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映画館の座席交換問題でも感じる、「大衆の消滅」について。

それは今から約5年前、都内の某私立大学に入学した私が、初めての春学期末レポートに記したタイトルだった。
「大衆が消滅するとき」

はいはい、かっこつけたタイトルですよ。笑
人生初の大学レポート、閑静な図書館で、じんわりと流れる汗を拭いながら、来る夏休みに心躍らせ、MacBookを開いて作業しているんだもの。これくらいイキッたタイトルを付けたくもなるじゃないか。
しかし、このタイトルは決しておふざけではない。

映画をはじめとする、エンタメ・アート・文化的なあれこれが好きな私が感じた、これからの世界に対する危惧のひとつ、それが「大衆の消滅」である。

今日はこの話をしよう。

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先日、とあるニュースがTwitterをはじめ、ネットで話題になったことをご存知だろうか。

早い話、映画館の座席を、その場で替わってもらったというエピソードに対する、世間からの賛否両論というやつだ。(ざっくり)

当人たちの話に部外者がいちいち首を突っ込むなよ、放っておけよ・・・という気持ちも分かるのだが、まさにこれこそが「大衆の消滅」の言わんとしているところでもあるから難しい。

話を戻して。
映画館の座席交換問題だが、思えばひと昔前、いわゆるシネコンと呼ばれる大型の複合映画館が普及するまでは、映画館の座席に"指定"なんぞものはなかった。
チケットとポップコーン、コーラを買えば、あとは場内の好きな席に座って映画を楽しむだけである。
悟り世代のZ世代と呼ばれる私でも、幼少期に過ごした田舎の映画館では、自由席という劇場が僅かに存続していたことを記憶している。

だからといって、今回ニュースになった「座席の交換」を良しとするわけではないのだが…私は比較的この件に関しては肯定派の意見を持っている。
なぜなら、私は大衆が、大衆文化が、完全消滅する未来を生きたくはないからだ。

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さて、現代においては、たとえどんなに小さい名画座・ミニシアターであろうとも、おそらくほぼ全ての劇場が「全席座席指定」を掲げている。立ち見や一部自由席、というスタイルが残る劇場はあるものの、座席の指定は当たり前である。これには多くのメリットもあり、無断で映画を鑑賞してしまうことや、立て続けに同じスクリーンに居座ることを防止するような役割がある。
ネタバレを禁止する作品や、より作品に没頭できるようにと、長い映画史の中で、作品の向上に合わせ、劇場側も様々な工夫を続けてきた。そういう意味では、この座席指定や総入れ替え制というのは、映画を愛する者たちによる努力の結晶とも見て取れる。

そうした制作者たちの愛にしたがって、映画ファンの行動にも変化が訪れるようになった。自分が最も落ち着いて映画を鑑賞できる座席を目指して、上映時刻より早く劇場に到着し、目当ての座席を確保する。事前にトイレを済ましておくこと、携帯の電源は切っておくこと。撮影はしない。煙草は吸わない。お喋りはしない。盛り上がっても前の座席は蹴らない。くしゃみしない。寝ない。ポップコーンの音も立てない・・・・・・・などなど、自分が最も最高の環境、状態で映画を鑑賞できるように、あらゆることに気を配り、意識するようになったのだ。

今回の「座席交換問題」も例外ではなかろう。
そうした"努力"の上に成り立つ貴重な映画鑑賞の一幕を、赤の他人に突然「席替わって」と言われたら堪ったもんじゃない。そこに理由なんか要らない、嫌だから、嫌。以上。
という、至極真っ当な意見は筋が通っていて気持ちがいい。そこに何の疑問もない。完全理解である。
のだが・・・

昨今こうした「強い個人的意見」を見聞きするたびに、時代は確かに「個」を最優先とする流れに変わってきたのだなぁと、そこには何とも言えない豊かさと寂しさのせめぎ合いを感じてしまうのである。

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つまり、何が言いたいか。

ニュースとなった映画館の座席問題に対して、「嫌だ」と言い張ることは当然の主張であり、何も間違ってはいないのだが、物事に対して、こと大衆文化に対しては、正と誤だけでなく、「正でも誤でもある」という選択肢を忘れないでいて欲しい、ということなのである。

私がかれこれ5年近く言い続けている「大衆の消滅」とは、まさにこのことだ。
私は物心ついた頃から、ポップカルチャー、大衆娯楽が好きだった。社会現象のように人々が熱狂したり、はたまた誰もが頭を抱えたり・・・笑
育った環境も、歳も、人種も、性別も違う者たちが、1つのカルチャーを対象に、様々な感情を共有し合い、錯綜するカオスな雰囲気に、堪らなく感動をしたのだ。
成長するにつれ、ニッチな世界や、アングラな世界も覗き見たが、やはり根底にはポップカルチャーに対する愛が隠し切れない。

