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"ヘレナ・ショー"や"グレース"に、イライラしている場合じゃない。

皆さまは今日も素敵な映画ライフを送っているだろうか?
私の愛すべきハリウッドは、俳優組合のストライキや、心無いネットミーム、AIによる映像制作など、日々「賛否両論」の渦に巻き込まれ、落ち着いて、ゆっくり映画を観る、という優雅な暮らしとはかけ離れているようである。

さて、そんな厳しい現実の連続だが、最近公開された娯楽超大作にも、実はそれと似通った"辛さの訴え"のようなものが見え隠れしているのではないか、と私は考えている。

本日のやかましい映画語りは、映画『インディジョーンズと運命のダイヤル』(以下 IJ)、『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』(以下 M:I)より、どこか似ている新キャラヒロイン、ヘレナ・ショー(以下 ヘレナ)と、グレースへの着目といこう。

左: ヘレナ / 右: グレース

作品をご覧になり、ああなんかあの女ムカつく!なーんて思ってしまった方こそ、どうぞご一読を。(あくまで私の"やかましすぎる"感想に過ぎませんが。笑)

***

おじいちゃん!元気かよ!
思わずそう口に出したくなる、『IJ』と『M:I』の新作。
ハリソン・フォード、トム・クルーズの凄さはもちろんのこと、彼らを支える監督・スタッフたちも、シリーズを通して変わらぬ布陣ということに、並々ならぬ感動を覚えてしまう。

良いポスターだなぁ…

とはいえ…両者ともに、かつての空を切るスピード感は、味わい深い哀愁に変わり、荒唐無稽なアクションは、熟練の業と言わんばかりの安定感に様変わったことは事実である。それは彼らの歴史であり、生きる伝説であり、計り知れないエンターテインメント性のそれなのだが、やはり、ふとしたときの目の奥の奥のほうで魅せる演技に、かつてと同じ若さ・無謀さ・反骨精神を重ねることはできず、良くも悪くも時の積み重ね、衰えを感じるのは仕方のないことであろう。

そうして、まさに時代を超えて作り続けられる名作シリーズの両者だが、巷では"ある新キャラ"に対し、若干の嫌悪感を抱いているコメントをちらほら見かけている。

その対象人物こそ、今日の主役、ヘレナ(from 『IJ』)と グレース(from 『M:I』)である。

ヘレナ/グレース
2人とも白い衣装で揃えてみました♪

無論、彼女たちの最大の役割は、おじいちゃんになってしまった主役スターたちの冒険に、一癖も二癖も噛みに噛みつき、ド派手なアクションの火種となって、あっちこっちに場面を展開させる、言わずもがなの超超重要人物である。

その美しく軽やかな足取りと、危険を顧みない大胆さに、観客のハートもがっつり射抜かれること間違いなし…かと思いきや、意外にも「非協力的過ぎてウザい」「なんか馴染めない」「自分勝手すぎる」といった非難の声も挙がっている。

いわゆる"峰不二子的立ち位置"で、敵なの?味方なの?裏切るの?仲間なの?という、王道惑わせヒロインであることは間違いないのだが、どうにも受け入れられていない。

一体、なぜか・・・。


両者は明確に人から嫌われる(嫌われやすい)要素が、行動原理になっている。

そう、金 である。
金こそすべて、なのである。

money, money, money…

***

「人生は恐れさえしなければ、とても素晴らしいものなんだよ。そのために必要なものは、勇気、想像力、そして、少しのお金だ。」
チャップリンによる名作『ライムライト』での台詞である。

『IJ』と『M:I』は、時代もストーリーも全く異なる映画だが、その根底には同じ血が流れていると思う。
その時代、その時代で、富と名声、この世の全てを手に入れようと企む者を前に、片方は考古学の尊厳のために、もう片方は大義のためにという、たった1つの馬鹿真面目すぎる行動原理を基に、命をかけて冒険に飛び出すという、ロマン以上のなにものでもない作品という点においてだ。

彼らの行動は、大衆にとってはただの影でしかなく、実体の見えない独自の使命感によってのみ動いていく。つまり、冷静に見ればそれは独自の歪んだ正義でしかなく、悪く言えば偽善そのもの。(そういうのが裏目に出て、何度もピンチになったりするのが面白いんだけどね)

それに引き換え、ヘレナやグレースは至ってシンプル且つ、我々大衆にとって共感しかないキャラクターであるはずだ。

廃れた過去の伝説にしがみつくことなく、ロマンや大義なんていう曖昧なものは信じない。まさに自らの人生を豊かにするべく、勇気と想像力を持って、揺るがない価値=お金のために、すべてを捧げる、素晴らしい生き様ではないか。というより、今の世の中、誰しもがそういう生き方をしているのではないか?
マイカーやマイホームという実態のない"ステータス"を捨て、お金を何かに変えるのではなく、お金はお金として有ることに意味を持つ。大胆な決断も、豊かな発想も、お金になれば成功、一文無しなら失敗という価値観の中で生きているのではないだろうか?

