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偽史琉球伝 コンビーフ丼編

  先日、何の変哲もない食堂でコンビーフ丼なるものを食べた(図1)。平皿にご飯を盛り付け、白米の上に炒めたコンビーフハッシュをこれでもかと敷き詰め、横には半熟の目玉焼きを添える。この姿に、家庭的な粗暴さも覚えつつも、炒めたコンビーフがいい塩梅で白米と合い、いつの間にか全て食べつくしていた。美味かった。沖縄らしい良い意味で雑な料理だなと思いつつも、どうやらこの料理にはそれなりの背景があるという。したら、その背景を少し掘り下げてみることにする。

図1 やんばる食堂のコンビーフ丼

  1945年、太平洋戦争で敗北を喫した日本は、沖縄を米国軍の占領を許すという形で決着をつけることとなった。この年より、沖縄は日本から切り離され米国領土となったのであった。
  米国支配の沖縄県は貧しいもので、日本本土から頼っていた飲食物の輸入はストップしてしまい、輸入していた蓄えもすぐに底をついた。自給に頼ろうとしても、貧しい土地と米国軍に占領された土地が多く、どうしても消費に追いつくことは難しかった。
  しかし、不幸中の幸いというのだろうか、先の大戦の戦勝国である米国は、疲弊している欧米諸国に比べてかなり豊かな国であり、占領した土地では、自身らが住みやすいように改革するアメリカナイズを実施。食料や車、衣料、住居など米国寄りにじわじわと浸透させていき、ここは我々の土地であるということを主張する。それは、占領下にあった沖縄も例外ではなかった。
  沖縄の貧しい現状を改めなければと、当時の政治機構である琉球政府は、米国政府と交渉を開始。どうにか米国の物資を配給制で受け取れることを可能にした。その配給の中に、通称ポークと呼ばれるスパム缶や台形の形をした巻取鍵がついているコンビーフ缶が含まれていたのだ。現在、チューリップ社やホーメル社などが確立させた沖縄県の食文化は、ここから始まったと言っても過言ではない。
  この配給により、沖縄県民たちはどうにか食いつなぐことができ今に至るのだが、当時はこのコンビーフという存在に悩みが合ったらしい。それはどういった悩みなのか。
  塩辛すぎるのだ。今でこそ調整が行われだいぶんマシになっているのだが、配給で手に入れた食べ物たちは軒並み米国人向け。南国に住み塩分に慣れ親しんでいる沖縄県民でも、米国人の塩感には抵抗があったのだ。この塩感には耐え切れない、しかし食べなければ明日を見ることができないかもしれない、どうすればよいのか、と考えに考えた結果、白米に盛り付け鶏卵と一緒に混ぜ込んで食べるという手法を思いついたのだ。この方法のお陰で、米国の塩感に対応することができ、コンビーフ丼の原型ができることになったのだ。そしてこの混ぜ込みは、所謂沖縄県のチャンプルー文化と呼ばれる文化形成の一翼を担う事になったのだ。
  そしてこのコンビーフはどんどん沖縄に浸透していき、コンビーフとジャガイモ、フライドオニオンを混ぜ込んだコンビーフハッシュとして形体を変える。このコンビーフハッシュは沖縄県民の舌を喜ばせることになり、今でも売れ続けるロングセラー商品となった。右に述べたコンビーフ丼にコンビーフハッシュが使用されていることが今も愛されている証左となるだろう。
  今でこそ多くの食べ物が溢れ選択ができる世の中になりコンビーフ丼は鳴りを潜めることになったが、選択が難しい時代にはこのコンビーフ丼は調理の容易さ・手軽にお腹を満たせる料理として多くの沖縄県民に愛される存在であったことは忘れないでおきたい。

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