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クソみたいな毎日に愛を込めて








 疫病、っていうのは古典だとか昔の物語の中に出てくることばだと思っていたから、初めてその言葉が世に出回ったとき、「あぁ、こういう風に戦争が始まっていくんだなぁ」とぼんやり、でも確信的に思った。世界大戦のような明らかな武力行使でなくとも、じわじわとひとの命を奪うものはすべて人にとっての戦で、争いだ。やれ薬が足りないだの、酸素が足りないだの、人を国に入れるなだの、入れてやれだの、どこか現実的でない、されど、まごうことなき現実の出来事が、私たちの日常をじわじわと奪っていくことを、私たちは呆然と眺めることしかできなかった。

 いつだってきっとそうなのだろう。戦争が始まるときも、疫病が起こるときも、天災に巻き込まれるときも、私たちはどこか他人事で、その事実に現実味を持たない。常に絵空事のような客観的視点を持って、無責任に、ぽっかり口を開けて黙る。そうしてる間に、じわじわと私たちの日常生活は色を変えていく。

 私たちはこの疫病で、顔の下半分を失った。失うことに、なんの疑問も持たなかったわけじゃないけれど、そうせざるを得なかった。顔の下半分ってすごく大事な要素なのに、例えば人間がコミュニケーション取るうえで死活問題ともいえる部分なのに、私は「あぁ、お気に入りの口紅を塗っても隠れてしまうな」だとか「マスクがファンデや紅で汚れてしまうな」だとか、その程度のことしか考えていなかった。おそらくは考えないようにしていた。だって考えたって、どうしようもなかったから。


 疫病が流行る寸前の3月、私は卒業旅行に行こうとしていた。わけのわからない疫病が流行り始めて、なんとか行こうとしていたけれど、なにより楽しみにしていたルーブル美術館が閉鎖した便りを聞いて、友人と、諦めた。就職直前にリスクを取ることもできなかったし、その頃にはすでにアジア人がヨーロッパに足を踏み入れることが一部危険だという声も出ていた。同じころ、大学の卒業式も中止になった知らせが届いた。10万円くらい、諸々のキャンセル料で飛んだ。卒業証書と、式典の一部で祝われるはずだった最優秀賞を取った卒業論文の賞状が、そっけなく、汚れたクリアファイルに挟まれて届いた。式典で着るはずだった袴の返金が現金で届いたから、それを握りしめて人生で初めてブリーチ2回して、金髪ショートにしてやった。そんな、学生最後の春だった。


 金髪にした髪を3週間足らずで真っ黒にして、入社した。超が付くほどの大手というほどでもないけれど、地元でその名前を言えば「あぁ」と言ってもらえる程度の会社に入った。お嫁さんがそこで働いてるなら安心できるね、みたいなそういう会社。知らんけど。
 かの疫病で入社式やら新入社員研修やらそういうのはすべて吹っ飛んで、言葉どおり「即席」みたいなオンラインの状態で諸々が始まった。ほんとは新入社員の研修は山の中で3週間だとかの期間、缶詰になって行われる厳しいものだったらしいけど、そういうのはなくなった。ぶっちゃけ、それはラッキーだと思った。でも代わりに5〜6月くらいから配属の予定だった私たちは4月の1日にそのまま配属先のテーブルに座らされて、実質的に業務を始める流れになった。全体的に教えてもらうはずのものは全部パワーポイントの資料をまとめた圧縮ファイルが飛んできて、それで終わりだった。その良さとか悪さとかは今だって私にはわからない。だって今もそれがあった世界線を知らないから。でもそのあとパソコンやら社用携帯やらを抱えて家に帰らされて、数週間出勤はおろかまとまな外出もかなわなくなってしまったときに、「大変なときに入社してしまったなぁ」とまた、他人事のように思った。大変じゃないときを知らないから、その苦労も知らないのでそこまでだった。

