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パリ五輪も閉幕したのに『ミッドナイト・イン・パリ』が頭から離れない。

ヴァンゴッホの名画『星月夜』をなぞらえた背景が、ひと際目を引くあのポスター。

2011年公開の映画『ミッドナイト・イン・パリ』を、皆さんはご覧になったことがあるだろうか。

監督ウディ・アレンの性的虐待疑惑(結局、証拠不十分として不起訴になっているようだが)も記憶に新しく、映画の外で巻き起こるスキャンダルが、作品に余計なフィルターをかけてしまうことに、我ながら残念な気持ちを抱くものの、やはり作品それ自体に罪はなく、良いものは良いと言って然るべきだなと感じる今日この頃。

今年2024年はパリオリンピックが開催され、さほど夢中にならなかったわたしでさえ、「フランス・パリ」を意識する機会は多かったと思う。

そんな中でふと、今日取り上げる映画『ミッドナイト・イン・パリ』のサントラを耳にすることがあり、「あー、やっぱり面白い映画だったよなぁ」と思い起こされてからというもの、この数か月はずっと、頭から『ミッドナイト・イン・パリ』が離れなくなっている。

その再燃に歯止めが利かなくなったわたしは、映画を再鑑賞したのはもちろん、毎日家に帰ると名曲「si tu vois ma mère(If you see my mother)」から始まる本作のサントラをエンリピし、遂には地元の美術館で開催されていた、本作の時代背景と重なるフランス=ベルエポック期のアート展示「ベル・エポックー美しき時代ー展」にまで足を運んでしまったというわけだ。

そこで今日は、わたしの大好きな役者も勢揃いしている、歴史・タイムスリップ・ラブコメディの傑作『ミッドナイト・イン・パリ』のやかましい映画語りといこう。

パリの街の美しさから、人間関係の胸くそ具合まで、すべてが一級品のアカデミー賞受賞作をぜひ。

ちなみに本作は、フランス映画ではなく、フランスを舞台にしたスペイン製作のアメリカ映画です(はにゃ)


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夢を見るなら、パリが一番じゃないか

現代において、この撮影ができるのはきっとパリだけなんだろうな。
それが良いかどうかは置いといて、こういうファンタジックな世界観が、日常の隣り合わせに存在しているっていうのは、確かに素敵なこと。
(中略)
みんな"今"じゃない"どこか"にすがりたいんだ。

映画『ミッドナイト・イン・パリ』を初めて鑑賞したとき、当時利用していたアプリ「Filmarks」に、わたしが投稿したレビューの抜粋である。

再鑑賞した今でも、やっぱりわたしは同じことを思った。
この映画が作れるのは、パリだけなんだろうなと。もっといえば、パリという街があるからこそ、こういう映画が作られるんだろうなという想いまである。

本作は、オーウェンウィルソン演じるハリウッドの売れっ子脚本家ギルを主人公に、婚約者であるイネスと彼女の両親とともにパリを訪れた先で、現代である2010年のパリ、そして1920年代のパリ、さらには1890年代(ベルエポック期)のパリへとタイムスリップをすることで巻き起こる、様々な人間模様と芸術の豊かさ、パリの美しさを描くラブコメ作品である。

ここ数カ月の間で、すっかりその沼にハマっている本作のサントラや、偉大な芸術家たちの話は追々するとして、まずここでは「パリ」という街それ自体にフォーカスしてみたい。


わたしは残念ながらまだフランス・パリを訪れたことがないのだが、わたしの溺愛する映画作品には、決まって「フランス」の影を見ることができるといっても過言ではない。

ひろひろの溺愛映画たち。


たとえば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』では、物語を躍進させる人物としてフランス出身の映画監督ロマン・ポランスキーが登場するし、ディズニー製作の『トゥモローランド』では、その神秘的なユートピアの所在にフランスのエッフェル塔が一役買っていた。

現代ミュージカルの傑作『ララランド』では、主人公ミアの最後のオーディション場面で、フランス=セーヌ川での思い出を歌い上げていたし、ウェスアンダーソン監督の『フレンチディスパッチ』でも、タイトルの通りフランスに対する溢れんばかりの愛が表現された。

中でもお気に入りのアニメーション作品『レミーのおいしいレストラン』は、舞台そのものがフランスの街であることに加え、「ここじゃだめかい?いまじゃだめかい?夢を見るなら、パリが一番じゃないか」という最高の名セリフが登場することで、わたしの心を掴んで離さない。

