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(完全版)女子高生が同級生に将棋の駒の動かし方を教えたら、半年後に近畿3位になった話

はじめに

こちらは2020年12月~2021年1月に27回にわたって掲載した「女子高生が同級生に将棋の駒の動かし方を教えたら、半年後に近畿3位になった話」を1本の記事にまとめたものです。ページの読み込みが遅い場合は上記から1本ずつご覧ください。

※記憶に基づいた実話だが、個人情報特定を避けてストーリーに影響がないところは改変するかもしれない。

※正確には8ヶ月後である。

(1)1999年3月。

D高校2年生から3年生になろうとしていた私たち4人は、春休みに将棋部の部室(通称BOX)にいた。

「これが王将」
「王将」

「こっちが玉将」
「玉将」

「偉い人のほうが王を使う。だから私が王」
「はー!?」

という調子で将棋のレッスンが始まった。

私(すわ)がコーチ役になり、同級生のA、B、Cに将棋を教えることになった。

目標は5月にある高校生大会の京都府予選までにルールを覚えて、出場すること。

出場さえすれば、全国大会に行ける。

なぜなら、過去30数回の京都府予選の歴史で、女子団体戦に2チーム以上エントリーがあったことがないから。
前年に全国大会に行ったM高校は、2人が卒業して団体戦のメンバーが足りないから。

私は全国大会枠が3ある女子個人戦に出て、3人が団体戦に出て、4人で全国大会に行けば、学校からの補助金が半額出るから、半額で山形旅行に行けるで。
行こう行こう。

※夏の高校の全国大会は毎年開催県が異なり、1999年は山形県天童市が会場。

※他校は満額補助されるのが普通だったとは、後で知る。

コーチ役の私は、当時3級。ただしどこから認定を受けたわけでもなく、連盟道場に行っていきなり「3級です」と言い張り、行くたびに全敗だった3級なので実際は5級くらいだった可能性がある。

5月までで終わるはずだったBOXでのレッスンは、なぜか11月まで続いてしまうことになる。

(2)1ヶ月後なう

4月になり、我々は高校3年生になった。

将棋部は確かもともと部員が私のほかに同学年の男子がひとりいただけで、「確か」というくらいなのでその男子が4月時点でいたかも記憶があいまいである。
必然的に私が部長になった。
さらに、3月から始めた女子3人が入部して5人に。(4人だったかもしれない)

さらに、6人目(5人目かもしれない)がやってきた。新1年生の男子である。

彼は車椅子生活だった。付属の中学校では3年前、彼のためにバリアフリーの工事が行われた。

当時、高校は別の敷地にあった。
高校にはもともと車椅子の先生がいたので(通称よこぽん)、まあまあバリアフリーだった。エレベーターもあったし、教員室から一番近いよこぽん専用の教室にはスロープがついていた。

が。

将棋部BOXは、階段しかない建物の2階だった。

どういう経路で私のところに入部希望の話が来たか覚えていないが、とにかくこのままでは彼は将棋部の活動に参加できない。

生徒会に相談したところ、1階に入っている部とBOXを交換することになった。

相手は確かサッカー部である。

彼らは期日までに部室を空けなかった。

こちらは当然文句を言う。

顧問が出てきて、部員をうながした。

「空けました」と連絡があった。

見にいった。

わざわざ部屋の中央に、ゴミを山積みにしていた。

さらに文句を言った。

彼らは、顧問に雷を落とされていた。

そりゃそうだ。

というわけで、最終的に空っぽのBOXを譲り受け、2階から1階に、女子だけで荷物を移動させた。

それでも砂まみれの元サッカー部。ひたすら箒で床を掃いた。

あいつらゆるさん。

そうして車椅子男子を迎え入れたが、女子ばかりの将棋部では水が合わなかったらしく、短期間で来なくなった。

将棋を指した記憶はあまりない4月。

個人戦に出る私は自分の練習はぼちぼちやって、NHKの将棋講座は見ていたが、府予選はまあ勝つだろうと思っていたし。

団体戦の3人は、エントリーして当日会場に行けば、1チームだけなので通過。「せっかく来たから」と個人戦で指すことになるだろうけど、そこの勝ち負けは団体戦の全国大会出場に全く影響がない。
ルール通りに対局できればいいのだ。

私も含めて全員、兼部しながらの将棋部だったので、まともな活動はしておらず、BOXはただのたまり場だった。

そんなんだから1年生男子が来なくなるわけだ。

そうしているうちにゴールデンウイークが終わり、1学期の中間試験よりちょっと前に、いよいよ府予選の日がやってきた。

(3)2ヶ月後なう

5月。いよいよ京都府予選の日。

高校3年、最後の夏に向けて、我々4人は戦場に向かった。

……というほどのものではない。

会場に行って受付して、形だけ将棋を指せればいいのだ。

会場には多くの子供達がいた。この大会は本来、高校生の部・中学生の部・小学生の部に分かれた将棋大会で、それと高校選手権の府予選、中学選抜の府予選を兼ねていた。
小学生は何の予選も兼ねていなかった単独の大会だったと思う。

高校生から小学生の男子がとにかく大勢いる中で、中学生女子が1人か2人かいて、高校生女子が4~5人いるのがこの大会の見慣れた風景だ。

我々4人が会場に着くと、高校生女子が数人いた。

………既に数人いた。

我々を除いても、数人いた。

さらに。

同じ制服を着たグループがいる。

嫌な予感しかしない。

つまり。

同じことを考えた高校が、もう1校あった。

1999年の高校選手権京都府予選、参加人数。
女子個人戦(代表枠3)→4人
女子団体戦(代表枠1)→2校

まさかの、高校選手権京都府予選史上初の、女子団体戦開催決定である。
ついでに、女子個人戦も初めて代表枠以上の申し込みがあり、形ばかりではないまじめな代表選考が実施されることになった。

~~おまけ話~~

前年、高校2年生だった私は1学年上に高校選手権(全国大会)女子個人戦で2連覇している方が京都にいることを知り、その人と指してみたいという理由で予選に出場してみた。
女子個人戦は代表枠3で、エントリーが5人、うち3人がM高校の女子団体戦メンバーなので、あなたも全国大会だよ、と言われて驚いた。
そのときに将棋部に属していないと全国大会に出られないと言われ、将棋部に入った。

高校が高文連に属していないと高校選手権には出られないので、全国の将棋大好き中学生は高校選びに気をつけよう!

夏、その方は3連覇し、女流プロの公式戦にも出場して勝ったはず。
どさくさに紛れて私も準々決勝まで勝ち進んだ。棒銀と矢倉囲いだけを知っていた、当時自称3級(推定5~6級)。

~~以上おまけ話~~

私のことはどうでもいい。4人中3人が全国大会に行けるし、内2人は前年に女子団体戦で全国大会に行ったM高校の2年生。
実力はわかっていたから(2枚落ち上手でも勝てる)、反則さえしなければ優勝できるはず。

問題は女子団体戦の3人だ。

会場で形だけ将棋を指せばいいとだけ思っていたので、四間飛車と美濃囲い、そして△8五歩と突かれたら▲7七角と上がること(及び、△8六歩と突かれたら▲同歩と取ること)しか教えていなかった。

まあ一応、対局は何度かしたと思うが、駒を動かしていただけで、きちんと詰ませて終局した記憶はあまりない。

詰みという概念は教えたらしい。(←これが後に、まさかのドラマを生む)

そんなことで勝負になるのか。

絶体絶命の大ピンチ。

と思ったら。

相手チームも同じような感じで、「学校からのお金で旅行に行けるぞ」と顧問が声をかけて集めた1年生女子3人。

4月から将棋を始めたらしい。

ただいまゴールデンウイーク明け。

よし。

こっちは3月からだぞ!

1ヶ月早いぞ!

どうにかなるかもしれないぞ!

