Bence Nanay 『Musical Twofoldness』のまとめ

昨日、この論文を読んでいた。

音楽鑑賞における、音楽作品それ自体の鑑賞と、演奏の鑑賞という二面性についての論文。(翻訳したけど、どこかに掲載できないかなぁ…。著作権の問題とか問い合わせをどうしたらいいかのノウハウがわかっていない)

目次と簡単な内容は以下。

1. イントロダクション

2.  二面性と絵画

図像の二面性というのは、絵や写真を見る時に、線や印など表面的特徴と、描かれているものの両方の経験がある、というもの。

ここでは、リチャード・ヴォルハイムの説を引用しながら批判していく。

ヴォルハイムは次のように主張している。

絵画を見るときに私たちが経験することになっているのは、二重の経験—われわれは同時に絵画の表面と表象された対象を認識している—である

ヴォルハイムが言うように、「絵画を鑑賞する人は、表象されているものだけでなく、表象の表面の質についても視覚的に認識」している。先ほども述べたが、これが「二面性」という特徴だ(二重性って訳してたけど、二面性の方がいいのかな)。

フェルメールの絵画を見て「果てしなく感嘆する」ことは、ヴォルハイムによれば、2つの体験—「線や筆跡、色の広がり」と「表象的にしか識別できない類推」の両方に同時に注目する—であるという。

とはいえ、これだと「seeing in(見出すことって訳したけど正しいのかな)」つまり絵画のうちに対象をみることに関する問題とは違うものについて答えてしまっている、とナナイは批判する。これは絵画を知覚すること一般についての回答であって、絵画の美的鑑賞についての回答にはなっていない、という。この原因としては、ヴォルハイムが「二面性」という、絵画の美的鑑賞のみを特徴づけるものを、一般的な絵の知覚に必要な条件として提示しようとしていることが指摘されている。

また、ナナイはヴォルハイムが使う「awareness」という語の概念が曖昧であり、その結果ヴォルハイムの二面性の概念も曖昧なものになっている、と指摘する。この二面性には二つの解釈ができる。それが次のようなものだ。

⑴われわれは意識的に描写された対象と、絵画の表面に属するある性質の両方に注意を払う。
⑵われわれは、描写された対象と絵画の表面に属する性質のいくつかの両方を表象(represent)する(表面に注意を払うかもしれないし、注意を払わないかもしれないが)。

ヴォルハイムは⑵を絵画の知覚一般の必要条件だとし、⑴を絵画の美的鑑賞の重要かつ必要不可欠な特徴であると主張しているが、この2つの二面性の解釈が混同されやすく、絵画の知覚に関する問題は絵画の美的鑑賞に関する問題と混同されやすい、ということに注意を払う必要がある。

また、ナナイは音楽の二面性については⑴の意味での二面性を用いる、とする。

3. 二面性と音楽演奏

ここで、ナナイは「われわれが音楽演奏を美的に鑑賞するとき、われわれは演奏された音楽作品の特徴と、私たちが聴いているトークンとしての演奏(token performance)の特徴の両方に同時に注意を払う」と主張する。

トークン、という語に聴き馴染みのない人もいるかもしれないので、簡単に説明しておくと、分析哲学で「タイプ」との対比で使われる概念のことだ。トークン(token)とは、具体的な特定の対象や出来事であるのに対して、タイプ(type)とは、抽象的で一般的な存在のことをさす。ここで言えば、「〇〇という音楽作品」はタイプだが、「〇〇という音楽作品の△△による演奏」はトークンだ、ということになる。