生まれ育った時点で既に格差という現実を突きつけられ、真面目に生きるだけではお金にならないと悟ったとき、残された道は、ひたすらに"賢く儲ける"道を行く、それすなわち素晴らしい人生である、と。

それなのに、彼女たちを指示する声はとても少ない。
自分たちの生き方はまるで無視して・・・・・。


と、敢えてきつい言い方をしてしまったが。

何が言いたいかというと…
長年続いてきた両作品が今この時代に、"リメイク"ではなく、"新作"として封切られ、そこに登場する新たなキャラクターの行動原理が非常に似ているということに、イライラする!だけで終わらせず、我々は何かを思い、考えなくてはならないのではないか、ということなのである。

極上のエンタメであることは間違いない。

確かに、上述の通り『IJ』も『M:I』も、単なるアクションファンタジーで、「現実はそうじゃないって分かっちゃいるけど、ロマンとかいうやつに溺れたいじゃない!」という、娯楽作品の醍醐味的楽しみ方だけを追求することでも構わない。むしろ、作品としては下手な芝居や説明を入れることなく、存分にそうした"楽しさ"だけを追求してくれた作りだと思っている。

だがその上で、かつて、戦後の世界的好景気を前に富だけに目をくらませるなと警鐘を鳴らした『IJ』と、ミレニアム時代の到来を前に情報戦の怖さを説いた『M:I』、これらの作品が、格差の止まらない現代において、同時期に、同様のキャラクターを登場させることに、意味を見出さないでいるほうが困難である。

でもそうは言ったって、面白くないんだもん。
俺が/私が見たいジョーンズ博士やイーサンハントはこれじゃないんだもん。と駄々をこねるファンがたくさんいるだろう。
私も若干Z世代にして、心はそんな昭和と平成を生き抜いたおじおばさま方と、限りなく近い感覚を持っていると自負している。その上で、もう一度敢えてきつい言い方をしよう。

本作のターゲットであるあなたたちは、何事においても、もう前線ではいられないのだ。

***

ヘレナやグレースの行動原理には、明確に人から嫌われやすい「金」という要素が絡んでいると言った。
だが、もっと正確にいうならば、新時代を知らないX世代(『IJ』世代)・Y世代(『M:I』世代)から、嫌われやすいという意味での「金」という要素、ということができるだろう。

先日会社の上司が、ご自身のお子さんの大学受験についてぼやいていた。
塾の面談とやらに行った上司は、「もう親御さんたちの知っている受験ではないんです。余計なアドバイスはせず、入学金の準備をしていてください。(意訳あり)」と言われてしまったと、ばつの悪そうな顔で笑っていた。

なんて失礼な!!と腹を立てる前に、心して聞いて欲しい。
これが現実で、これが"今"なのだ。
誰も何も嘘はついておらず、努力とか根性だけではどうにもならない時代が到来してしまったのだ。これは身近な例に過ぎないが、実際問題、世界は刻々とその姿を変え、まったく知らない価値が世の中を席巻しようとしている日は近い。

ヘレナやグレースや我々、いや、我々Z世代よりももっと新しい世代の人々は、こうした時代を"普通"に生き抜かねばならないのだ。神は死んだ、と同等か、はたまたそれ以上の衝撃に備えなければならない時なのだ。
そうであるならば、ヘレナがジョーンズ博士に近づいては欺き続ける心情も、グレースが一向にハントの言うことを聞かないのも、単なる"おてんば娘"ではなく、もっと"現実の辛さ"を訴える、どこか息苦しくも生きなければならない葛藤のように見えてはこないだろうか。

かつてそのような"辛さ"は、『おしん』に代表されるような、悲劇として描かれた。だから明確で分かりやすかった。だが、今の時代は"辛さ"が目に見えにくい。

今年のアカデミー作品賞に輝いた『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』では、内気な父親を演じたウォン・カーウァイの「優しいを武器に生きるしかないんだ」という台詞が印象深い。
ブルックリンで生きるイタリア移民家族という設定を彷彿とさせ「ずっと馬鹿にされてきたから」と語る『スーパーマリオブラザーズ』も印象的だった。
ユートピアの裏で「ありのままを否定した」とどぎつい台詞を言い放った『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.3』も、エンドロールでこれでもかとインド建国に陰で貢献した人物を見せつける『RRR』も、ジブリの最後とも言われる話題作で『君たちはどう生きるか』と問いかける宮崎駿監督作品も、みんなみんな、映画は単なる娯楽コメディであるはずなのに、そこに垣間見られる"辛さ"は、あまりにも胸が締め付けられるものばかりである。