なんとか気持ちを持ち直し、素人対ど素人の運命の3人制団体戦、一発勝負が幕を開けた。

(4)2ヶ月後なう

5月某日、高校選手権京都府予選、女子個人戦(4人中3人代表)と女子団体戦(2校中1校代表)が始まった。

女子個人戦は総当たり。
女子団体戦は3人制で一発勝負。同時に行われる3局のうち2勝したほうが勝ち。

持ち時間はなく、気が済むまで指していい。

私は全勝で優勝。将棋の内容も覚えていないほど、特筆すべきことはない。前述したようにM高の2人(2位、3位)は2枚落ち程度の棋力差。
4位になった子はルールを覚えているか怪しいレベルだった。

団体戦はみな対局経験が乏しいこともあって長期戦だったが、やっていれば決着がつくものである。

まず、地学部兼部腐女子のAが敗れる。3人の中でもっとも勝負に向いていないタイプで、そもそも相手の玉を取ろうと思っていないのでこの敗戦は想定内である。

次に幼少期からバレエを習っている腐女子のBが勝つ。

……と、あとで聞いた。私は対局していた。

私が自分の対局(2局目?)を終えて女子団体戦の様子を見にいくと、審判で来ていた指導棋士の中尾先生や野間先生、運営に当たっているM高などの顧問の先生方が何かを協議している。

残り1局の対局者、兼部してたっけ?な腐女子じゃないCは、後の取り調べに対し、

「ずっと、次にこの金をあそこに置けば詰む! 次に置けたら詰む! 気づくな~!って思っててん」

と、意味の分からないことを供述しており、引き続き取り調べを行う必要があった。

(5)2ヶ月後なう

私が女子団体戦の対局に近づくと、運営の大人たちが協議をしていた。

1-1で残ったCの対局でややこしいことになっていた。

つまり、こういうことである。

1.相手チーム女子、王手をかける。
2.D高校女子C、『王手を受けずに』相手玉を詰ます。
3.相手チーム女子、自玉が詰んだのを見て「負けました」と言う。

前回のCの供述を再掲。

「ずっと、次にこの金をあそこに置けば詰む! 次に置けたら詰む! 気づくな~!って思っててん」

というわけだ。(ほら、詰みの概念は教えてたから…)

これは普通なら投了優先でCの勝ちになる。
しかしややこしいことに、各部門1局ずつ京都新聞の夕刊観戦記に掲載されるために、よりによってこの対局だけ棋譜が取られていたのだ。

それで棋譜優先(王手放置の反則)か、投了優先かで協議が行われていたらしい。

経緯はわからないが、投了優先でCの勝ちになった。

2勝1敗で我がD高校の勝ち、京都府予選優勝である。

本来ならば何もせずに代表枠をもらえていたところを、実力で勝ち取っただけに喜びもひとしおであった。

……勝ち取ったのか……??

指導棋士の野間先生が執筆された京都新聞夕刊の観戦記、自分の対局も載せてもらったのだけど、何も覚えていない。

唯一覚えているのが女子団体戦の最終譜の見出し。

「不思議な投了図」。

そんなわけで、8月の山形県天童市で行われる高校選手権に4人で行くことが決まった。

そして後から知ったのだが、この優勝で同時に、11月の近畿大会への出場権も得られていた。

~~おまけ話~~

なんと、このとき以来21年半ぶりに、私の対局の観戦記を野間先生に書いていただく機会がありました!!

2021年1月中旬に京都新聞夕刊に掲載されるのでぜひご覧ください!
(追記)載りました!

(6)3ヶ月後なう

無事に高校選手権(全国大会)出場を決めた我々D高校将棋部の女子メンバー4人。実力で全国大会を勝ち取った責任感からか、女子団体戦の3人も多少なりとも格好をつけねばならないということで、定期的な練習が始まった。

ところが教える立場にあるのが推定5級の私しかいない。

私だって、前年の高校選手権は準々決勝敗退だったので準決勝に行きたい。

当時は女子個人戦のベスト4が、8月下旬にある高校竜王戦(男女別のない個人戦のみの全国大会)に女子推薦枠で出場できた。

ちょうどこの頃に高校竜王戦の京都府予選があって私だけ出場したが、クラス分けがあったので上から2つ目で出た(3勝2敗)。申し込み時点で挑戦権すら得られていない。

~~おまけ話~~

この高校竜王戦府予選には全国大会にはつながらない女子の部があり、M高の2人と私が参加した。
しかし3人とも上記の男女混合のクラスに出ていて指す時間がなかったので、表彰式までのわずかな時間に5分切れ負けの総当たり戦で女子の部が開催された。
スワ史上、最も持ち時間が短い大会だった。死ぬまで更新されないだろう。
大ポカで敗勢になった対局もあったが時間で勝ち、無事優勝した。

~~以上おまけ話~~

男子なら有段者でも都道府県予選を勝ち抜くのが大変なのに、女子の将棋人口が少ないおかげで推定5級でもチャンスがあるのだ。

そのためにはさすがに推定5級では足りない。強くなりたい。

でも、団体戦メンバーの3人も強くしないといけない。

そこで私は、お互いが鍛えられる方法で部活を行った。

6枚落ち3面指しである。

当時は関西将棋会館道場の最低級が10級なので、道場で3級を名乗って指していた私は、大駒落ちまでしか上手を持つ機会がなかった。

それをいきなり6枚落ち3面指し。しかも対局中にアドバイスをしたり(ののしったり)、終局後に感想戦をしたり(けなしたり)する。

脳内の将棋盤の稼働率が、急激に上がった。

さらによかったことが、私が定跡をほとんど知らないことだった。

定跡を知らないということは定跡を教えられないのだから、ただひたすら将棋の「考え方」を伝えることになった。
結果的にこれが、未知の手にも動揺せずに最善手を考える訓練になった。
私自身も思考を言語化することで、知識の再確認を行えた。

私自身の棋力向上についてこれ以外は、前年から通うようになっていた指導棋士の野間先生の教室での指導対局と、関西将棋会館道場での対局、それにNHK将棋講座とNHK杯の視聴。
ただし野間先生の教室は高校と同じ京都市内とは言え通学定期券の圏外で行くのがめんどくさく、月1回程度。(後年、将棋業界で仕事を始めた頃、野間先生に「まさか君が将棋を続けるとはなあ」と言われた)
関西将棋会館道場も定期券で行けないところなのでこちらもめんどくさく、月1回以下。行った時点で疲れているので1回4局程度。
総合すると実戦は95%が6枚落ちの上手、残りの4%程度が野間先生との2枚落ち指導対局なので、平手はほぼなかった。

将棋世界は読んでいたが難しい話はよくわからず、週刊将棋は自分の大会結果が載っているときしか買っていなかった。近代将棋は存在を知らなかった。
20世紀なのでハンドブックシリーズはまだなく、詰将棋は「詰棋ドリンク」と「詰将棋パワードリル」だけを繰り返しやっていた。1日1~2問程度。
棋書は買っていたが、難しくてほとんど読んでいない。というか20年経っていまだに読まずに置いてある。
代わりに入門書を買って読んでいた。ルールだけでなく戦法や手筋が載っていると気づいたので、それなら最後まで読めたし、一番勉強になった。

あと河口俊彦先生の本を買い集めるようになっていたが、エッセイなので棋力向上には関係ない。
それと先崎先生のエッセイが好きで、先崎先生の師匠なので米長先生の著書も集めていた。
たいていのエロい日本語は、この頃に米長先生の本で覚えた。「空売り」も知った。大人の階段。

あとから振り返れば努力が全く足りないが、自分の棋力が上達するには、自力でなんとかするよりも周囲の環境をよくすることが大事だと考えていた。
将棋は、人に教えてもらって、人に強くしてもらうものだと思っていた。