ここで、グッドマンの音楽作品の定義を引用して、最初の主張を次のように言い換える。

われわれが音楽演奏を美的に鑑賞するとき、われわれは同時に、われわれが聴いている演奏の特徴と、「ある性質に準拠した演奏のクラス 」の特徴の両方に注意を払うのである

その後、何点かこの主張についての注意事項が説明される。

第二に重要なのは、音楽演奏の特徴と音楽作品に同時に注意を払うことには、知覚的注意である必要はないことを強調することである。
第三に、私の主張は、音楽作品の演奏の美的鑑賞についてのものであり、音楽作品そのものの美的鑑賞についてのものではない。
第四に、音楽作品の特徴に注目するとはどういうことだろうか。ほとんどの説明によれば、音楽作品は一種のタイプである。しかし、どのようにして(このタイプのトークンの一つとは対照的に)タイプの特徴に注意を払うことができるのだろうか。気をつけてほしいのは、注意が知覚的注意と解釈される場合にのみ、これは潜在的な問題である、ということだ。そして、これまでにみたように、私は音楽作品の特徴に注意を払うためにはそれが知覚的注意である必要はないという立場を取る

また、この音楽作品と演奏の二面性に同時に注目することをナナイは重視する。その立場に立つために、以下の4つの音楽作品と演奏の二面性の鑑賞の仕方を例に出し、最初の3つについて批判を行う。

⑴音楽作品のみに注意を払い、演奏には注意を払わない。
⑵演奏のみに注意を払い、音楽作品には注意を払わない。
⑶演奏と音楽作品の両方に注意を払うが、同時にではない。
⑷演奏と音楽作品の両方に同時に注意を払う。

4. a 楽器性

この節の主張を簡潔にまとめれば、特定の楽器について精通している人は、そうでない人に比べて、その分音楽作品を美的に鑑賞することができる、という主張だ。そして、これはおそらく音楽をやっている人であれば直感的に正しい、と思うだろう。実際、自分もトランペットを吹いているが明らかに他の楽器による演奏よりも鑑賞するポイントが細分化されているように思う。

この楽器性のことをinstrumentalityと呼ぶらしい。これは非常に興味あるポイント。

4. b マルチモダリティ

この説では、音楽演奏の体験がマルチモーダルなものであることについて述べられている。

マルチモダリティとは、以下の記事に詳しいが、視覚や触覚、聴覚といった感覚モダリティは、それぞれ独立に機能しているのではなく、互いに影響を与えながらある対象を知覚している、というものだ。


5. 結論

前節のマルチモダリティから、ナナイは演奏の「真正性」の問題に一石を投じようとする。演奏の真正性とは、音楽作品はどのように演奏されるべきか、という問題だ。古楽は当時の楽器を用いなければならないとか、作曲の意図通りに演奏しなければいけないとか、そういう問題のことだ。

とは言え、保守的な考え(本物の演奏だけが許容され、演奏は可能な限りオリジナルの演奏を正確に複製したものであれば本物である)を支持する人にとっては、この考えは受け入れられないだろう。しかし、ナナイは次のようにいう。

しかし、非真正な演奏の経験でさえも、音楽作品そのものの美的鑑賞に加えることができるという保守的な立場の人たちは、2つの「層」に異なる重要性を持つ可能性が高い。「演奏」の層は、少なくとも「音楽作品」の層と同じくらい重要であり、音楽作品そのものに対する私たちの美的鑑賞に影響を与えることができ、またしばしば影響を与える。演奏の特徴は、音楽作品そのものの特徴を明らかにすることができる(それは、同じ音楽作品の将来の演奏を二度と同じように聴くことができないかもしれないほどである)。この場合、二重の音楽体験とは、演奏の特徴が、過去の演奏を基にして、その音楽作品の特徴とどのように異なるのか、また、運が良ければ、それを上回るのかを体験することである。


 この後ナナイは、保守的な立場の人が真正性の議論においてどのように考えているかによって、演奏の美的鑑賞の二重の経験は非常に異なるように見えるだろう、とまとめ、視点をミュージカル公演の美的鑑賞の二重の経験に移して理解することで、真正性の議論の背後にある動機について理解できるかもしれない、と示唆し、論を閉じる。

おそれいります、がんばります。