 配属先は、いわゆる産業都市だった。自分が元々住んでいた街がよく栄えていた分、そのあたりでは栄えている方だったけれど、私には随分と田舎に見えた。それも悪くないか、と思った。常に車が走り回り、ネオンライトが消えない実家あたりに比べてれば、人も少なく、静かで、そんで穏やかに見えた。バカでかいショッピングモールがギラギラと街の真ん中にあって、そこに行けばなんでも揃う感じ。みんな口揃えて「イオンがあるから大丈夫」という。確かに住みやすいだろうなとは思った。なんの采配かわからないけれど私は実家から通うことになったので、その街に1時間半と少しかけて通勤することになった。遠くね? とは思ったけれど、実家のある場所の方がいろいろと便利だったし、若い人向けの店もたくさんあったので、そっちに拠点があった方がいろいろ都合がいいかなと考えた。

 入社した日、席に座ったら、開口一番「〇〇から通うなら、コロナ、拾ってこないでね」と笑われた。まあ冗談のひとつ。でもオイオイいきなり失礼だなと笑った。他にもたくさん私の住んでる土地から通う人はいたけれど、見た目と年齢もあってか(と言ったってそんな派手な格好はしてない。住んでる場所が繁華街に近かったのもあるかもしれない)都会で遊んで来るんじゃないだろうな、なんて疑義の目をいきなり向けられていて結構ウケた。なくなった研修の指導は上司が受け持ってくれた。これは結構、いやかなり助かった。一対一でわからないことを聞けるのは随分と自分の身に入ったし、なにより上司の説明はとてもわかりやすかった。話しぶりからして、頭がいい人なんだろうなと思った。実際慶應か何処かだったと思う。とにかく、頭のいい人だった。

 その上司に面倒をかけてもらいながら少しの間、オンラインで会社のあれこれを学び、そんでそのまま現場入りした。よくある営業の仕事だった。同行させてもらって、ペコペコして、お話しして、ペコペコした。

 取引先の担当として出てくるおじさまがたを見ては、父のことを思い出した。昭和、とは言わないけれど、言うなれば平成の親父、という感じ。化学系のメーカーで働く父親は、生涯終身雇用を疑わぬ時代にて、仕事に邁進し、私が学生の頃には数年海外に赴任し、工場やら現場やらを何年も眺め、取り仕切っていたらしい。私はいまだに父がどんな仕事をしているのか知らない。多分母もよくわかっていないだろう。されど、取引先のおじさま(とりわけメーカー関係)と相対するたびに、「あぁ、父はおそらくこういうことを考えて、気にして、悩んで、私みたいな営業と話をしていたんだろうなぁ」となんとなく、わかった。わかったことが何故かなんとなく、嬉しかった。それだけでもこの仕事についた甲斐があるかもしれない、と思ったほどだった。

 営業の仕事は、それなりに大変だったけど割と楽しかった。人と話すのは好きだし、考えることも嫌いじゃない。お客さんと関係性を"構築"していくこと、(私ではなくとも会社そのものを)信頼してもらえること、何かを頼まれること、そしてそれをなんとか解決して、喜んでもらえること、ぜんぶぜんぶが楽しいことばかりではなかったけれど、でも嫌いじゃなかった。楽しかったな、と今でも思う。多分、私は営業という仕事そのものは割と向いていた。

