測を導き出しうると主張する。そして導き出されたならば集団はある意味で心を持つと述べても良いという。
ある集団の方針やある集団の信条といった心的概念を理解するためには、志向システムとして捉えることが不可避なケースもある。
全体論の課題
集団の心に関する全体論的アプローチは、政治的な理由によって忌避されてきた。全体論は個人の自由を抑圧する「邪悪な理論」として捉えられてきた=ファシズムや全体主義
とはいえ、この章で語られてきた「許容可能な全体論」は民主的な社会に生きるわれわれの行動や意思決定のプロセスを理解する上で不可欠である。
個人主義は、われわれの行動や意思決定を拘束している社会構造を軽視する傾向にある。
志向的スタンスを適用できる「集合的なもの」の範囲はどこまでか?
→市場や群衆、社会階級や社会階層には適用できない。
高度に組織化された社会的集団(政府や球団などが例として挙げられている)が分析対象だったのは偶然ではない。
この範囲を決定することが課題になっている。
以上。
感想
音楽は特定の文化や社会、歴史的背景などの文脈をその理解のために必要とする、という側面がある。これも言ってみればある種の社会的集団だと言える。であれば、この章での議論はそのような音楽の持つ文脈の分析に適用できる部分があるのでは、と思った。
設計的スタンスと志向的スタンスの考え方も音楽を捉える際に適しているようにも感じる。音楽って人工物だから設計的スタンスにも当てはまるし(作曲における設計ミスというのもありうるだろう)、志向的スタンスのヒューリスティックな側面も議論されているところではある。
ただ、音楽における社会的集団がこの志向的スタンスの適用範囲内なのか、という課題はある。志向的スタンスの適用範囲内を画定することが課題という本書に提示された課題と重複する部分だが。
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