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『越境』は何を超えたのか

 コーマック・マッカーシーの『越境』を読んだ。大変素晴らしい完成度で感嘆の声が漏れるばかりであった。しかし、この『越境』は以前に読んだマッカーシーのどの作品よりもかなり難解で、意図がつかみにくい場面に何度か出会った。はじめに読んだ『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』では、引用符を用いない会話の緊張感のことを書いた。『ブラッド・メリディアン』では、風景描写の美しさのことを書いた。『すべての美しい馬』では、時折陳述される哲学につて書いた。では今回読んだ『越境』はどう写ったのだろうか。
 『越境』の物語はタイトルの通り、堺を超えることが重要になっている。主人公のビリー・パーハムは三度の越境を行い、国境を超える度に世界に直面し、残酷な運命に打ちひしがれ戻って来る。道中、残酷な運命にしかならないことが啓示されているが、その啓示を忠実に成就していく。物語は幸せな結末を迎えることはなく、暗くじんわりと重たい何かを抱えたまま閉じていく。『越境』には、『すべての美しい馬』にあった友情や悲恋はなく、『ブラッド・メリディアン』のような血なまぐさい事象があるわけでもない。もちろん、『ノー・カントリー』のような独特の緊張感もない。したら、この作品には何があるのだろうか。
 右にも述べたが、『越境』は境を超えることである。これは、ただ単に地図上で引かれた線を超える越境だけを指すというものではなく、今住んでいる世界から別の世界へ跨いでいくということも示唆している。作中でも、ビリーは穏やかな生活を営んでいる世界から、メキシコという正体不明の世界へ越境し、そこでは過酷な運命をたどる。その境を超える行為こそが本作の主題であり、国境を超える度に運命に直面し、ビリーが持つ世界が変貌していく。
 『越境』における世界の変貌は小説ということもあり規模が大きいものだが、僕たちが生きている世界でも体感できると思う。例えば、昨日まで学生だった人間が、明日いきなり一端の社会人として扱われるような感覚だ。これまで生きてきた世界で培ってきたものが、新しい世界では何にも通用することがせず打ちひしがれる。このようながらも世界の変貌は小規模ながら身近で起こるものだ。その変貌というのは社会的身分が変貌したのはもちろんのことだが、価値観、思考、はては思想まで変貌させる。その変貌こそが境を超える、越境につながってるのではないかと思う。
 マッカーシーの作品を語るには、かなりの骨が折れる。これは僕に文学的な素養がなく技工などについては見抜くことが出来ないこともあるが、拾い上げたくなる事柄が多くにある。僕はその中で境を超える、越境に着目して書いたのだが、他のことにも触れたい。しかし、それはもう一度読んでキチンと理解した上で触れようかと思う。つか、これ以上やるとキリが無くなる。
 『越境』、かなり面白い作品でした。最高。

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