 営業をしながら、学生時代のボランティアのことをよく思い出していた。学生時代、やることを持て余したときに先輩から紹介された「不登校の子のおうちに行って話し相手だとか、遊び相手になったりする」ボランティアを始めた。あとから知ったけどほんとは教員志望の人とかがメインでやるやつだったらしい。でもなんかすごく関心があった。給料なんて出ないし、出るのは最低限の交通費程度で、実質的にみたら割と赤字な部分もあったけれど、かなり頑張ってやっていた。でも7割スプラトゥーンかスマブラをやっていた。私自身教員でも親でもないよくわからない(責任もない)立場なので、よくわからないけれど出会った子たちの圧倒的な味方であろうと決めていた。もちろん不味いことや危険なことをしたときは注意をしたし、親や担当の先生にも報告をしたけれど、学校に行けだとか、勉強しろだとかは言わなかった。だって私は教員になる人でもなんでもないから。その子がどこかの公園に座り込んでいるとするならば、そこにたまたま居合わせた近所の住民程度であろうと心掛けていた。
 私はゲームにあんまり強くなくて、スマブラもスプラも壊滅的に下手なので(合コンで「スマブラはカービィしか使えません」って言うタイプの女だったから)子どもたちからは結構怒られた。下手すぎだろって何度も指導された。子どもたちはゲームのやり方を私に教えてくれるとき、なによりもイキイキとして、キラキラしているように見えた。まああまりにも上達しない私にイライラしてるときもあったけど。何か好きなものを伝えようとするときって、こんなにポジティブなエネルギーが溢れるんだなぁってそのとき思ったのを、よく覚えている。
 不登校の子どもっていうのは、もっとこう暗くて、おとなしくて、布団から出てこなくて、社会に絶望しているもんだと思っていた。少なくとも私が出会った子どもたちは、個性はそれぞれあれど優しく、穏やかで、真っ直ぐな、とにかく心のやわらかい愛しい子どもたちだった。
 ひとり、印象深い子がいる。当時中学生だった彼女はとにかく塞ぎがちで、もう数ヶ月は家族以外とまともに会話をした試しがない子だった。サポーターとして入っている先生(おじさん)からは「自分もまだ話せていない」と言われていた。
 家に訪ねてきた私を見た途端、不機嫌そうに黙り込んだ彼女は、仲良しの室内飼いのチワワにだけじいっと目線を向けて、部屋の隅の椅子にお山座りして足を抱えていた。彼女の事情は何もわからないけど、まあ少なくとも、こんなわけわかんない女がいきなり来たら嫌だよな、とは慮った。しかも彼女から見れば私は「学校関係者」だったりする。敵も敵。愛想よく喋れるもんかって感じだよな……。と思ったので、そう思ったことを全部チワワに向かって話すことにした。チワワの名前はリンちゃん、と彼女のお母さんから聞いていたので、リンちゃんに向かって私は自己紹介と、わけわかんないお姉さんがいきなり家に来ても困るよねぇ、なんて世間話をし続けた。チワワは比較的人懐っこい子だったので、ちろちろと彼女と私のあいだを動き回って、何度か軽く吠えていた。よく撫でさせてくれる子で、私自身犬やら猫やらと何時間でも遊んでいられるタイプだったのもあり、気付いたら1時間弱、自分の大学のこととか、バイトのこととか、最近あったこととかをチワワのリンちゃんに話し続けて、そんでリンちゃんと遊び続けた。
 「そろそろ」なんて思って立ちあがろうとしたとき、リンちゃんがくるりとお腹を見せて、私の前でくたりと寝転がり、こちらをじいと見た。帰らないで、とでもいうみたいだな、なんて、勝手に解釈してわしゃわしゃと整った毛並みを撫でていたら、足を抱えていた彼女が「つぎ、いつ来るの」ってぽそり、呟きを落とした。
「次はねぇ、2週間後かな。また来てもいい?」
「……うん」
「そかー、ねぇリンちゃんめちゃくちゃかわいーね」
「かわいい、この子がいちばんかわいい」
 犬はみんなかわいいけど、チワワがいちばん好きで、そんでチワワのなかではこの子がいちばんかわいいの。元気に暴れるリンちゃんを慣れたように抱えて、彼女は嬉しそうに頬擦りをした。あ、こんな顔してたんだ、って、1時間経ってようやく私は彼女の顔を見れた。
 彼女にとって私が良き存在となれたかは、いまだにわからない。ボランティアを辞めてからは連絡も取っていないし(してはいけない)そもそも向こうが私のことを覚えているかどうかもわからない。ただ、閉じた心がほんの少しでも揺らぐ、そいで開く瞬間の美しさをあんまりも真っ直ぐに見てしまったものだから、私は多分あの日のことを一生覚えているんだと思う。

 営業の仕事をしていて、ついその記憶を思い出すのは、営業という仕事が「人と人とが向き合う」時間を圧倒的に大事にするからだと思う。言葉通りペーペーだった私にはあまり深い話も、良き計らいもできはしなかったけれど、場合によっては何千万、何億との取引にもなるお客さんとの折衝はいたく刺激的で、毎度のこと、深く、記憶に刻まれた。会社と会社のやりとりとはいえ、交渉とは人と人とで為すものなのだなという当たり前の事実を、ひどく痛感した。それは私にとって苦しいところでもあった。経験不足はもちろんのことだけれど、こんな小さくてひょろい若い女のことを、まるで対等に扱ってくれている気はしなかった。気のせいだったかもしれない。けれど、でも間違いなくその自信のなさは相手に伝わっていて、不甲斐なさに日々、ため息をついた。