ちょうどその頃、ある行事があった。渡りに船だと思った。

(7)3ヶ月後なう

1学期の中間試験が終わった頃だったと思うが、生徒会役員の生徒たちと、生徒会担当の先生による各部活の部長の面談があった。

部活における設備の不備や要望を短時間だが直接聞いてもらえるものだ。

将棋部における将棋が強くなる環境が必要だと思っていた私は、そこで要望する。

顧問を替えてほしい。

同席していた先生が苦笑していた。

私……というより女子……というより全国大会に出る人間が将棋部に入るまで、将棋部の顧問は年に3回程度の京都市内での大会への申し込み及び引率と、たまに現れる入部希望者への入部届や、生徒会関係の書類にハンコを押すだけの簡単なお仕事であった。

高校の先生は正規の教諭であればどこかの部の顧問をしなくてはならず、その中でほとんど仕事がない将棋部顧問は大変魅力的である。
現在の部活動顧問の負担についての報道を見れば、それは理解できる。

それが前年に私が高校選手権に出てからは、全国大会や近畿大会に泊まりがけで引率するという仕事が加わった。

だがそれだけだ。
普段の活動には顔を出さない。
将棋のルールを知っているのかもわからない。
そういう会話をする機会もない。

前年の高校選手権で私は、強豪校は顧問の先生が将棋が強く、自校の生徒に対して大変熱心に将棋のアドバイスをしていることを知った。
中には、私との対局の感想戦なのに、私を無視して自校の生徒へのアドバイスだけを行うような行きすぎた顧問もいたが。

~~おまけ話~~

そんな中、いつでも会うたびに話しかけてくれて、感想戦でも分け隔てなく接してくれた先生が2人いる。
既に文中に登場したM高の顧問H先生と、静岡県の藤枝明誠高校の加藤先生。
そういえばこの文章の(1)の頃、1999年の3月、私は藤枝明誠高校で行われた全国高校女子選抜大会の会場で、仲がよかった明誠の子から「この子、やすじ(←加藤先生)の娘さん! 桃子ちゃんっていうの!」と4歳の女の子を紹介されたのであった。
会うたびにって言っても加藤先生は全国大会でしか会わないから(大学生になってから1回偶然、東京の将棋会館で会った)通算で5~6回しか会っていないんだけど、お世話になりました。なんといっても明誠以外の子と当たったときまで感想戦後にアドバイスくれたし。
後年、上記の子にお墓参りに連れていってもらいました。

~~以上おまけ話~~

で、全国大会でうちの顧問(男性)は何をしていたか。

まず大会会場にはいない。朝から夕方までいない。
仕方がない。将棋知らないんだから。

そして他校の先生に言われた。
「スワさんの顧問の先生、いつもビール飲んでるね」

高校の全国大会は他校の選手と相部屋になるのが楽しみのひとつだが、顧問の先生方も相部屋らしい。

うちの顧問はいつもビールを飲んでいるらしい。

宴会場での食事でも、高校生が大勢いる中でビールを飲んでいた。

ちなみに、移動の新幹線でも発車と同時にビールの缶を開けた。

高2の高校選手権(鳥取県倉吉市)、高校新人戦(愛媛県松山市)、女子選抜(静岡県藤枝市)とそれが続き(近畿大会は大阪市で、顧問は来なかった)、高校3年生になる頃には「スワさんもあの顧問の先生じゃ大変だね」と他校の先生方に言われるようになった。

普段はいないので大変ではないのだが、単純に恥ずかしい。

それに、私だって将棋を教えてくれる顧問、せめて平手の練習相手になってくれる顧問がほしい。

3年間で一度も教科担当として習わなかったこともあり、私にとってはただ呑兵衛で仕事をしない先生に映った。

(いちおうフォローしておくとその教科の先生としては凄腕らしく、その教科が大好きな友人は選択科目でも受講してめちゃくちゃ尊敬していた)

私も人に強くしてもらうつもりだったから、なりふり構っていられなかった。

面談での要望はほぼそれだけで、どんな顧問がほしいか、どんなふるまいをやめてほしいか、他校の先生がどんな反応をしているかととつとつとお伝えした。

生徒会役員たちも困っていたが、同席していた担当の先生が「気持ちはわかるけど、ほかの先生もほかの部活の顧問をしているからねえ」と言い、却下になった。

というわけで、この物語には顧問は登場しない。
もう特に書かないが、どこかでビールを飲んでいると思っておいてほしい。
あ、ただ大会出場の手続きはやってくれたはず。
いや、わかっていたんですよ。顧問がそういう手続きしてくれるから大会に出場できることは。

私としては正義感と正当性を持って要望したつもりだが、いま振り返ると高校、大学の7年間は全く持って自分で自分の実力をあげようとしていなかった。

で、ここまで書いて思い出したが、(2)のBOX引っ越しはこのときに要望した気がするので、この面談自体もっと早くに行われていたかもしれない。
ストーリーに影響を与えないのでこのまま進めていく。

なお、私が卒業したあとの翌年度、顧問は別の先生に替わった。

(8)3ヶ月後なう

6月になり、大問題が勃発した。

顧問が替わらなかったことではない。

高校選手権と、バレエ女子Bのバレエ発表会の日程がかぶった。

Bにとっては当然バレエのほうが大事なので、Bはここで高校選手権から脱落した。

しかし我々は楽観していた。

実は、4月末に1年生女子Eが入部していたのだ。
※「D」は高校のイニシャルだから飛ばしてEさんにする。

入部時点で5月の高校選手権京都府予選のエントリーは締め切られていたのでEは出場できなかったが、A・B・Cと同レベルの初心者ながらぼちぼちと将棋を楽しんでいた。

だから、高校選手権の団体戦メンバー表を提出するときに、A・C・Eの名前を書いて提出した。

ところがである。

これが問題になった。

予選と同じメンバーじゃないとあかんらしい。

なんでやねん、学校として権利を得たんとちゃうんか。

ぶーぶー言ってたら、どういう経緯か知らないがA・C・Eの3人で出場できるようになった。

参加校が少ない女子団体戦だからOKになったのかもしれない。
もしかしたらあの使えない顧問ががんばってくれたのかもしれない。
私はM高校のH先生ががんばったと信じているのだけれども。

(9)4ヶ月後なう

7月。いよいよ高校選手権(全国大会)まであと1ヶ月になった。

この頃の将棋部は我ら4人と1年生女子E、それにいつ入部したか思い出せない3年生男子1人で構成されていた。

3年生男子はあまり活動に参加せず、対局した記憶もほとんどないが、私よりは弱く、他の女子とは手合違いに強いという感じだった。

女子勢は相変わらず私による3面指し。
高校選手権欠場が決まったBも、近畿大会があるので将棋は続けていた。
4人になっていたので4面指しのこともあったし、2面指し+2人が対局ということもあったし、私が棋譜を取って4人が指したこともあったし、ひとり欠席でやっぱり3面指しということもあった。

とにかくひたすら実戦を指した。週に2回くらいだけど。

詰将棋は(この時代はハンドブックシリーズがないので)1手詰の問題が世の中になく、3手詰に無理やり挑戦してもらったり、3手詰を2手進めた局面で考えてもらったりしていた。

私個人としては、野間先生の教室に行く頻度を少し上げて、月1回だったのが3週間に1回くらいになっていた。
関西将棋会館道場では全敗まっくろくろすけから五分の星を残すこともあり、もしかしたら推定5級自称3級から、実力3級になっていたのかもしれない。

さらに、いよいよ緊張感が高まる出来事があった。

全国大会の組み合わせが発表されたのだ。

実際のトーナメント表を見ると、全国大会に行く実感が高まってくる。

団体戦に出るA・C・Eも、わからないなりに楽しんでいた。
女子団体戦は25校が参加。初戦は岩手県の高校が相手だった。
まだインターネットがダイヤルアップだった時代、京都の高校生が岩手県の人と会う機会なんてそうそうない。全国大会の良さである。

