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『闇の精神史』を読んで候

 「私たちが手にしたのは空飛ぶ車ではなく、手のひらに収まる小型デバイスと百四十文字のプラットフォームだった」この言葉が鮮烈に頭に突き刺さり、脳に深々と食い込んでいった。今も頭蓋骨の中でこの言葉を反芻しているような状態だ。本当に未来はどうしてしまったというのだ。
 過去の人間たちが想像した未来というのは、空飛ぶクルマやテレポーテーションといった瞬間移動を可能にする未来的なガジェットが人々の生活を豊かに変貌させ、その未来には肌の色や土地での境界はおろか、別惑星の生物との交流という宇宙規模で創造を可能にする夢物語が広がっていた。しかし本来の未来はであろうか。SNSでは同じ人種間でも誹謗中傷が止まず、男女間の差別は解消するどころか常に激しい論争が跋扈し、自己顕示欲を満足させるため犯罪まがいの行動を取る。そういった未来になった、なってしまった。
 そんな未来に見切りをつけ、人は過去へ浸るようになる。未だ日本が豊かであった七十年代・八十年代の光景に憧れを覚え、来るはずであった未来を想像するようになる。綺羅びやかなネオンや華やかな音楽、人々が未来を恐れることなく笑い合っていた時代。生まれても過ごしてもいない光景を想像してノスタルジーを覚える。その状態が健全かどうかはさておき、そうやって来るはずであった未来を想像することは、未来を想像できない現代に抗う方法なのではないだろうか。
 身の回りを見渡してもノスタルジーを覚えるものが多い。ゲームが特に顕著で、豊かな時代に作られたタイトルばかりがリバイバルされている。新しくタイトルを作る力がないわけではないだろうが、未来に希望を抱けない現状を垣間見るとノスタルジーを覚える過去タイトルをリバイバルさせる試みは娯楽との相性が良いのだろう。プレイする度にノスタルジーに浸り実際にプレイしていた年代に戻ることができる。未来を想像してワクワクしていた時代。しかし、電源を切りモニターを眺めると未来がすぐにやってくる。希望を想像することが難しい未来の人間。
 本当に、未来に希望が想像できないのであろうか。なにか方法があるはずである。未来に砂粒ほどの希望を持つための方法だ。それを探るために記憶のジャンクヤードに打ち捨てられた思想を拾い上げているのが本著『闇の精神史』である。
 著者の木澤佐登志氏は、未来を悲観することはあれど、絶望することはないのではないかと思う。それ故に思想の地図を作り、ガイドをする船頭の役割を担っている。僕のような読者はその地図から一抹の手段を模索し、ノーフューチャーの現在に可能性をという未来を想像する。これが必ず必要というわけではないが、少しでも方法を探りたいのであればこの本を手に取るべきである。

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