 仕事はとても楽しかった。楽しかったけれど、すごく苦しくもあった。上司はとても優秀な人で、それで申し訳なくなるほどに私のポテンシャルとやらをよくよく買ってくれていた。常に「本社で一線として働けるように」という視座のもとから降りる指令と業務は、期待がこもっているのもわかったから有り難くもあったけれど、少し、私には重すぎた。「ダメ」「ダメすぎ」「ほんとはもうこれくらい一人で全て出来てないと困るんだけど」「つかえない」「ありえない」「足りない」大きすぎる期待と、厳しい指導は徐々に甘々の未熟な私の心のどこかをザクザクと削っていった。当時のTwitterを見返すと「はやく成長しなければ」「もっと頑張らねば」「なんでもできるようにならねば」という意欲にも似た焦りから、「こんなことも出来ない私は無能」「なにが正しいのかわからない」「すべて間違っているに違いない」と歪んだ自己否定につながり、最後は「ゆるされたい」「何になのかわからないけれど、とにかくゆるされたい」とばかり綴られていた。

 担当エリア内のみの顧客対応だったはずが、気づけば部内で一人、たいして使えもしない英語で必死に海外のコンサルに折衝をしていた。まだ自分の仕事もてんてこ舞いなのに、全社規模のプロジェクトのひとりに選ばれて(といえば聞こえはいいけれど、面倒なものだったから流れてきただけだった)とにかくいろんな情報を詰め込んだり、アウトプットしたりの繰り返しが続いていった。頑張っていた、とにかく頑張っていた。けれど、どこかでストップだとかこれ以上出来ないだとかの区切りをつけておけばよかったのだと思う。でもまだ全てが未熟な私には、それすらわからなかった。

 圧力鍋が壊れていくように、強いプレッシャーがかかった状態から少しずつ、私は多分壊れていった。通勤時間の都合上5時半には起きないと間に合わないのに、0時を回っても眠れない日が増えた。休日の予定はとにかく身体が疲れ切っていて、キャンセルした。予約していた病院も行けなかった。そもそも余暇とは甘えだと思うようになった。最後の1ヶ月半くらいは、なぜか普段は5日程度の生理が止まらなかった。出血がとにかく終わらなくて、常にお腹が痛くて、でもそれでも私はなにかがおかしいってわからなくなっていた。
 乗り合わせが悪ければトータル2時間程度かかった通勤、その満員電車の帰り道、耐えられない吐き気と頭痛で何度か動けなくなったこともあった。夜、ホームの隅で埋まっていても、酔っ払いだと思われたのか、誰も助けてくれなかった。汚いアスファルトのうえで呼吸ができるまで、なんども、なんども息を吸って、吐いた。なにかはわからないけれど、とにかく、怖かった。耐えられなくて途中の駅でタクシーを捕まえて、倒れ込むように帰る日もあった。

 そんなことを続けたある日の朝。出社しなくちゃいけない5時半。身体が鉛みたいに重たくて、急に動かなくなった。なんとか起き上がっても嘘みたいに気分が悪くて、トイレから立ち上がれなくなった。なに? なにが起きている? ぼんやりする頭でとにかく会社に連絡して、そこから何日も、横たわるだけの日々が続いた。急に心にもやがかかってしまったみたいにぼんやりして、でも早く動かなきゃ、動けるようにならなきゃって必死だった。
 心配した親に引きずられるように病院に連れて行かれ、そのまま診断書が出た。急に、働けなくなった。

 終わりだと思った。人生何もかも。
 こんな程度で休むなら人類みんな休んでるよ、って思ったし、どうして私は仮病をしているのかわからない、とずっと本気で思っていた。てか病気なに? 甘え? 病気のふりをしている、しているに違いない。ほんとは元気なのに。ずっとそう思って、何度もケロッと治ったような顔をして復職しようとして、失敗した。その間に昔患っていたメニエール病を再発した。ぐるぐる嘘みたいに回る眩暈の中で、私はいったいどうしてしまったのだろう、なにをしているんだろうと、泣きながら考えた。わけのわからない体調不良のなかであっという間に何ヶ月も過ぎ去っていって、私の人生何だったんだろうって、ほんと、嫌になった。