その横で私は、血の気が引いていた。

(10)4ヶ月後なう

高校選手権、女子個人戦と団体戦のトーナメント表が送られてきた。

女子個人戦はたぶん81人がエントリー。(「たぶん」なのは、今回の執筆にあたり当時のトーナメント表を見て自分で数えたから)
私は1回戦シード。2回戦で当たる可能性が高い相手は……、あの藤枝明誠の子だった。面識はある、同じ3年生。

推定5級だったとは言え、私は高2の全国大会(高校選手権、高校新人戦、高校女子選抜)でいずれもベスト8だった。
さらに高校選手権では強豪校は団体戦に注力するため、個人戦の層は落ちる。

具体的に書くと、まず勝てない相手(有段者)がひとり、ちょっと強かったり、いい勝負であろう人は5人程度。あとは「学校のお金で全国大会に行けるぞ」と勧誘された人たちや、マイペースにのんびり将棋を指していた人。
私でも、全国ランキングなら10番以内に入っていたはずだ。

それが、初戦(ベスト64)で「ちょっと強い人」を引いてしまった。

こんなに大勢いるのに。

この人数で、これだけレベルが離れていると、本当にくじ運が大きい。
幸いにして有段者さんは決勝まで当たらない位置にいたが、この初戦だけはどうしようもない。

藤枝明誠は前年の女子団体戦で初優勝していて、この年も当然、団体戦でも全国出場している。(「この子、桃子ちゃんっていうの!」の友人=と言っても1学年下で、当初からタメ口だった=はこの年、団体戦メンバーに入っていた)

だから今回当たる相手のFさんは藤枝明誠の4番手なのだが、4番手でも強いものは強い。
団体戦メンバーの3番手争いがかなり熾烈だったと聞いていた。
(携帯電話を持っていない時代にどうやって聞いたのかは忘れた)

絶望しかなかった。

(11)4ヶ月後なう

私たちが通っていたD高校は土曜日も午前中だけ授業がある代わりに、7月の初めに期末試験が終わり、7月10日頃から実質的な夏休みが始まっていた。(終業式は20日頃)

その期間に1回、4人で関西将棋会館道場に行くことにした。

対外試合の練習である。

全国大会メンバーの1年生Eは都合がつかなかったのか、それとも連絡先がわからずに誘わなかったのか、A・B・Cの京都府予選に出た3人と私の4人で行った。

土日は混みすぎるし、料金が上がるので平日にした。

さて当日。無事到着。

何かがおかしい。

全然、指している人がいない。

私は土日しか行ったことがなかったので平日の客入りを全く知らなかった。
後年、大学4年生から道場のアルバイトをするようになって知ったが、土日は1日の来場者が200人以上あり、ほとんど満席で、級位者でも平手の対局がどんどんつくような状況。
平日は1日の来場者が数十人だった。
多くが開店時や夕方に行われるトーナメント目当て。昼間は道場内に10人くらいしかいないこともあった。有段者しかいないこともある。

そんなところに突然来場した、3級ひとりと連れの女子3人。

受付の方(後年バイトに入ったときに先輩になった方)が困惑していた。

「皆さんはスワさんと指すときはどんな感じですか?」

「6枚落ちで、ほとんど上手が勝ちます」

「えーっと………、皆さん同士で当ててもいい? そうじゃないとすごく待つことになるけど………」

その日はほかに級位者が1人か2人しかおらず、ほぼ3人と私の総当たりをして終わった。

……行った意味、なかった。

(12)4ヶ月後なう

今回は私の話。長め&少し専門的です。

高校選手権女子個人戦、初戦(2回戦)の相手がほぼ確実に藤枝明誠の人(Gさんとしておこう)に決まり、ただぼんやり「強くなりたい」と思っていたのが、具体的に「Gさんに勝ちさえすれば、ベスト4に入って高校竜王戦に出られる」に変わった。

初めは絶望していたが、やるべきことが明確になった。

「角換わり棒銀」対策である。

(6)に書いたが、当時の私は定跡をひとつも知らなかった。

棒銀っていうのがあるのは知ってた。囲いや格言も知ってた。手筋の本を読むのも好きだった。

ほかに好みの展開はあったが、基本的には成り行きで指し手を決めていた。定跡を知らないので、得意戦法もなかった。

~~おまけ話~~

▲7六歩△3四歩の出だしなら▲2二角成△同銀▲4五角と進めていた。
高校女子の大会なら、半分以上の確率で△5二金左▲3四角に△3三銀▲2三角成と馬を作れた。
あとは相手の子が「習っていない形」に動揺して駒をタダで取らせてくれるので、取った駒で攻めればよかった。
楽に勝てるので、味をしめて何度もやっていた。

後手番で角道を止められても、振り飛車相手には「飛車さえ成れれば勝てる」と思っていたので、舟囲いに囲ったあとは歩頭に桂馬を跳ねて、桂損しても角交換から飛車先を突破すればいいと思っていた。
駒損しても飛車が成れば取り返せるし。

~~以上おまけ話~~

藤枝明誠高校が伝統的に角換わり棒銀を勉強しているという話は、3月の(桃子ちゃんと出会った)高校女子選抜大会で知った。

私はそれまで「角換わり棒銀」という戦法があることを知らず、でも「角換わりに5筋は突くな」という格言は知っていたので、とりあえず5筋は突かない矢倉囲いにして指していた。

しかしそれで、藤枝明誠高校の子にこてんぱんに負けた。
どうやら「角換わり棒銀」というのは、きちんと勉強しておかないとすぐにつぶされるらしい。

Gさんとの対戦が決まって少しして、私は学校帰りによく立ち寄っていた、京都駅近くのアバンティブックセンターに行った。
よく立ち寄っていたのはブックセンターではなく、アバンティ内の中古CD屋なのだけれども。
この年3月に突然ハマったCHAGE & ASKAの中古アルバムを集め始めていた。
(いつも買うから、少しずつ値上げされていた気がする)

ブックセンターの将棋コーナーで、とにかく棒銀の本を探した。

見つけたのが2つ。

棒銀大作戦(青野照市九段)

(一緒に買った「矢倉大作戦」とともに)
(棒銀大作戦のほうが読み込まれている)

棒銀戦法(石田和雄九段)

(どっちも創元社だったのか。創元社すごいな!)

初めに「棒銀大作戦」を読んだ。次の一手形式で全体量が少なかったし、「将棋ゲームブック」と書いてあるので読みやすそうだったからだ。

しかし、何度か読んでみて、これはあかん、と思った。
いつも棒銀が優勢になっている。
違う、そうじゃない。私は棒銀をやっつける方法が知りたい。
毎回毎回棒銀に爽快に勝たれていては困る。

次に石田九段の「棒銀戦法」を読んだ。どちらの本も原始棒銀や早繰り銀の項があったが、そんなところは無視して角換わり棒銀だけを読んだ。
強くなるために読んでいるのではなく、Gさんに勝つために読んでいるので、他のページはどうでもいい。Gさんに勝てそうな作戦を探した。

ひとつの光を見つけた。
石田本には、受ける側は避けなければならないはずの銀交換をさせて、反撃する指し方が紹介されていた。
これも別に優勢にならなかったけれども、少なくともこの本の通りに指せば、ぶっ潰されることにはならなさそうだった。

ポイントを押さえれば多少は手順前後できるのも、定跡を知らない私にはありがたかった。先手でも後手でも使えそうだった。
具体的に書くと、△5四角を打って、△4四歩と突いて、銀交換のときに△3三金と上がる、アレである。(わからない人は気にしないでください)
△5四角に対する▲3八角を「升田新手」と言う。……と、大人になってから知った。
升田先生(升田幸三実力制第4代名人。つまり偉い人)が新手を指してくれていなかったらきっとこの変化は載っていなかった。升田先生ありがとう。

△3三金と上がったときの絶妙なバランスがそれまで味わったことのない新しい感覚で、将棋にこんな手順があることが衝撃的だった。
魔法のような手順だ。
読めば読むほど、これならどうにかなる気がした。

でも、読むだけだった。

相変わらず実戦の95%は6枚落ち上手の日々。覚えた手順を試す機会もなかった。

そしていよいよ、山形に向かう日が来る。

(13)4ヶ月後なう

1999年7月30日、ついに山形県天童市に向かう日が来た。全国高校将棋選手権への出陣だ。
(注:ここまで「全国大会は8月」と書いていたけど、調べ直したら7月31日と8月1日でした…)

女子個人戦京都府代表の私と、女子団体戦京都府代表のA・C・E、そして忘れてはいけない顧問の5人は、JR京都駅に集合した。

長旅だった。

新幹線でまずは東京へ。

昼に着き、昼ご飯を買って乗り換え、山形新幹線で山形へ。

山形へ…?