レミーのこのシーンは最高なんです。


ここでわたしが言いたいのは、どの作品にも共通して「パリ」=「夢」の象徴として描かれているということだ。

ロマン・ポランスキーはハリウッドに新たな「夢」を持ち込んだ人物として描かれ、エッフェル塔はトゥモローランドという人類の「夢」の玄関口として描かれた。

ミアは自身の「夢」の実現にフランスの「夢」を投影することでその先の運命を描いていたし、フレンチディスパッチはフランスの「夢」を過去から未来に伝えるための伝聞雑誌として表現され、レミーに至っては、生まれを関係なしに「夢」を叶えるささやかなメッセージとして機能していたことを、わたしは強く言いたい。

実際のフランスは最悪だよ。汚い街だよ。夢もクソもないよ。という意見も多数あるだろうが、長年そう言われ続けてもなお「フランス」「パリ」という名前の響きに、人々が心を躍らせ、そこにポジティブなパワーをもたらそうとするはたらきが、わたしの好奇心をくすぐるのである。

その上で、『ミッドナイト・イン・パリ』は、そうした「夢」の象徴として描かれるパリの最高峰、パリ舞台の行きつく先とも言える優美さを秘めていると思う。

特にわたしが取り上げたいのは、劇中に登場するある台詞だ。

これは若干ネタバレになる話だが、主人公である脚本家ギルは、古き良きパリの芸術にハマっていく一方、婚約者であるイネスに浮気をされてしまう。
2人はそこで口論する場面がいくつか登場するのだが、ここでギルはこう言い放つ。

No no, the past is not dead. Actually, it’s not even past.
"違う、過去は死なない。過去ですらないんだ。"

本作『ミッドナイト・イン・パリ』の核となる部分を言い当てた、最高のひと言ではないかと思う。


「パリ」という街が「夢」を体現するための象徴であることは、先述の通り他のあらゆる作品でも表現されている。

しかし、その深淵までを覗き込んだ本作では「パリ」が持つ真のパワー、つまり、途切れることのない「今の連続」がパリには根付いていて、それによってパリこそが「夢」の象徴として機能することを丁寧に描いていると、わたしは思うのだ。


本作の批評では、よく「過去ばかりに捉われないで」というメッセージの読み取りが目立つが、その一方で「過去の上に成り立つ今」を見つめるギルと、「過去と今を切り離す」イネスの対比について、わたしは着目したい。

みんな"今"じゃない、"どこか"にすがりたいんだ…と、本作を初めて鑑賞したときに、わたしは自分の感想をそう表現したけれど、パリという街は、いつ・どこにすがっても"今"であるように錯覚できるのかもしれないという考えだ。

劇中でギルは、パリが持つ「今の連続」に惚れ込み、対するイネスは「過去は過去、今は今」として断片的な思想を見せている。浮気を肯定する気は微塵もないので、本作においてはどう考えてもギル推し(そもそもギルを演じているオーウェンウィルソンが好きというのもあるが)になってしまうが、「今の連続」のその先で見つけたギルの「夢」、ラストシーンにおける清々しい彼の姿がパリの街並みに消えていく様は、何度観ても最高である。

『ミッドナイト・イン・パリ』は、タイムスリップという技法を用いて、その街の、その素晴らしさを伝えたかったのかもしれないなと思う。

パリ一番の名料理家、レミーからの言葉を借りるならば、やっぱり"夢を見るなら、パリが一番じゃないか"というところなのだろう。

***


もし母に会えるなら

続いては、そんな『ミッドナイト・イン・パリ』の甘美な世界を創り上げている、とある名曲について触れておこう。

やはり特筆すべきは、ジャズクラリネット奏者シドニー・ベシェが手掛けた「Si Tu Vois Ma Mère(If You See My Mother/もし母に会えるなら)」、本作のオープニングを飾るこの1曲である。

ベシェさん。

ベシェはジャズ発祥の街とも称されるアメリカ・ニューオリンズにその出自を持ちながら、50年代には映画さながらにフランスのパリに移住したジャズ奏者だ。
ジャズという音楽ジャンルに、"アドリブソロ"を導入した最初の人物であり、サックスという楽器を持ち込んだ最初のひとりとしても知られているが
、晩年は妻とともにパリで過ごし、自身が亡くなる6年前、1953年に本映画で使われた「Si Tu Vois Ma Mère(If You See My Mother/もし母に会えるなら)」を作曲した。

映画を観た方なら分かる通り、この作品のための曲だったのではないか?と疑ってしまうほど、映画の世界観とあまりにマッチした1曲である。

映画の脚本や映像はもちろん、それらを一切抜きにして、この1曲だけにひどく惚れ込んだファンも決して少なくないだろう。


わたしもすっかり日常を彩る1曲として、よくこの曲を再生しているのだが。
その魅力は、ただハッピーな気持ちになれるから、ではなく、アンハッピーな中で見つけるハッピーさ、を表現しているように感じられるところにある。(毎度くどい言い方で申し訳ない)