 仕事は申し訳なさが強くて逃げるように辞めようとしたけれど、若手だったのもあり、つよく引き止められたので断りきれず留まった。赴任してきたばかりの新しい部長に「辞めるにしたって、元気になってから辞めなさい」と言ってもらえたのも大きかった。今思えばその部署の若い女の人、とにかくダメになって辞めていく人が多かったので、なんとか食い止めたかったのもあったと思う。それでもなんでもいい。こんな時代、次の職を見つけても簡単に見つからないし、ましてやこんなボロボロの身体ではどこにも行きようがないと思ったから、その言葉はただ、ありがたかった。

 身体の調子が落ち着いてきたころ、会社の人と面談をした。そのときは饒舌にしゃべったのに、その日の夜、急に過呼吸を起こした。吸っても吸っても息が吸えなくて、あれ、あれと思ううちに手がおかしな方向に曲がった。なんでか過呼吸のときに手が変な方向に曲がる症状を知っていたので、「あ、これ過呼吸だ」ってその手を見て、やけに冷静に確信して、そこからなんとか、どれくらい時間がかかったかわからないけれど、呼吸を整えた。その日から、生まれて初めて、呼吸をするのが下手になった。

 いやぁ、まずいなとそこで初めて、ひどく焦った。それまでシンプルな体調不良が前面に出ていたのもあって、私は精神的な不調を見ないようにしていた。診断書ではとっくにそう出てるのに、まだ、気持ち的なところは「気のせい」だと心のどこかで思い込んでいた。心療内科には通っていたけれど、診断書をくれること、あとは抗うつ薬や睡眠薬、抗不安薬をぽいぽいとくれる以外には特に対応はなかった。そこまでに貰っていた薬は、どれも副作用が酷すぎて全く飲めなかった。されど、過呼吸という明らかな精神的な身体症状を見て、いよいよちゃんとこの不調に向き合わねばならん、と私はようやく気づいた。そうしないと、本当に廃人になってしまうかもしれない。

 「カウンセリング」「カウンセラー」思いつく限りの言葉をグーグルに投げて、ひたすらに画面を擦った。高い、どれも高すぎる。そんで月に一回とかしかやってくれないのは、少なすぎる。いつ治るかわからない。どうしよう、と思っている中で、ひとつ、市指定の生活支援機関を見つけた。「リワーク」というやつ。カウンセラーさんが常駐する場所で、復職に向けての支援をしてくれるらしい。市の援助も受けられるらしい。

 「これだ」と縋る思いでネット予約をして、重い身体を引きずってそこに飛び込んだ。なにをしゃべったらいいかわからなかったし、うまく話せる気もしなかったから、これまでの状況、今の状況、飲んでる薬、どうして欲しいかなんかを紙にぐちゃぐちゃ書き連ねて、心理士さんとお話をした。「力になれると思います」とまっすぐ目を見て言われたときに、半年くらい生きてきて初めて、希望が見えたと思った。正直、施設の名前が「センター」だったこととか、デイケア、なんて名前がついていたことから、自分が「支援者」という立場になってしまったのだと言うショックも拭えなかったけれど、もうそんなのはどうでもいいくらい、縋りたい気持ちでいっぱいだった。プライドも意地もかなぐり捨てて、なんとか生きていかねばと思った。

 入所のための手続きは煩雑だったけれど、そこに入ったのは間違いなく正解で、あの日、あの夜、泣きながら施設のHPを見つけた私を今でも私は褒めてやりたいと思う。本当によく頑張った。あの日あの選択ができていなかったら、と今考えるだけで、ゾッとする。

 "認知行動療法"を主体とした施設でのプログラムは、どれも興味深く、そして私に効果的だった。残念ながら魔法みたいにすぐになんとかなったわけではなくて、(そのあと体調不良の反動なのか一気にひどい不眠とひどい抑うつに悩まされたのもあったのもあり、)回復にはそこからもおよそ半年くらいはかかった。それでも、そこに通ってなかったらいまの自分はないな、って心から思えるくらいにいろいろなことを教えてもらった。