そう、山形なのである。

実は1999年夏は、まだ新幹線が山形までしか行かなかった。

(画像はJR東日本のHPより拝借)

天童まであとちょっとなのに…。

じゃあ山形で在来線に乗り換えたわけですね、と思われた方。

さにあらず。

山形新幹線は在来線を改造(?)して整備されていたので、この頃の山形-新庄間はJRの電車が走っていない。

代替バスですよ、バス。ばぁーーすっ。

高校選手権は「全国高校総合文化祭」の将棋部門を兼ねているので、将棋だけじゃなくて、囲碁とか演劇とか写真とか、文化系の全国大会を同時に行う。
全国から高校生が集うっていうときに、代替バスですよ。
(新幹線はこの年の12月にできたので、もしかしたら当初は間に合うつもりだったのかもしれない)

全国から高校生が集うってわかっているはずなのにバスは増便されていなかったようで、私たちは山形から天童まで、1時間くらいだったかの道のりをバスで立ちっぱなしで過ごしたのであった。

(アルバムに残されていた新幹線特急券と、なぜかレシート。消費税5%)

到着すると、ホテルで学校ごとの受付。前年の高校選手権で知り合った天童の女子高生(この時も山形県代表)とも再会した。

宿泊は京都代表の我々D高の4人と、女子個人戦京都府予選で2位・3位になって代表になったM高の女子2人で同部屋。人数が少ないと他県の子と同室になって仲良くなるきっかけになるが、京都だけだとそれはそれでリラックスして過ごせる。

夕食は宴会場にて。

その後、藤枝明誠の団体戦メンバーである「桃子ちゃんって言うの~」の子に会う。

「部屋でやすじがGさんにスワさん対策を教えてるよ~」

それ、バラしていいのか?

しかし対策するほど私の指し方は固定化されていなかったと思うし、何を対策していたのだろうか。

団体戦の3人は緊張していたのだろうか、どうだったのだろう。

ここに来られただけでもゴールしたようなものなので、前日は練習もせず、大富豪でもして過ごしたような気がする。
私は大勝負を控えているはずなのだが。

D中・D高は修学旅行がなかったので、この高校選手権はその代わりのようなものだったかもしれない。

(14)4ヶ月後なう

1999年7月31日、山形県天童市の天童市市民プラザにて、第35回全国高校将棋選手権が行われた。男女の個人戦と団体戦を合わせて331人が参加した。
(と、当時の将棋年鑑に書いてある)

ちなみにこのときの男子個人戦で準優勝しているのが、現在もご活躍の栃木県代表・K島S介さん。
前年優勝した岐阜県代表のK藤Y男さんは3回戦でY内氏に敗れている。(が、この後の高校竜王戦で優勝した)
今では仲良くしているふたりだが、私が出会ったのは後年のことである。

団体戦は学校名しか記録に残っていないので、どういう方が出ていたのかはわからない。
(全員の名前を載せたら将棋年鑑の売り上げがアップしそうなのにね!)

この大会では(肩書きは当時のもの)森けい二九段、石川陽生六段、北浜健介六段、勝又清和五段、横山澄恵女流初段、古河彩子女流初段が現地を訪れ、指導対局をした。
午前9時に開会式が行われ、そのあと1回戦が始まった。(と、将棋年鑑に以下略)

1回戦シードの私は、団体戦の応援と、2回戦で当たるはずのGさんの偵察をしながら待った。
Gさんの相手は情報がないだけで、そちらと当たる可能性も一応ある。

団体戦は、京都府予選で「不思議な投了図」を作ったCが勝ったものの、AとEが敗れて初戦敗退。自分の対局のことで精いっぱいなので、内容は全く覚えていない。
トーナメントなので、これで終了だ。
「じゃあ観光に行ってくるわ~」と早々に3人で消えた。
私の応援はしないんかい!と言いたいところだが、元が「旅行に行こう」と誘っているので仕方がない。
しかしCはD高の歴史に……は残っていないのだけど、価値ある初勝利を挙げた。公式戦2勝目でもある。
なお顧問は既にいない。(顧問も私の態度にあきれていて、必要最低限以外の接触をしなくなっていた)

女子個人戦のほうは、案の定Gさんが勝っていた。

この1局のことだけを、Gさんに勝つことだけを考えて1ヶ月準備してきた。

(15)4ヶ月後なう

第35回全国高校将棋選手権、女子個人戦。

1回戦シードの私はいよいよ2回戦でGさんと対局することになった。

自分で言うのもなんだが2回戦屈指の好カードで、開始前から京都でも静岡でもない県の顧問の先生方がちょくちょく様子を見に来ていた。
3回戦くらいまではまだ初心者の子が勝ち残っているので、駒を並べながら雑談しているところも多いが、ここだけはガチだった。
向こうは1局指してエンジンがかかっているのに、こちらは初戦なのは嫌だな、脳みそは回転しているのかな、と考えていた。もちろん緊張していた。

どっちが先手だったか忘れたが、とにかく対局は始まり、やはり角換わり棒銀になった。

対局中は盤面しか見ていなくて、Gさんがどんな表情だったかまでは覚えていない。
でも私が(こっちが後手として)△5四角を打つ変化にするなんて、きっと前日の対策でもやっていないだろう。一本取った気分でいた。
ただ、恐らく向こうは元々知っていた。すぐに▲3八角と指してきた。
少し手が進み、△3三金と上がったあとが問題である。それ以降の定跡手順を全く知らなかった。
その局面は飛車取りなのでどこかに飛車が逃げるのだが、飛車を逃げる場所によってこちらが選ぶべき手順が違うのを覚えきれなかった。
(※その後はこの手順を必死に覚える必要がない人生なので、20年以上経った現在も覚えていない)

飛車がどこに逃げたかも今となっては覚えていないが、これ以降は闇の中をかき分けていくしかない。
あとで知ったことだが、すぐ悪手を指したらしく、局面はずっと悪かったそうだ。自覚はなかった。

この定跡は居玉で中盤戦に入るので、お互いそのまま玉を囲わずに殴り合っていた。

最終盤、自玉も危ないかもとちらりと思ったが、私はGさんの玉を見ていた。きっと現実逃避をしていた。
金を打てたら1手詰だ。しかし、打ちたい場所には飛車の利きがあって、今は打てない。

