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全裸監督から見る日本のフェミ

遅ればせながらNetflixで最近話題の「全裸監督」観ました。
言葉通りの賛否両論を生んだこの作品。
個人的には一言でいうと「興味深かったな」という印象です。

けれど、作品を見始める前に見た「コンプライアンスによって塗り潰されるこの時代」というコピーを見たときに感じた強烈な違和感。居た堪れない感情は、結局最後まで無くなりませんでした。否、見た結果確信となったとも言える。

今回はコンテンツ評として、「全裸監督から見る日本の"フェミ"」を考えていこうかなと思います。


見た人の視点で評価が変わる「全裸監督」

全裸監督第1シーズンを観ていて感じたのは、「これはどの視点から見るかによって面白かったという人と、そうでなかったという人がいるだろうな」という気づき。

そして、第1シーズンの最終話を見終えて得たのは、「1人の男のサクセスストーリーの下にある、女の性を商品とみなし、1人の女性の解放欲を利用している事実」に気付いた人のみが違和感を感じているのだろうなという所感でした。

以下詳しく述べていきます。

サクセスストーリーとしての、「全裸監督」

この作品、作品のテーマから「AVの話」という外観を持ちがちだけれど、観ていくと意外といろんな要素を含んでいる。
1980年代の日本経済の発展。ビデオの普及。そして生まれる表現の自由の闘争。警察と裏社会とAV業界の構図。その中でもがく1人の男のサクセスストーリー。そして女性の解放欲。
様々な思惑が、課題が、作品の中に内包されている。そしてそれら一つ一つを上手に描いているから、確かに大まかなストーリーとしては「面白い」なぁと思う。そしてその様々な要素を余すことなく表現する演者さんがすごい。

金がない、上手く話せない、初めは営業としても上手くいかなかった。上手くいったかと思えば会社も終わり。そんなどん底にいた男が「エロ」というコンテンツに目を付け、それを成功させていく。沢山の壁が立ちはだかるも、なんとかそれを乗り越えていく。ストーリーとしてはこんな流れ。
AVだのセックスだのを差し引けば、「冴えない営業マンだった1人の男が映像監督として成功する話」だったりする。確かにこの視点だけで受け取ったら、面白い。

表現の自由と、「全裸監督」

そして、日本政府(警察)が「それが規則だから」のみを理由に村西氏を敵対視し、追い詰めていく姿。大した議論もせずに「規則だから」で追い詰めていく姿は確かに戦後の「チャタレイ事件」最近で言えば「あいちトリエンナーレ」を彷彿させる表現の自由の問題であるとも言える。
結果的に「敵」のように映る日本の警察が「コンプライアンス(法令遵守)」で作品を「塗りつぶそう」とする姿と、それに対峙する村西氏の姿に高揚感すら覚え、「打ち勝て!」と応援したくなる姿というのもなんとなく想像できる。

なんだ、ここまで来たら結構面白そうじゃないか。何が不満なのだ、大してよく見もせずに…と、賞賛する人はいうかもしれない。

ただ一つ、女性の性への欲望の開花の描かれ方。そしてそれの大衆の受け取り方についてだけは、「あぁ、日本はまだこんなものだよな」という印象が強かった。私はこの第1シーズンを観て、その印象は残念ながら最後まで抜けなかった。

女性の欲望の開花、と「全裸監督」

鬱屈した抑圧の世界から、自らの性を解放することで「自由」を求める黒木氏の姿が、この作品では強烈に描かれている。
当時の女性像からしたらよっぽど衝撃的だった彼女の姿を、こういう映像作品の中で見られるのは興味深い。

されど、彼女の「女性が解放されたい、自由になりたい」という思いは結局は男のビジネスの下で行われていた。男性中心の社会的構造の下で、といったほうが正確か。

男たちは最後までAVに出演する女性を「商品(この作品では女神、と呼んでいた)」としか見ていなかったし、女性は自由でありたいと願う故の表現活動を、商品としてでしか成し得なかった。女性を大事にしている描写も、「商品」を大事にしている描写であって、「人間」として大切にする描写ではなかった。