そんな私が生きる今は令和である。2023年なのである。
情報化社会が拍車をかけたものの1つに、「個」の尊重があることは、言うまでもないだろう。
ネットワークを構成するのは「個」であり、その「個」はそれぞれが違えば違うほど、社会全体が活性化していく仕組みなのだ。それまでの工業化社会が、組織を形成し、同じ能力、個体差の少ないことこそが美とされていた時代に対し、情報化は全くの逆である。
我が国 日本もようやくこの時代の流れを本当の意味で理解しはじめ、「個」の発信、「個」の価値観、「個」の意見がないがしろにされることは少なくなってきた。

しかし、弊害もあると感じている。
そんな負の側面の1つこそ、ポップカルチャーと情報化社会の関係性である。

文字通り、今日の大衆は消滅しかかっていると思う。
人の本質として、誰かとの繋がり、同族意識は失っていないものの、表面上の「個」の違いを躍起になって探しているような様には、一種の滑稽さすらを感じてしまうのだ。
人々の性格には次々と横文字の病名が名付けられ、スタバの裏メニューは止まらない。オリジナル、カラーバリエーション、カスタマイズ、そんな言葉に溢れ、人と違うことこそが至高である時代を生きているのだ。

だが、それだけでは大衆娯楽の息の根が止まってしまうのではないかと、私は常々感じている。
それは映画や音楽・アートがこの世から無くなるということではなく、「みんなで楽しむ」という、ポップカルチャーの醍醐味、喜びを共有する瞬間というものがゼロに等しくなってしまうのではないか、という意味においてである。

「個」の尊重は素晴らしい。
嫌いな飲み会を「嫌だ」といって断っても何も言われない。
皆がビールを頼む中「これが好き」といってコーラを注文しても何も言われない。
なんとも居心地が良く、人は皆人に無関心。
友人と遊びに行っても、それぞれにスマホを見ていて構わないし、観たくなければ映画も観なくていい、聴きたくなければその音楽を聴かなくていい。いつしか世界と繋がるSNSも自分の好きなトピックだけが流れるタイムラインへと様変わり、知らないことは知らなくていい、そんな現象が現在進行形で起きている。
果たして、これは豊かさなのだろうか。寂しさなのだろうか。
好き嫌い、正誤、だけでなく、好きでも嫌いでもある、正しくも誤りでもある、という、複雑な第三の意思を持つように進化しないと、大衆は滅んでしまうかもしれないのだ。

これは飛躍論過ぎるだろうか。
話題となった「映画館の座席交換問題」、またそれに対する世間のコメントには、どうにも時代の負の側面を感じざるを得なかった。

映画館は大衆の場である。大衆に開かれた場なのである。
私とあなた、だけでなく、私とあなたを含む"みんな"が楽しむ場であることを、どうか忘れずにいてほしいと思う。

***

まとめである。
つまるところ、大衆の存続は、コミュニケーションの存続とも言い換えができるような気がしている。
(我ながら大学のレポートからの成長を感じるゾ)

ネットニュースに上げられた映画館での一幕に、私は立ち会っていない。実際にどんなやり取りが行われたのか知らないが、当の本人たちは至って"普通"に座席交換が成り立ったのであろう。
今回の豪華すぎる登場人物である、末次由紀先生とつんく♂さん。彼らの創り出す世界は、間違いなく時代を先行してきた。そう、この豊かにも寂しくもなり得る現代を、率先して引っ張ってきた人たちであることは間違いないのだ。
そんな彼らの座席交換が成り立つ背景には、大衆の存続に希望を見出すコミュニケーションがあったのではないかと思う。その意味で、私は今回の座席交換問題には比較的肯定寄りの意見を持っているのだ。

それは、アメリカのホームドラマさながらに「Hi!」と言葉を交わすコミュニケーションではない。相手の置かれた状況をみて席を譲ろうかと探ること、自分の置かれた状況をみて家族との時間を最大限に楽しむ方法を考えること、それは再三伝えている「良いか悪いか」「好きか嫌いか」「正しいか誤っているか」の二分した思考ではなく、その間に生まれるどっちでもあり、どっちでもない思考、そういう"コミュニケーション"である。そしてそれこそが、コミュニケーションの主たる目的ではないだろうか。察するにこの両者の間では、こうしたコミュニケーションが生まれていたのではないかと思う。

そういう意味で、重きを置くべきは「個」ではなく「尊重」である。

「個」の尊重は、自分勝手ではない。独りよがりでもない。無関心でも、差別でもない。
少しずつ男女の格差がなくなってきたその裏で、「老害」などという言葉が流行る。教育の機会が平等に与えられ始めてきたその裏で、「それってあなたの感想ですよね?」が小学生の流行語に輝く。
座席を譲るか譲らないか、だけでなく、なぜ譲ったのか、なぜ譲りたくないのか、そんな他人に対する尊重が垣間見れる「個」の意見が飛び交うのであれば、もっと面白いのになぁと、幼稚かもしれないが、ついそう思ってしまうのだ。

皆さんはこのニュースについて何をどう感じただろうか。
どうでもいい、絶対に譲らない、そもそも映画館には行かないから…それも良いだろう。

だが、それだけでは大衆は、大衆文化はいつしか消滅してしまうかもしれない。

忘れかけた個の「尊重」をもって、隣の人にコミュニケーションを図ってみてはいかがだろう。なぜなら、その連鎖こそが「大衆」であるから。

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