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『ザ ビデオ ゲーム ウィズ ノーネーム』を読んだ

 ゲームを語るには自分自身の人生を語る必要がある。それは何故か。ゲームを遊ぶことをゲーム体験と呼ぶことにほかならないからだ。
 体験とは自身の身を持ってなにか経験することを指す。勤務する前にその職場の仕事を体験するとか、外国で文化の違いを体験するとか、苦難を体験するとか。苦難という言葉は現実に即したもので使われることが多いが、それはゲームでも成り立つ。それは何故か。
 ゲームというのは、仮初ながらも人の人生を、もしくは人生の一部を物語にしていることが多い。主人公が生まれ、青年に成長し、結婚し、苦難に遭遇・乗り越え、安らかに眠る。一生を眺めることもあれば、ひと時を眺め操作する。そうやって他人の人生を扱うことは、非実在ながらも人の人生に関わっていることは、自身の身を呈して他人に関わっているということにつながるのではないか。それ故に、体験という言葉がしっくりくる。パズルの正しい形と正しい形とがパチっときれいに嵌ったかの如く。では、なぜ自らの人生を語る必要があるのだろうか。
 ゲームにはプレイ時間というものがある。これは、お前はこれだけこのゲームを遊んだぜ!おもろいよな?と提示するものであるのだが、裏を返せば、僕はこのだけ時間このゲームに付き合ったのだと解釈することもできる。その時間を有意義だったか無駄だったかを捉えるのは人それぞれであるが、どちらにしても何かしら意味があった時間を過ごしたことには変わりない。
 有意義と感じた人は今後の人生の中で、その有意義に感じた時間を人生の糧にし何かしらに意味を与えるだろうし、無駄と感じた人間は、無駄な時間だったな、この時間で何かするべきであったのではないだろうか、公認会計士?とかいう資格の勉強でもすればよかったのではないだろうか、あ、やば辛くなってきた、酒飲も。みたいな人生に虚無という調味料を加えることになる。もちろん、無駄と感じたことを肥やしにして一念発起する人物もいるだろうが、そんな真面目な人はゲームをやったとて有意義に受け取ることができるので、そもそも無駄を感じる隙がない。僕ら君らみたいなボンクラではないのだよ。何の話だ。
 ゲームは長い時間付き合うことになるので、良し悪しが人生の肥やしになることが多い。それ故に、ゲームを語る際には自身の人生をも語ることになるのだ。しかし、そんな自分語りはゲームを語る上で本当に必要になるのだろうか。
 ゲームを語るのは、そのゲームの良し悪しはもちろんのこと、そのゲームが作られた背景、ゲームが取り上げた題材の当時における価値観、その後の影響を語る必要がある。ゲーム雑誌を読めばわかりやすいのだが、自分語りが入る隙間など微塵もない。それ故に、自分語りは必要ないのではないかと思う。いきなり、真面目な文章の中にいきなり「本日は晴天故に遊戯店に馳せ参じ候…」みたいことが入ってもうざいだけだしね。
 しかし、ここで指しているものは批評ではなく、語りなのだ。べんちゃらなのだ。管を巻いているのだ。なので、自分語り・文脈が必要になってくる。なぜこのゲームを遊ぼうと思ったのか、なぜこの部分が良い・悪いと思ったのか、遊んだ後にはどう考えたのか、そういった文脈、英語で言えばコンテキストが必要になってくるのだ。コンテキストってなんじゃい、日本語にしろ。
 批評というのは技術がいる。右に述べたようなことを汲み取ったうえで文章を形成させるというのは、一度や二度やっただけで真似できるようなものではない。であれば、それはプロにお任せして、僕のような人間はべんちゃら放きまくって思う存分語れば良いのでないか。それのほうが気持ちがいいしね。
 ということを、赤野工作氏の『ザ ビデオ ゲーム ウィズ ノーネーム』を読んで思った。そういうことではないのだろうけど、そういうことなのだろう。

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