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生半可な認識の危険性

反復には神秘の力があります。
それゆえ、平凡な興味や趣味として軽率に霊的な修行法を用いたり、
本や、聞きかじりの知識から学ぼうとすると、大きな過ちをおかします。
このような知識だけで訓練しようとすれば、自らの生命を危うくします。
その人の進化の一定の時期に目覚めるべき中枢が、その時期よりも先に目覚めたりすれば、悲惨なことになってしまうでしょう。

ハズラト・イナーヤト・ハーン著・土取利行訳『音の神秘』
「Ⅲ ことばの力」より

私のように、音楽や詩歌を即興する者にとって、心強い指摘の多い本なのですが、

昨今のスピリチュアルブームや、好事家の実践のしかたには、
ここに言われるような危険性が、多大に見受けられるように思います。

基礎的な土台を学ばず、単にやりやすそうなことや、利用できそうな部分だけを短期間でかじって、
そこから自分解釈によって理屈を並べては他者を否定したり、
まわりくどいことなどせずとも、自分は極めたような錯覚をする精神論者が、かなり多い。

何かを実践してみて、自分に合わないとわかれば、そこから離れるのは無理からぬことだし、それを「やった」という実績にしなければ、かじった功罪にはならないと思います。
無理強いされることでも、義理で学ぶ必要もないのだから。

最もよくないのは、経験や基礎を知ることなく、
自分解釈のみの「自己流」だけで、人に何かの影響を及ぼすことを行い、誇示することだと思う。

ただ、一朝一夕で会得できることではないことを、
根気よく学び会得しようとすることなく、
「自由」という名のもとに、よくわからない言葉を詩歌として羅列するだけだったり、
ちょっと真似してみて、「自分のほうがうまくやれる」と、半端に応用して、
人目を惹けば満悦し、まるで自分が権威みたいに表立ちたがる人もいる。

スピリチュアルの片鱗だけかじり、神がかった真似をするスピ的素人芸能者も見かけますが、本当にそれをやった場合、どれほどの危険があるか、理解していないでしょう。

自分にわかりやすい本を数冊読んだだけで、資格もないのに「心理カウンセラー」を名乗り、短絡的に責任を持たぬまま、救いを求める人の心を懐柔していた人もいました。

音や、言葉や、所作が、
どんなに他愛なく見えても、
それぞれに意味があり、目にし、耳にする者に、
良くも悪しくも影響を及ぼすのだということを、知る人は少ない。

踏み出す足、腕のひと振りにさえ、影響があるのです。

真に表現者のおこないとは、
ただ、ちょっと心地よく聞こえ、簡単に理解しやすく、見た目が美しいだけでは済まない、響きや波動や螺旋を有していることを忘れてはなりません。

私自身、直感ではあっても、でたらめではなく、
これでも半生以上の時を積み重ねているから、直感に直結できている自負はあります。

ただし、誇示はしない。

理解されず、興味を持たれない、たとえ衆人から無視されることであったとしても、
現し世で行う限り、音にも響きにも所作にも、
誰に何を言われずとも、ひと目に触れずとも、責任を持たねばと自戒しております。

そうでなければ、結局は、自分で自分を否定し、自分が害悪になり、
さらには内にも外にも、自身を滅ぼすことになるとわかっているから。

繰り返すべきは、努力だけ。


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