ケイオス。笑

弱者を弱者として扱ってくれる世界はまだ優しい。
自分が弱者かどうかも分からずに、金に、自由に、自我に苦しみ、必死に生きるしか道がない世界が、本当に辛い世界だと思う。

どうにも最近の映画には、過去に類を見ない圧倒的な辛さを描いている気がしてならない。特に、金のために軽々しく自らの命を危険に晒す若い女性というキャラクター設定においては、それは単なる"思い切りのいい女"ではなく、壮絶な時代の象徴のように見えてしまうのだ。

***

さて、たかがハリウッドの娯楽作をそこまで難しく考えるなよ、とお思いの方もいるでしょうが、これが私の"やかましい映画語り"の目指すべきところであるがゆえ、どうかご了承を。(これもあくまでエンタメですよ)

でも、もし本当にそんな目を伏せたくなるような現実の辛さを織り込んでいるのだとしたら、一体我々は何を観たら良いのか。純粋に楽しんではいけないのか。と、残念がってしまう人もいるかもしれない。

だが断固としてそれは違う。
そんな現実の辛さがあるからこそ、必要なのは揺るぎないスターの存在であり、楽しむことなのだ。その楽しさを味わえるようにシフトしなければならないのだ。

観客がヘレナやグレースの淡白な行動にイライラしている最中、我らがスターのハリソン・フォード、トム・クルーズはどうしていただろう。

はい、かっこいい。

まったく手の焼けるやつだ・・・と言わんばかりの渋い顔をしながらも、彼女たちの手を握り、決して離さず、諦めず、寄り添い、尽くし、最後までカッコイイとは何かを伝え続けてくれている。本作のターゲットとなる観客には、このスターの輝きを観て欲しいのだろう。かつての少年/少女のように、スターの真似をして欲しいのだろう。むしろ、それ以上に何があるだろう。彼らの全盛期を知らない我々Z世代だって、まったく惚れ惚れしてしまうというのに、彼らと同じ時を生きたX世代・Y世代が、そんな若い女子にイライラなんてしている場合ではないのだ。

だが、辛い現実は、どの世代にも等しくあり続ける。
若い世代が、格差によって、金や身分や自由や自我に苦しむのと同様に、老いた世代のそれは、前線にはいられない、ということなのである。

先に上げた受験の話と同様に、既にスターたちの生きた時代は過去のものなのだ。そこに放たれる言葉は、すごい!さすが!あなたしかいない!ではなく、お金だけ準備して。干渉しないで。分からなくていいから。という、冷たい台詞ばかりかもしれない。

だが、私はひとつ言いたい。
あまり大きな主語を使いたくはないが、ヘレナやグレースを含む、若い世代を代表して言うのであれば、我々は確かにスターの存在を認知し、先人を決して無碍にすることはなく、一緒にこの時代を生きようと考えているのだ。この混沌とした時代を生きたいがために、我々は明確に区別をする必要があるのだ。同じ行動原理だけで動いていたら、生き残れない、まさにサバイバルなのだ。

***

『IJ』や『M:I』をご覧になった皆さんは、ヘレナやグレースという新ヒロインにどんな感想を抱いただろうか。

場をかき乱しやがって。話を聞けよ。邪魔すんなよ。そんなネガティブな意見がまず浮かんだだろうか。かくいう私も、彼女らが登場したときの一瞬は、同じような感想を抱いていた。
あー、いるよね、いる。こういう我が物顔で面倒を起こす奇抜キャラ……と思ったのだが、どうにも彼女たちを嫌いになれない理由は、必死に生きるその姿が一貫していたからだった。なんか面白い冒険をしたいから!とか、元気が有り余っていて!とかいう描き方ではなく、冷静沈着に最大利益であり最大幸福の実現に、ただただ生きる姿が、とても人間らしく、とても今らしく映って見えたのだ。

映画は良くも悪くも、ちょっと先の未来を映す鏡である。それは印象的な小道具や服装といった目に見えるものもそうだが、映像には決して映されない、キャラクターの思想や価値観、想像するこれからのこと、という意味においてである。

過去の名作シリーズから生まれた、ちょっと新しい価値観。何事も知らないこと、分からないことに対しては、嫌悪感や違和感を覚えるものだが、時代のスピードはそんなイライラの瞬間すらも待ってはくれない。我々はスターの寛大さを学ばなければならないのだ。

そうして生きていれば、運命の歯車を変えることも、不可能なミッションを可能にすることもできると、ささやかな希望を与えてくれるのだ。


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