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三栖一明

 これまで自伝というものにあまり興味を持つことができなかった。なぜか。他人の人生に興味を持つことができないからである。と、ソリッド・スネークの如く答えることができるのは、他人の人生を顧みないほどに自身の人生を何かに捧げた経験がある人間だけである。つまり、なにも成し遂げていない一般ピープルくんが「他人の人生なんか興味ないです」と口にすると、ただの恥をまとった人間である。痛い人間である。
 しかしながら、他人の人生に興味が薄いのも事実である。他人の人生について尋ねた・聴いたとして、なにか影響を与える可能性というのは考え難いし、なにより他人の人生に厚かましくも踏み込んでいくというのは野暮というものだろう。他人の人生は他人の腕の中だ。そこから物見遊山気分でひと掬い味見をしてみようというのは、なにか卑しいような気分にすらなる。もし他人の人生に興味を持つのであれば、その人が有している丼いっぱいの恥を最後まで享受する義務を負うべきだ。そんな考えを持っているもんだから、他人の人生に対して興味を持たないようにしているし、それと同じような理由で自伝にも興味がなかった。
 とは言え、自伝というのは本という媒体であるので、僕が一方的にその人に人生について知ることができるし、その人の人生も僕だけに向けたものではなく僕を含めた誰かという不特定多数に向けて発せられたものである。それはつまり、本(自伝)という媒体から誰かに向けて発せられるということ。受動的なものである。一方、右に述べた「他人の人生なんか興味ないす」の理論は、自ら働きかえて他人に介入するという能動的な行為の結果生まれた理論である。この二つの他人の人生を知る行為は似ているような感じはするが、働きかけの方向性が違うのだ。
 働きかけの方向性が違うからなんすかということになるが、これが結構重要なのだ。能動的に他人の人生に興味を持つということは、他人の人生に対して何かしらの影響や義務、責任といったどうしても面倒くさいものが付きまとう。その面倒くさいものが発生するが故に、他人の人生に興味を持たないという結界を作り出す。一方、受動的に他人の人生を知るということはそういった面倒くさいものが一切発生しないということになる。一見、これはメリットのように感じるが、自身に干渉するものが発生しない安全域から他人の人生を眺めているという何とも言えない微妙な構図になっている。宛ら水槽の中を泳ぐ魚を見ているような傍観者。それが、自伝を読んでいる者の姿勢である。なんという嫌な書き方であろうか。
 そんなことを書きながら先日に自伝を読み終えた。多分、人生で初めて手に取った自伝であった。その結果知れたことと言えば、諸行無常は常に繰り返され、繰り返さるたびに湧き上がってくる衝動は性的なものでセンズリこくなりセックスするなりして四散させなければならないということであった。


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