黒木氏の解放欲は、確かに画期的なものだった。されど、なんとも皮肉なことにその解放欲は男たちの願う「AV業界の発展」に大変都合が良かった。そして実際、それが上手に利用され、彼らは成功を収めていく。

結果的に確かに性の解放に繋がった部分はあるのかもしれないのだけれど、それは本質的じゃなかった。彼女の叫びは、結局のところ商品が自我を持った、程度に過ぎなかったのだ。しかもたまたま都合よく権力側に肯定的な自我。

戦い続ける男たちの前に立ちはだかる先述した規制だの、同業他社だのの壁。その壁を乗り越えるために、彼らは女性の性を、言葉を選ばずに言えば女性の「性器」を利用した。
どれほど女性の解放欲が肯定的に描かれていようとも、結局、この作品のこの時代は女性の権利解放など「この程度だった」に過ぎないと言える。

黒木氏が村西氏を利用して己の、そして女性の「人間の性への表現活動」を促進させていったとか、そういうのならまだ本来の解放とも言えるのかなと思ったり。でもそうじゃないよね。女性がコンテンツとして見られている事実は、最後までそのままだった。

どの視点から「全裸監督」を見るか

だから私は「全裸監督」という作品をある種「1980年代を描いた作品」として興味深いものとしては思うものの、少なくとも「良きもの」とは思わない。「居た堪れない」という言葉が相応しいような、そんな感想を持つ。

ただ、コンテンツを作る側であろう立派な所謂「クリエイター」と呼ばれる人たちが、手放しに「素晴らしかった!」「感動した!」という言葉を発し、それが持て囃され、
疑問や批判の声には非難したり嘲笑する風潮は、男性の成功の下にコンテンツ化された女の性があった事実が見えてない実例だよなと思ったりする。おそらくみんな、無意識なんだよね。悪気すらない。それがただ、哀しい。まだまだだなぁと思う。

女の性が男性中心の社会的構造の下でコンテンツ化されていた事実、いくら女の解放と言ったってそれは男の支配下での都合のいい自我だったに過ぎなかった事実は、
全裸監督が公開されてしばらく経ってから露呈した黒木氏本人に許可を取っていなかった事実からもわかる。村西氏当時の時代も、そして今も、性を売る女性は人ではなく、「コンテンツ」としか見られていない。そりゃモノであると信じて疑わない商品に、許可なんか取りに行かないよね。

フェミニズムと、「全裸監督」

最後に、フェミ、の話もしておきたいと思う。

最近フェミニズム、というとヒステリックな的外れな女の主張だ、という意見を見かける。とはいえ、フェミニズムの本来の意味合いは「女性の権利の拡張」だ。
その言葉の意味から当てはめれば、ある種黒木氏も、フェミニストであった。

彼女の訴えた「女性解放」は当時としては画期的なものだったに違いない。その勇気と、気概には感服する。されど、あの当時の女性が成し得た「女性解放」は今現在じゃ当然不十分なものだ。そうでなくてはならない。
女性が、誰かの商品やモノとしてではなく、利用されることなく、自らの主義信条を訴えられる世の中でなくてはならない。残念ながら黒木氏の行動や、彼女の作品を手放しに「すごくよかった」と称賛したり「あの姿こそ"コンプライアンスに塗り潰されない"良き姿だ」だなんて評価されるようなことがあるのだとしたら、まだそれは出来ないのだなぁと思う。まだ女の性というものは、男性の支配下にある。40年前と比べてその意識は、残念ながら進歩がない。

私は全裸監督そのものよりも、全裸監督を見た人たちの感想や、リアクションによっぽど関心がある。
あの作品を観て違和感を感じた人が、どれほどいたんだろう。その少なさが、日本の女性の権利の「今」だし、ジェンダーギャップ指数が低い所以なのかなぁなどと感じた秋の夕暮れ。





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