わたしは音楽的な表現のロジックが分からないので、なぜそう思うのか?を音や楽器のそれで説明することはできないが、この曲に流れる不遇さ悲劇感のようなものが、どうにもわたしの心をくすぐるのだ。

それというのも、そもそもこの映画は"コメディ"というジャンルに括られるものの、その全容はあまり笑える様子ではない。むしろ、"もう笑うしかない"という諦めの境地から生まれる"コメディ"である節が強いのだ。

主人公のギルはハリウッドの売れっ子脚本家ではあるが、その傍ら処女小説にも着手しようとしているところから物語の幕が開ける。
つまり、現状の仕事に不満はないが、その先で「夢」を見ようともがいている最中、であるわけだ。

そんな中で婚約者家族と訪れたフランス・パリ。しかしそこで待ち受けていたのは、友達カップルの痛々しい知ったかぶりツアーと、それに愛想良く過ごしていなくてはならない苦痛の時間。挙げ句の果てには、婚約者の浮気を知って婚約破棄という胸クソ展開が待ち受けているのである。

それもこれも贅沢な悩みだよ、と一蹴してしまえばそうかもしれないが、こういう場における悶々としたやるせなさ、消え入りたくなるような自分の気持ち、私の人生ってこんなもんだったっけ?という自問自答などは、悲劇チックなコメディとして、もう"笑うしかないよなぁ"という状況にぴったりだ。

そして鳴り響くのが、名曲「Si Tu Vois Ma Mère」である。
この曲にはそうした状況をまるっと包括する"シャレ"が随所に織り込まれているようなのだ。

というよりむしろ、そんなアンハッピーな出来事を前に、こんな曲が流れてくれたら良いのに、と思える1曲だと言えるだろう。

楽しみにしていたデートの日があいにくの雨だったら。
お気に入りの白シャツにミートスパゲッティを飛ばしてしまったら。
夢にまで見たパリでの晩が自分の理想とかけ離れたものとなってしまったら。
どれも確かに贅沢な話だが、そんな不遇さを"コメディ"として昇華してくれる優しさが、この曲にはこもっている。

それはちょうど、どんな失敗をしてもすべて肯定してくれる"母"のような役割ともいえるだろう。

この楽曲に、なぜベシェが「Si Tu Vois Ma Mère(もし母に会えるなら)」というタイトルを付けたのか、わたしはよく知らない。

"笑うしかない"ようなパリでの出来事を前にしたオープニングと、"笑うしかなくなった"パリでの出来事を終えたラストで、なぜこの楽曲が使われたのかも、わたしはまったく知らない。

だが、この曲ほど甘く、酸っぱく、美しく、「夢」の街で起こる悲劇を、小粋に仕上げるスパイスはないだろう。

ひどく破滅した人生の途中で、もし母に会えるなら、きっとこんなメロディが包み込んでくれるのかもしれないと思わされるのだ。


***


欲望のままにパリ

最後はこの『ミッドナイト・イン・パリ』という世界観を形作る「ベルエポック」について語ることで結びとしよう。

ベルエポック展、最高でした。


「ベルエポック」とは、19世紀末から第一次世界大戦が勃発した1914年までの約25年間を指した、フランス最大の経済成長期のことである。
とにかく豪華絢爛なパリを象徴する総称、と思っていただいて差支えないだろう。

本作もまさに、このベルエポック期にタイムスリップすることが物語の終焉に据えられ、ある意味では落ちぶれた現代パリの再興を企むキャンペーン映画としての側面もあるのではないか、と思えるほどである。

その当時の盛り上がりがいかほどだったのか、と思う方もいるだろうが、この時パリには「ボン・マルシェ」という世界初の百貨店が登場し、人々の意識が「必要なものを買う」から「欲望のままに買う」へ移行したと表現されるほど、その華やかさには世界をけん引するほどの力があったと見て取れる。あのエッフェル塔が建設されたのも、このベルエポック期のことだ。

そのアホさ具合が良いか悪いかは置いといて、実際映画の中にも登場するように、ノリに乗ったパリから後世に語り継がれる、偉大な芸術家・アーティストたちが育ったのは紛れもない事実である。

そこで、ちょうど先日このベルエポック美術の展覧会に足を運んだわたしの所感も合わせながら、本作に登場する偉人たちに触れてみたい。


‥‥だが、本作に登場する偉人たちをすべて取り上げ始めたらキリがない。
「アベンジャーズ アッセンブル!」と言わんばかりに、フランス文学/美術好きには堪らないスーパースターたちが代わる代わる登場するのが、本作最大の見どころであるからだ。