飛車が動けば、1手詰にできる。

よし。

私は飛車の真ん前に、持ち駒の銀を打った。取ってくれれば1手詰だ。

Gさんは取らずに、飛車を横に逃げた。

私はまた銀を、飛車の真ん前に打った。これも取れば詰み。

Gさんはまた、飛車を横に逃げた。それまで勢いがよかった手つきが急に弱くなった記憶が、かすかに残る。

あっ。

2回目に打った銀の場所がちょうど良く、Gさんの玉には3手詰が生じていた。

私は持ち駒の金を打った。

「負けました」とGさんが言った。私もたぶん「ありがとうございました」と言ったはずだ。

勝った。Gさんに勝った。

呆然としていると、Gさんの顧問の加藤先生が「飛車を逃げなかったら勝っていたよ」と言った。

初めに飛車取りに銀を打った手。これは次に飛車を取って、ようやく攻めになる。銀を打っただけでは何でもない。
飛車を逃げずに攻められていたら負けていたらしい。
(形は忘れたが指摘されたらすごくわかりやすい手だった)

最後の最後で生じた大逆転だった。

自分の恩師から勝ち筋を指摘されたGさんは泣き出した。

それを見て、なぜか私も泣き出した。
ふたりともわんわん泣いたので異様な光景だっただろう。

他校の先生方には、なんで君が泣くねんとか、どっちが勝ったかわからへんかったとか、あとで言われた。
他の選手からも「勝ったの? 泣いてたのに?」と言われた。

Gさんもこの対局に懸けていたのを強く感じたし、このあと私も頑張らないといけないと責任感が押し寄せてきた。

正反対の感情だが、同時に「これで準決勝までは行ける」「高校竜王戦に行ける」と安堵した。
いろんな感情がごっちゃになって、涙が止まらなくなった。

(16)4ヶ月後なう

1999年7月31日山形県天童市で行われた第35回全国高校将棋選手権女子個人戦、初戦にして最大の山場と見ていたGさんとの対局を制した私は、3回戦で福井県代表に、4回戦で北海道代表に勝った。
偶然にもふたりとも前年に仲良くなった子たちだったので「がんばってね」と言ってくれた。

ちなみに同じ京都府代表のM高の2人はひとりが3回戦まで進出。ひとりは初戦の2回戦で敗れている。

次は準々決勝。1日目の最終戦で、勝てばベスト4。
明文化されてはいなかったが、勝てば高校竜王戦に女子推薦枠で出場が決まる対局でもあった。

相手は群馬県代表の、名前を知らない子だった。
名前は知らなくても全国大会のベスト8まで来ているのだから、そこそこ実力はあるのだろうと思っていたものの、情報がない。
破ってきた相手に目立った強豪選手がいたわけでもなく、恐らく順当に勝ち上がってきたのだろう。

他校の先生もいくらなんでもそこまでは教えてくれない。
よくわからないままに席に座り、対局が始まった。

戦型は矢倉。棒銀しか知らなかったので棒銀をしたと思われる。

中盤、大きな疑問手があったようには思えなかったが、形勢は少しずつ苦しくなっていった。

なんとか逆転の手を探さないと。

そこで、自陣の角を飛び出す手が、とてもいい手に見えた。
それでも相手玉はまだ何も響かないのだけど、何かしなくては逆転しない。

えいやっ。と角を出た。

すると。

「えっ」と相手の子が、指を指してきた。

私は自陣を見る。

角がいた場所の少し右には私の玉がいる。

そして、角がいた場所の少し左に、相手の竜がいる。

つまり。

角が動いたことで、私の玉が取られる形になっていた。

「あ…………」

事態を把握する前に、本能的に、言わなければならないことがあると察した。とりあえず言った。

「負けました」

負けましたと言ってから、負けたんだなと思うまで、まだ少し時間がかかった。

つまり私は自玉に自分で王手をかける、王手放置のような反則手を指したのである。

あとから考えると、原因があった。
当時の私は左手をあごに当てて考える癖があって、その左腕で相手の竜が死角に入っていたと思われる。
普段はそんなことはないのだが、逆転するための攻めがないかと、かなり身を乗り出していたのだろう。

形ばかりの感想戦をして席を立ち、会場内でぼんやりと立っていると、M高の顧問の先生がやってきて、結果を聞いてきた。
言葉で言おうとしたが言葉にならず、わーーーっと泣き出した。
M高の先生はすごく困っていらっしゃった。

私はそれまで練習も含めて二歩や王手放置などの反則を一切したことがなく、生まれて初めての反則が、こんな大舞台だった。

~~おまけ話~~

数年後に大学生になってから同学年の群馬県出身の男子と話す機会があったが、この子は初段だったらしい。
名前を知らないだけで普通に強い子だった。
彼は「俺は準優勝だったのに高校竜王戦に出られなくて、群馬ではさっさと負けたあいつがなんで出られるんだよ~」と言ってた。
男子からしたら、そりゃそうだな。

~~以上、おまけ話~~

夕方になって団体戦の3人が戻ってきたころには気持ちも落ち着いていて、恥ずかしながら結果を報告して、まあまあよくがんばったとなぐさめられた。

2日目の対局があるのは全選手の中でごく一部だけなので、もう遊ぶだけだ。
特に個人戦に出ている子は学校ごとの縛りもないので、男子も女子も都道府県の隔てなく集まって遊んだ。
私は前年の大会で北海道代表の子たちと仲良くなっていたので、団体戦の3人とともに合流して、大富豪をした。
沖縄代表の子とか、山形とか神奈川とか三重とか、いろんな県の子と知り合いになった。
各地の大富豪のローカルルールを全て採用すると、わけがわからないことになった。

沖縄県代表の子が「こいつはナカマっていう名字なんだけど、本州にはないでしょ?」と言った。
私たちは「そんなことないよ~」と言っていた。

住所の交換とかしたけど手紙をやりとりすることもなく、ほとんどがこれを最後に会っていない。(みんなに書いてもらったアドレス帳も10年くらいして捨てた)
その住所交換の時に知ったけど、沖縄県代表のナカマくんは「名嘉真」くんだった。「仲間」くんじゃなかった。
まあでもナカマくんの顔は全く覚えていないし、なんなら「本州にはないでしょ?」と言った子は名前すら憶えていない。ごめんね。

その大富豪をした中に、以前から知り合いの山口県代表の女子がいた。
彼女は翌日の準決勝に残っていた。私が勝っていたら当たっていた相手でもある。
「めちゃくちゃ緊張する」と言ってた。その緊張がうらやましかった。

当時は女子の競技人口が少なすぎて派遣基準を独自に決めていた県があり、山口県の場合は「男子個人戦の予選に参加して準々決勝に入ったら女子個人戦の代表資格を得る」というルールだと言っていた。
その基準を満たしているだけでだいぶ実力があるのがわかる。
(この山口の子は大学進学後も将棋を続けて、何度か対戦したがほとんど勝っていない)

(宿にて。北海道と神奈川の子が写っている。私は何をしているんですかね…)

当時はカメラをいじったことなんて全然なくて、「写ルンです」で撮っている。だいたい1回の旅行でフィルム32枚撮りを使いきるような感じだった。
しかし写ルンですってこんなにちゃんと残っていてすごいね。

(17)5ヶ月後なう

月が替わって1999年8月1日、第35回全国高校将棋選手権の2日目。

前日の最終戦(準々決勝)で反則した私は、団体戦メンバー3人が観光に行くのを横目に、大会の会場に残っていた。
ベスト8でも表彰式で「4位」の表彰状が渡されるという事情があった。

3位が2人、4位が4人。
この表彰状が礼拝で読み上げられたせいで、高校では私はベスト4だと思われていた。実はベスト8です。

~~おまけ話~~

(2)のBOX引っ越しのくだりでもわかるように将棋部の「序列」は低かったので、学校に持っていくのはめんどくさかったが表彰状という表彰状を全て学校の礼拝で読み上げてもらっていた。
(申し出ればどんな表彰状も読んでもらえる)
中学(系列校)1年のときに「女のくせに将棋部に入った」のがきっかけで(まあ理由は何でもよかったのだろう)、長らくクラス内で無視されたり、男子たちの何かの罰ゲームで私に告白するという仕打ちを受けたりしていた。
いじめではないが、精神的暴力行為だと思っている。あいつら許さぬ。
中3がピークで、高校に入るとこっちが慣れて無反応になったので面白くなくなったらしくて下火になっていたが、2年生で初めて「全国大会の表彰状」を読み上げられてからはぴたりと収まった。
全国大会は偉大である。