 「他人は変えられないけれど、自分は変えられる」と初めに学んだ。面談の最初、それを言われたとき正直、残酷なこと言うな、って思った。人生で起こることには不条理なことも多い。そんなときになんで向こうじゃなくて自分が折れなきゃいけないんだ、なんて傲慢にも思ったりした。でもこの言葉は諦めじゃなくて、すごく希望に満ち溢れた言葉だって、今では思い直している。
 私の未熟さと、私に不釣り合いな期待と仕事量から上手くいかなかった職場のこと。すべてが職場の人のせいだとか、逆に私が悪かった、みたいに極端に考えてしまうのは簡単だけど、それでは前には進まないし、職場には到底戻れない。でもきっと今みたいな場所にはこれからも出会う。じゃあどうしたらうまく関われたのか、あるいは避けていけたのか、を考えてみると、途端に苦しいだけだったその場所で生きていく選択肢が広がる。例えば私自身のキャパシティを理解して、無理なものは無理とはっきり伝えること、あるいは、与えられた仕事を抱え込まずに人に助けを求めること、そうして職場の人との距離を広げ、あるいは距離を近づけること。カウンセラーさんは常に虫眼鏡で小さな選択肢しか見つめられていない私に、もっといろいろ方法はあるんじゃない? とそうっと肩を叩いてくれる。そして、広い選択肢を考える方法を、教えてくれる。自分の捉え方次第で、世界はいくらでも変わるのかもしれない、と思うようになった。

 これは相手が人でなくても同じだと思う。
 今回の状態でほとほと自覚したけれど、私は人と比べてとにかく身体が弱い。致命的、というほどでもないけれど、周りの人が全然大丈夫なところで体調を崩したり、婦人系の不調があったり、耳がとにかく弱かったり、まあなんというか、これという明確なハンディはなくとも、めんどくさい部分がたくさんある。
 学生時代含め、昔の私はそれが受け入れられなかった。気合いでなんとかなると思ってたし、実際、ある程度はそれで、乗り越えてきた。ただ無理はたたるもので、かけた負荷は後から反動がきたし、やっぱり、健康で体力のある人にはいつだって敵わなかった。高校時代は何度も入院して、卒業すら危うかったし、大学時代も数回入院して、ギリギリになった単位もあった。なんとか乗り越えてきた。頑張ってきたけれど、いつか、どこかでちゃんと、私の、あるがままの状況を受け入れないといけないのだなと頭の片隅でいつも考えていた。たぶん、私はずっと自分の抱える弱さから目を背けていた。

 不調、みたいなものが魔法みたいに治ることはなくて、ずっと付き合っていかなくちゃならないことに明確に気づいたのは、こうやって完全に壊れてしまってからだった。なんで私、なんで私だけ。そうやって悔しがって、嫌になって、何度も自暴自棄になった。頑張ればなんでもなんとかなるものだと、思い込んでいた。雨のあとには、必ず、虹がかかるものだと。しとしと雨、豪雨、霧雨、状況に波はあれど、ずっと雨の毎日を生きていかねばならないことがどうしても受け入れられなくて、絶望していた。

 真っ暗な部屋で、ある日、星野源を聴いた。あまり深い意味はなかった。ただサブスクで流れてくるメロディに身を任せていたとき、"Same thing"が耳に止まった。

>> I’ve got something to say(みんなに言いたいんだ)
>> To everybody, f*** you(F*** youって)
>> It’s been on my mind(ずっと思ってたんだよ)
>> You know I meant it with love(心から愛を込めて)

>>I just thought it’d be fun(「楽しそう」って思うのも)
>> Went through a whole lot so fuck this(「最悪だ」って落ち込むのも)
>> They all mean the same thing, you know(どっちも同じことなんだ)
>> We alright, change it up, do your thing(それで大丈夫 それでいい)

 英詩がやけに耳に残って、何度も何度も、繰り返した。どうしてかわからないけれど、そのとき、私に必要な言葉のような気がしたから。

 "地獄でなぜ悪い"を聴いた。

>> 無駄だ ここは元から楽しい地獄だ
>>生まれ落ちたときから 出口などないんだ

>>嘘でなにが悪いか 目の前を染めて広がる
>>ただ地獄を進むものが 悲しい記憶に勝つ

 生きている今を天国だと勘違いしていたのは、いつからだったんだろう。生きてる場所が必ずしも快適な、幸せな場所とは限らないし、いま、ここに在る自分の身体が完璧なものとは限らない。なにひとつ、私の思うままにはなるはずがない。
 止まない雨はないだとか、明けない夜はないと強く信じていた時代があった。いつか私の暗い毎日も明けるのだと、美しい虹がかかるのだと、ただひたすらに、それを待っていた。