したがって、ここでは主人公ギルの決断に大きく関わったベルエポック期を代表する画家、「エドガー・ドガ」と「ポール・ゴーギャン」に焦点を当てた話をしよう。


映画では、主人公ギルが婚約者イネスとの心の距離を感じたところで、あのピカソの愛人アドリアナに惹かれる様子が描かれる。そこで、ギルがアドリアナとデートをするのだが、そこで連れていく先がベルエポック期のパリ、というわけなのだ。

しかし、そこでギルが出会う人こそ、ドガとゴーギャンの名画家2人であり、彼らは「いかに“いま”の時代が空虚で想像力に欠けているか」を談議している。パリの黄金期は一体どれほど凄いものなのだろう!と思っていたはずのギルは見事に面喰らい、巨匠2人が、自分と同じ悩みを吐露していることにハッとして、現代に戻る決意をするに至るという姿が映し出されていくわけなのだ‥‥。


ここでわたしが思うのは、映画が伝える「今を生きよう」「現実から目を背けるのはよそう」というメッセージはもちろんのこと、やはり「芸術は常に一歩先の未来を見ているからこそ芸術なんだよな」ということである。

これはまったくの持論だが、芸術やアートと呼ばれる類のものについては、そこに「新奇性」「時代を先取りする先見の明」があるかどうかに、わたしはかなり重きを置いている。

この映画作品が大変好みである理由は、過去を遡ることで現代の良さが見えてくること、つまり、過去の偉人たちがすでに現代を見据えてその創作活動に没頭している、そのリスペクトを感じられるところにあるのだ。


先日美術館で鑑賞したベルエポック期の様々な絵画や衣装や装飾品たち。
すべて「わ~、綺麗~」と思う一方で、ただその当時の華やかさに浮かれ騒いだ様子を映し出しているかというと、絶対にそんなことはなく、どの作品にもどこか儚げな、ちょっと世界を俯瞰した、まさに"空虚さ"が放たれているのである。

劇中に登場したドガとゴーギャンの代表作を見ても、ドガが描くバレエ少女たちの絵には異質なハゲオヤジが描かれ、華やかな当時のパリの世界に隠れた屈折した影を見ることができるし、ゴーギャンが描くタヒチの風景にも、人々の運命、人生の意味、世界の在り方に疑問を呈するようなメッセージが刻み込まれ、「欲望のままに」なんて言われた時代からは想像もできないような危うさを感じ取ることができるだろう。

ドガの代表作『ダンス教室』
明らかにやる気ないバレエ少女とかいてじわるよね。
ゴーギャンの代表作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
タイトルも長っ!って思うし、絵自体も横に長っ!と思う。


これは結局、本記事の前段でも伝えた"アンハッピーの中に見るハッピーさ"にも通じることだが、当時の美術を生で見ると、より一層その奥深さを感じられるような気がするのだ。

そう思うと、この映画『ミッドナイト・イン・パリ』に登場する当時の芸術家たちは、本当にこう思っていたんじゃない?と、錯覚してしまうほどに、それぞれの違う時代に流れる、それぞれの同じ"空虚さ"が、実に上手く表現されている。

こういう作品を観ると、きっといつの時代にも、世界は欲望のまま動いていて、その中で何を選択するかだけが、ちょっとずつ違うのだろうなと思わされる。

そういう世の中の不条理さを愛せるような映画は、やっぱり大切にしていきたい。

ベルエポック期のリアルを見て、ギルが現代に戻ったように、我々もこうしたベルエポック美術や『ミッドナイト・イン・パリ』などというアート作品を前に、今この瞬間へ息を吹き返せるかどうかが試されているのだろう。

ギルが最後、一体どのような選択をして、どのような姿で現代のパリに消えていったのかは、ぜひ本作を観ていただくとして、この映画が持つ魔法に生かされている人はたくさんいることと思う。

あわよくば、そんな素敵な同志たちと、映画で描かれるようなサロンや社交場で、今を、未来を、語る時間をわたしも過ごしてみたいものだが、そのためにはまず、わたし自身が「ベルエポック」から、いや、それよりもっと昔から続く「今」の連続に、正しく向き合う必要があるのだろう。

パリ五輪も終わっちゃったのか~と、時の流れに驚いている暇はないのかもしれない。

今日も明日も明後日も、パリの真夜中は必ずやってくるのだから、その時を逃すことは許されないのだ。


以上、映画『ミッドナイト・イン・パリ』のやかましい映画語りであった。

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