~~以上、おまけ話~~

会場でGさんに会った。藤枝明誠高校は団体戦が2日目に勝ち残っていて、Gさんも他の部員とともにやってきた。(なお優勝した)

私はGさんを見るやいなやすっ飛んでいって、ひたすら「ごめん」と言った。
Gさんはすごく驚いていたが「いいよいいよ」と言ってくれた。そのあとは仲良くしゃべっていた気がする。

女子個人戦の準決勝では私が負けた群馬県代表の子が、山口県代表に勝って決勝進出。
それを見てようやく「どうせ実力でも負けていたわ」と納得した。

反対側の山は順当に大本命の研修会員さんが勝ち上がり、そして優勝した。
1学年下の研修会員さんとは数年間は年賀状のやり取りをしていたが、ある年に宛先不明で返ってきてそのままになっている。

決勝戦は確か、男子個人戦の大盤解説会があったのだと思う。ということはK島S介さんの将棋を見ていたのか。(何も覚えていない)

あとはこんな写真が残っている。

(上…北海道、北海道、陣屋の近く。この3人とは初めて全国大会に行ったときに仲良くなり、どこの大会に行ってもきゃっきゃと遊んでいた。私の隣の子だけ年賀状のやり取りをしている/下…私以外は全員北海道代表の写真。私の後ろは北海道の顧問)

恐らく北海道代表の子が現像したのを郵送してくれたんだと思う。

ところで全国大会で本当に驚いたのは、大学に行かない高校生が大勢いることだ。
大学付属の私立高にいるとそのまま推薦で大学に行く人が大半で、受験して他大学に行く人すら異端児だったので、まさか大学に行かない人がこんなにいると思わなかった。
(後年、将棋業界で仕事を始めたときは、さらに大学進学率が低くてまた驚いた)
自分が賢いとかそういうことではなくて、むしろ自分周辺の世界というのは、日本の中でもほんの一部分だと知ることができた。
大富豪のローカルルールもそう。
しかもそれでも「将棋を指す」という共通項があるのだから、日本は(世界も)全くひとくくりにできない。
そのときは知らなかった言葉だけど「多様性」を実感した2日間だった。

(表彰状。ほら、「4位」でしょう。あと、でかい。右下は比較用の将棋世界)

※高校選手権ではなく、(13)に書いた「全国高校総合文化祭」名義の表彰状なので「第23回」になっています。

で、表彰式が終わる頃にA・C・E(と顧問)が戻ってきて、またあの代替バスをえんやこらと乗り、京都に戻った。
代替バスはぎゅうぎゅう詰めで、ぎゅうぎゅう押されている間にGさんが真横になり、これまた山形までしゃべってた。

Gさんはその後は1回か2回会ったような気がするけど、よく覚えていない。

というわけで、(いろんな意味で)最大の目標であった夏の高校選手権が終わった。

……が、なぜか同級生3人(+E)の特訓は続いたのであった。

(18)5ヶ月後なう

さて、全国大会が終わった。月末に行くつもりでいた高校竜王戦も、出られなくなった。

普通ならここで高校3年間(私は2年、あの3人は5ヶ月)の将棋部を引退して大学受験……となるはずだが、そうではない。

我々は、D大学の系列のD高校に通っているので、推薦で大学に行けるのである。(よほど成績が悪かったら行けないが、さすがに大丈夫)
2学期の終わりまでの成績で、どこの学部・学科に推薦されるのか決まる。
進路希望の用紙は第6希望まで書けるようになっているが、噂では裏面も使って夜間も含めた全ての学科…第40希望くらいまで書いていいという話だった。

そんなわけで、引退という概念がなかった。

どうせすることがない我々は、出られる大会は全部出ることにした。タダだし。

それが、10月末の全国高校新人戦の京都府予選(兼、京都府高校総合文化祭…なので3年生でも出られる)と、11月の近畿高校総合文化祭(近畿大会)。

ま、でも、とりあえず8月は夏休みだし、みんなそれぞれの部活があるし、定期券が切れている人もいるし、解散。

私は化学部にも属していたが3年生のときは後輩たちが熱心すぎてなんとなく居心地が悪くなり、8月はそんなに行ってなかった気がする。

何してたんですかね?

(19)6ヶ月後なう

9月。2学期。
将棋部の活動が再開した。

この頃、またハプニングが起きた。
腐女子Aが、家族から近畿大会の出場を認めないと通告されたのだ。

近畿大会の日程が11月の土日の2日間で、我が校は当時土曜日も授業があったので、近畿大会に出るには学校を休む必要があったからだ。

全国大会でメンバー変更の前例を作ったので、ここはさほど問題なく認められた……と思う。
というわけでもちろん出場する女子個人戦の私と、女子団体戦はB・C・Eの3人で出場することになった。

この腐女子Aはこの連載を書き始めてからTwitterで頻繁に宣伝してくれているのだが、本人は近畿大会に出場していないというオチである。いまのうちに暴露しておこう。

さらに、近畿大会は当日朝に移動すれば間に合うように、土曜日の午後から開始されるのだが、顧問に「先生! 徳島に当日の朝に移動するって、事故とかあったら危ないじゃないですか! 金曜日の午後に移動したいです」と言って、金曜日は午前中だけ授業に出て午後に移動することになった。
(顧問は金曜の5・6時間目に授業があるので、別行動になった)

……あれ、いま、何か見えた?

「徳島に移動する」って見えた?

そう。

この年の近畿大会、会場は徳島市だった。

なんでやねん。

実は近畿高校総合文化祭は「近畿」と名前がついていながら、2府4県の他に三重県、福井県、徳島県が参加しているのであーる。
(後年、岡山とか鳥取も加わったはず)

(20)6ヶ月後なう

ところで、8月の全国大会のときに私は思った。

「近畿大会、勝てるんちゃう?」

近畿大会に出てくる2府7県(近畿+福井・三重・徳島)から女子団体戦には我がD高を含めて7校出ていたが、うち5校が初戦敗退。1校が1勝して、1校が2勝した(ベスト8)だけだった。

京都府予選で対戦した棋歴1ヶ月の3人よりは強いけど、D高の3人とさほど変わらない。

これは少し鍛えたら勝てるようになるんじゃないだろうか。

女子個人戦で優勝を狙うためのライバルは1人だけ。(詳細は後日)
自分のことは、全国大会より比重が下がった。
みんなただ遊びに行くだけよりもいいだろう。1つくらい勝てるようになったほうが楽しいだろう。

ここから1ヶ月少々で、とにかく勝ちやすい方法を教えることにした。

これまでは「四間飛車+美濃囲い」で、主に棒銀対策として「攻めてきた筋に飛車を回る」とか「戦いが起こった瞬間に角道を開ける」という感じで王道の指し方を教えていた。
ただ相振り飛車になることも多いし、そして私は相振り飛車を全く指したことがなかったし、もっと実戦的な指し方を教えることにした。