 人生は天気ではないので、止まない雨はいつまで経っても止まないかもしれない。
 人生は太陽ではないので、明けない夜はいつまで経っても明けないのかもしれない。

 大事なのは、土砂降りの中でも、手探りの真夜中でも、私が私らしくいかに生きていくかなんだと思う。そう思ったとき、二十数年生きてきて初めて、私は自分の不調を自分のものとして、受け入れられた気がした。
 自分の不調に苛つきながらも、足を抱えて泣き続けるんじゃなくて、"f***" だなんて中指立てながら、したかねぇななんて笑い転げて生きていく方が、少なくとも、生活は続いていく。太陽を待たなくていい。晴れた空の虹を待たなくてもいい。どんなクソな状況でも、土砂降りの雨の中、ぬかるむ泥に塗れたって、私は私のまま、時々寄り道しながら、逃げながら、それに向き合って生きていく。生きていくしかないのだ。

 世の中も、そういうもんなんだと思う。どこもかしこも、私たちの思うままになんて、ならない。疫病、天災、そして本当に始まってしまった戦争。どうしようもない出来事ばかりおきる馬鹿みたいな世界だけど、その世界の片隅で、ちっぽけに生きている私たちはただ、生きるしかない。泣いて、怒って、笑って、人差し指も中指もほどほどに立てながら、ひたすらに訪れる毎日を受け入れて、生きていくしかない。

>> We alright, change it up, do your thing(それで大丈夫 それでいい)

 ただ、今を肯定する。そして在るがままを出来るだけ楽しむ。世界は、現実はちっとも変わらなくとも、私は変わる、救われる。それでいい。それだけでいい。つまらない毎日でも続いて仕舞えば、こっちのもの。

 大学時代、出会った子どもたちのことをまた、思い出す。感染症が流行した誰もにとって"息苦しい"この世界、実際のところはわからないけれど、彼らにとっては一瞬でも、少し息のしやすい世界になったんじゃないかと、実はこっそり思っている。

 オンライン授業とかあればいいのに、なんてことを先生たちに雑談ペースで話していたあの頃、「そんなものはあり得ない」となんども現場で働く大人たちには言われた。あの頃は、外に出ることこそが正義、学校に出ることこそが正しい、人とは会うべきもの、という価値観のもと世界が作られていた。あの外に出ることが悪で、家に閉じこもることが正義とされた世界で、みんながストレスを抱えて苦しむなかで、彼らはなにを、思っただろう。混乱はあれど当たり前のように普及したオンライン授業、世間の非常識はこんなに急に、がらりと常識に変わっていく。家から出られずストレスに感じる人たちが確かにいた反面、きっとその環境は彼らにとって、少し、居心地が良かったんじゃないだろうか。

 だって私がそうだった。病に伏せて、人生が止まってしまったように感じたあの日、私は不謹慎にも初めて世界に救いを感じた。あれほどまでに疎ましく感じたコロナ禍だったけれど、世界そのものが止まってしまっている感覚が、自分にとって気楽に感じるだなんて思いもしなかった。きっと、そういうものなんだろう。自分の受け止め方で、世界はこんなに、見えかたが変わる。


 禅の言葉に「遊戯三昧」という言葉があるらしい。日常生活に関わることすべてを遊びのように受け入れよう、という考え方でとても気に入っている。たのしきことも、くるしきこともまた、「遊び」。どうせ続いていく馬鹿みたいでくだらない毎日を、せめて楽しんで生きていけますように。その祈りは、私の背中を押す原動力になる。






 復職が決まった。それに伴って地元を出ることにもなった。環境の調整だとか、諸々変化はあれど、私が生きてく世界そのものも、私の周りにいる人たちだって、本質はなにも変わらない。相変わらず私は身体が弱いし、仕事が突然簡単で負担のないものだけになるわけじゃないし、(もちろん配慮はしてもらえるけれど)私の都合のいい世界にはそうそうなってはくれない。


 生活はただ、続いていく。私に出来るのは「どうしようもねぇな」なんてその毎日を笑うだけ。笑っても泣いてもなんとか転がした先に、人生は続いていく。



 なんとか、生きていく。それだけ。

 クソみたいな毎日に、愛を込めて。


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