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勉強とは

 なにも疑わずそのまま鵜呑みにしていた事柄が有る。それは勉強についてだ。勉強、歳を重ねれば重ねるほどに、勉強に対してありがたみを感じ、果てにおいては、また勉強がしたいなぁとか考えたりする。これが不思議でならない。
 学生時代の勉強といえば、かなりつまらないものだった。国語に数学、理科社会と、思い出すだけでやりたくないものばかりが浮かび上がってくるし、真面目に聞くつもりもさらさら無かったことを思い出す。そういったつまらない時間を通したはずなのに、勉強をしたいよねぇとか言い出す。勉強していた時間に苦痛を覚えていたはずなのに、勉強がしたいとは。始まってしまったか、痴呆が。
 テレビや雑誌とかでもそうだが、「勉強は楽しく尊いものだ」と喧伝されることが多い。それに対して受け取る側もその通りと言って頭をメチャクチャにブンブン縦に振り、賛同の意を口にする。僕もなんとなくそう思っている人間なので、「まぁそうかも知んないっすね」とかなんか言って、バンギャがヘドバンしてるみたいにブンブンと頭を振り回す。ブンブンブン。手バンとGLAYチョップも追加しておこう。ソイヤッ。
 しかし、少し違和感を感じる。媒体で喧伝されている「勉強は楽しく尊いものだ」は誰かの経験に置いて導き出された結論であり、受け取る側自身の結論ではない。受け取る側は受け取る側それぞれの経験があり、本当に「勉強は楽しく尊いものだ」と導き出しているのだろうか。もしくは、誰かの経験と自身の経験を重ね合わせて、もしかしたらあの場面って尊いものだった?!と気がついたのであろうか。もしそうであれば、ナイスな気づきだ。ナイス気づき。
 僕はできるだけ勉強をしたくない人間である。勉強せずに人生を送ることが上手くなりたいし、勉強せずに会社で果てない業績を挙げ給料を爆上げさせたいし、勉強せずに異性にモテまくりたい。勝ちまくり、モテまくり。
 勉強をせずに何かしらを成功させたい、成就させたい。しかし、勉強はしたくない。なぜなら、勉強は嘘みたいに面倒だから。以前、勉強をせずに頭が良くなり成功への近道になるだろうと考え、スマートドラッグを一瓶丸呑みしてみた。だが、結果はひどいもので、鼻血がとめどなく流れるし、周りの景色・動くものがスローモーションに見えただけでどうにもならなかった。あびゃあ。
 勉強は本気のクソウンチバカバカバカと唾棄すればいいではないかと思うのだが、なぜかこれが出来ないし、「いやぁ、なんだかんだ言って勉強さんも良いとこあんのっすよね。一概に悪いだけっての人じゃないんすよ」みたいなことを思ってしまう。何故だろうか。共依存状態に陥っているのだろうか。これが不思議でならない。
 したらば、「勉強は楽しく尊い」と思うことに対してメスを入れなければならない。「勉強は楽しく尊い」と何の疑いもなく信じ込むのではなく、なぜ勉強は楽しいものなのか、なぜ勉強は尊いものだと信じているのかを探ってみる。
 とある目的を達成するために何か方法を行う。目的への達成が近づくにつれて、行っている方法にも楽しさが添加されていく。多分これがすぐに思いつく答えの一つだろうか。
 例を出すと、ラーメンを作りたいなと思っている人がいる。その人は、材料を準備する→麺を作る→スープを作る→チャーシューとかも作る→椀に盛り付けて写真を撮ってインスタグラムにアップしてタグを付けまくりいいねをもらう→食べる→椀は外に放り投げて終了。という過程を踏むだろう。ラーメンを作るという目的に対して、麺を作るとかスープを作るとか様々な方法を駆使する。その方法の中に「麺を作るにはどうすればいいのか」「いいねを貰うにはどうすればいいのか」などの工程が発生する。その工程こそが勉強であり、そこを楽しい尊いと言われているのだ。
 それに関しては「そうかもしんないっす」と言って賛同する。GLAYチョップは未だ収まっていない。しかし、この論だけでは勉強は嫌だし面倒くさいという気持ちが抜けきっていない。何故だろうか。納得しても良いような気もするが、未だ悶々としたままである。
 とかいううるっさいことを、森博嗣の『勉強の価値』を読みながら思った。酒飲も。あ、鰯ください。味噌で。

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