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オーストラリアに行ったら、レ・クレドールのコンシェルジュになった:まだ続く

Covid-19のせいで、3か月休職中の身の上。この話を書く時間はたっぷりあるということだな…

ついに職をゲット

さて、ハイアットリージェンシーでの仕事が始まった。ついに海外で仕事をする、という目標がかなったので感慨深かったけど、ポーターの仕事って、まさにエントリーレベル…ってカタカナで書くとまだましだけど、「下っ端」の仕事だ。なんてったって、メインの仕事内容が、荷物を運ぶことだもんね。言ってみれば人足じゃないの。

ただ、下っ端の仕事ならではのメリットもあって、まずは言語能力がそれほど必要とされない。お客さんと会話はしても、それほど混み入った話は出ないので、まあ元気よく挨拶してれば何とかなる。海外で仕事をする際に一番怖い(と自分は思う)電話を取る必要も、ほとんどない。

でも、荷物は良く運んだわ。日本で働いていたホテルでは、宿泊客のほとんどが日本人で、しかも一泊だけ。荷物を持ってお部屋へご案内、というのはあくまでもサービスの一環としてで、物理的な必要はまあ、なかった。

ところがハイアットでは、海外からやって来るゲストや、団体客も多かったので、30キロ以上あるスーツケースがどかどかとやって来る。それを台車に積み上げ、えっちらおっちらと部屋まで届けた。しかもこのホテルは本館と別館があったので、下手をすれば、エレベーター乗って、渡り廊下を渡って、またエレベーターに乗って、ようやく部屋にたどり着く…と、カバーする距離が非常に長かった。おかげさまでここで働いているうちに、腕の筋肉が結構付いた。

それから、ゲストの車の駐車をするのも仕事の一部で、日本でもあまり運転をしてなかった自分が、ひどいアクシデントも起こさずに済んだのはちょっと奇跡的だったような…。いや、実際のところは、車の運転が好きな若いスタッフになるべく任せて、逃げ回っていたんだけど。

仕事の内容は基本的に日本と変わらなかったけど、ホテルのサイズがデカくなったので面白かったし、まあよく働いた。あ、あと、ポーターをやっていると、日本ではほとんどもらえなかったチップがもらえて、いい小遣いになった。とにかく言葉があまりできないから、同僚と雑談もそれほどできず、働くしかなかった。

自分としては普通に働いているつもりでも、さすが日本人、こちらでは超ハードワーカーと捉えられる。そりゃあベルキャプテンからしたら重宝なヤツと思われたようで、結構シフトを入れてもらえた。
そして頼まれるとNOと言えない典型的な日本人らしく、12日間連続シフト、なんてこともあったなあ…(お金も欲しかったので助かった)。

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そのハイアットホテルで「人足」だったころの写真。若っ!

後から考えると運命的な転職

ハイアットでは半年ほど働いていたのだが、そろそろ学校の履修過程が終わるという頃に、学校の何軒か先に新しくオープンするホテルから、学校あてにパートタイムスタッフの募集が来た。すでに仕事を持っていたので、始めはそれほど興味はなかったのだが、仲の良いクラスメイトも応募するし、オープニングスタッフという経験も面白いかな、ということで、レジュメを出してみた。ここでも経験者、しかも既にシドニーのホテルで働いているのが買われたのか、パートタイムのポーターとして雇われることになった。これが、シティに現在もあるThe Grace Hotel Sydneyである。

ちょうどそのころ学校のカリキュラムが終わり、現地実習優等生として表彰された。まあ、結構いい成績で卒業できたわけである。ただ、前にも言ったとおり、オージーの生徒は少なかったし、年齢や経験を考えると、それ位の位置で卒業しなきゃ恥ずかしい、と思うけど。

座学は全部終わったのだが、正式に学位(ディプロマ)をもらうには実地経験を600時間達成しないといけない。それまでは学生ビザの期限も延長され、自由に仕事に専念することができたので助かった。

The Grace Hotel Sydney

やはりpre-opening teamとして働くのは面白かった。まっさらの新規開店だから、総支配人から自分たちのような下っ端の社員まで、皆フレッシュな気持ちで働いている。そうそう、オープンした当時は、インターコンチネンタルホテルグループの下部ブランドだったので、管理職もそちらから来た、意欲のある優秀な若手も多かった。正直ハイアットでは、ちょっと職場慣れしすぎてテキトーに手を抜いて働いている人もいたので、こちらに来て気持ちが一新されたのを覚えている。

そんな環境でも、オーストラリアの会社ではよくあることだが、社員の出入りが激しい。他に良いポジションがあったりするとみなさん簡単に転職、離職してしまう。ということは、真面目に勤続していると割合簡単に昇格してしまうのである。自分も、パートタイムからフルタイム、そしてチームリーダーと、1年ほどの間に特に努力することもなくポジションが上がって行った。

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これは、何かの表彰をされた時の写真かな?当時のGMと。

帰国する?居残る?

そうこうしていると、学生ビザの期限が切れてくる。こうなったらもっとオーストラリアでキャリアアップしていきたい、という気持ちが高まって来るのは自然な流れ。ホテルと交渉すると、ホテル側としても日本人がいた方が便利だ、と思ったのか、すんなりと期限付きの労働ビザが出た。
ビザ要件が厳しくなった今ではちょっと考えられない話かもしれないが、その当時はまだ日本人観光客も多かったので日本人スタッフの需要も高く、5スターホテルなどにはたいていJapanese Guest Relations Officerといったタイトルのスタッフがいて、英語のできない日本人ゲスト(=ほとんど皆!)の対応をしていた。

そんなわけで、あと4年間はこのホテルで働けるビザをもらったので、さらにオーストラリアのホテル業にハマって行くのであった…

(さらに続く!)