すなわち。

・四間飛車+穴熊だ
・できるだけ飛車を成らせるのを遅らせろ
・駒損しても、飛車だけは取れ
・と金を作れ
・二歩に気をつけろ
・と金と相手の駒を交換しろ
・特に、玉の近くにいる金を取れ
・多少駒損しても金を取れ
・角はいらない。金を取れ
・ただし、飛車は捨てるな
・そして、二歩に気をつけろ
・交換して手に入れた駒(特に金銀)は、自陣に打て
・穴熊がまるまる残っていても、打て
・そしたら相手は攻め方がわからなくなるから、その間に大駒とと金を使って攻めろ
・ただし、飛車は捨てるな
・そして、二歩に気をつけろ
・王手はバレる。王手せずに遠巻きに追い詰めろ
・ただし、飛車は捨てるな
・そして、二歩に気をつけろ
・自玉に王手が掛かっていないか、よく確かめろ
・こっそり1手詰を狙え
・ただし、飛車は捨てるな
・そして、二歩に気をつけろ
・そして1手詰にしろ
・ただし、二歩に気をつけろ
・そして、打ち歩詰めは反則だぞ
・団体戦は、詰まされるまで投げるな

「負けました」と言う前に、相手の玉を取れないか見ろ

強くなる方法ではない。1ヶ月後の大会で勝てる可能性が高まる方法だ。

これをとことん言い続けた。

高校生のノリでA・B・Cは「弟子」ということになっていたが、Aは王手飛車取りをかけられたと知っていても「飛車が好き」と飛車を逃がすので、この頃に破門した。

で、ね。

これは約5年後に私が小学生を教えるようになって気づいたことだけど。

やっぱり上位の私立高校に通って、その中でも成績がよかったA・B・C・Eは、賢いんですよ。
賢くて、物覚えがめちゃくちゃよくて、伝えたことを対局で実現させる能力が高かったんですよ。
そしてこの1ヶ月は、みんなたくさん指した。あっという間に、穴熊で大会に勝つ指し方を身につけていった。

当時は私の教え方がうまいから残した結果だと思い上がっていたけど、あとから思うと彼女たちのもともとの能力と、私のめちゃくちゃな教え方についてきて練習してくれた結果が、この連載のタイトルになっている。

(21)7ヶ月後なう

10月上旬だったと思うが、また事件が起きた。

生徒会と喧嘩した。

喧嘩というほどではないが、ひと悶着あった。
元はと言えばこちらに問題があったような気もしなくはないが、話を聞いてほしい。

11月下旬に学園祭(正式名称は異なる)がある。

学園祭では文化系の部活は日頃の成果を発表したり、運動系の部活は出店で食べ物を提供したりする。

将棋部も教室1つ使わせてもらって、自由対局コーナーを作っていた。

学園祭は何かと準備が必要なので、予算請求ができる。

将棋部もさほど準備するものはないのだが、一応飾りつけをしてもいいよねとか、このどさくさに新しい盤駒を1セットほしいなっていうのもあるし、なんとかひねり出して5000円くらい予算を請求した。

その回答が……。

「200円」

…って。

200円で何を買えというんやっ!

チェスクロックの電池すら買えないぞ。いや、電池なら買えるのか。

正直なところ将棋部の自由対局コーナーって盤駒を並べるだけなので確かにお金はいらないんだけど、いろいろ書いて請求して、200円っていうことは将棋部の価値が200円程度っていうことですかね。
200円って何をどうやって200円だけを使わそうとしているんですかね。
予算請求のどこを認めて200円なんですかね。
我々を馬鹿にしているんですかね。

とキレたわけです。
結局何も変わらず、決算で「支出0円」で返したけど。無理やろ。

年度初め、部活全体の年間予算でも認められたのは2000円で、将棋の本1~2冊やないかーい!と陰で文句を言った記憶がある。
そして1000円未満の本を2冊買った記憶がある。

当時は自分が一番正義だと思って行動しているけど、振り返ってみるとここに至るまでの私の言動で将棋部の印象が悪くなっている可能性はあるし、あくまでも部活動で必要なもの、学園祭で必要なものを予算計上すべきで、「予算請求」の意味がわかっていなかった。

でも学校の人気者で構成される生徒会に、人気者が多く所属する体育会系の予算を手厚くつけられると、日陰者の私はそれだけで馬鹿にされたと思って深く傷ついていた。
いまでも根本的な性格は変わらず、つまり私の人徳の問題だと思うが、それにしても世間知らずだった。

(22)7ヶ月後なう

10月下旬、高校新人戦の京都府予選が行われた。

新人戦は1・2年生対象で、2年のときには全国大会でベスト8に入った。
(高校1年のときはそんなに簡単に全国大会に行けるのを知らなかったので将棋部に入っていなかった)

私たちは高校3年生だったが、京都府予選は「京都府高校総合文化祭将棋部門」を兼ねていたので3年生も出場できた。
だいたいは受験や進学も踏まえて部活自体が高3の夏休みまでらしく、ここに出る3年生はほとんどいないのだが。
まあ、出られるから出るよね。

この大会はスイス式トーナメントだった。
「スイス式トーナメント」は指し将じゃないとなじみがない言葉だが、要するに総当たりではないリーグ戦だ。
ただし同成績の人と当たるので、全勝者はひたすら全勝者と当たる点がトーナメントと呼ばれる所以。

京都の高校将棋界は運営者にスイス式の鬼みたいな人がいて、5月の高校選手権予選以外はだいたいスイス式で行われていた。
(後年、全国高校将棋選手権は京都府開催になったときから1日目がスイス式トーナメントに変わり、現在に至っている。この形式だと1局で終わることはなく、観光に行けないのでこの物語は誕生していなかっただろう)

前年はA~C級に分かれていて、私も含めた女子の出場者3人が全員C級の棋力だったので、1戦目・2戦目・3戦目で意図的に女子同士を当てることでC級と女子の部を同時進行した。
その結果、私は1つの大会で女子の部とC級の2つ優勝した。

今年は私たち4人(Eは何らかの事情があって欠場)が出ることもあって女子の部に10人エントリー。M高の2人、そして春の女子団体戦で激闘を繰り広げた相手校のメンバーもいた。

春の高校竜王戦予選のような5分切れ負け女子の部をやるわけにもいかない人数なので、男女別で開催することになった。
私は男子のB級で出てもいいよと言われたような気もするが、よく覚えていない。

10人で6局指すスイス式。1、2回戦目は同校対決が避けられた。

3回戦あたりで異変に気づいた。

A・B・Cがさくさく勝つのだ。

特にCが、M高の2人に勝ってしまった。Cは春の女子団体戦ではあんなことをしたが、全国大会でも唯一勝ったし、A・B・Cの中では香車1枚抜き出た棋力で、6枚落ちで負ける回数も一番多かった。

そう。
この頃になると私は彼女たちに3面指し6枚落ちでもたまに負けるようになっていた。
私も強くなったはずなのに。

M高顧問のH先生は京都府の一般大会で優勝したこともある京都では知られたアマ強豪で、2年間教えてきた生徒が、3級の女子に半年教わっただけの子に負けたことにショックを受けた様子だった。

私もびっくりですよ、そんなん。

全勝同士が当たるので3回戦か4回戦で私とCが当たり、ここは私が勝った。
全勝者が1人になると、当たっていない人の中で成績上位の人と対戦することになる。
私は5回戦あたりでバレエ女子Bと対戦した。

このとき。

負けそうになった。

この対局中、私はすごく体調が悪くなったことを覚えている。吐き気が止まらなく、体温が下がってきた。

もともと体調がよくなかった可能性があるが、自分が圧倒的に強いはずの中で追い上げてきたのが、自分が半年間教えた同級生だというのが極度のプレッシャーになったのかもしれない。
またBも「どうせ負けるから」というノリですごくのびのび指していたのだと思う。
あ、将棋の内容は覚えていません。

最終的になんとか勝ったが、もう、本当に「なんとか勝った」というのがぴったりの大苦戦だった。

結果として私は全勝優勝。
Cが2位、3・4位がM高の子で、5位にB、6位にAが入った。
新人戦の全国大会は4枠あり、3・4・7・8位が出場している。

(表彰状を引っ張り出したら、名前が鉛筆書きのままだった)

3位のM高生は夏の全国大会の女子個人戦で2勝しているので、Cもこの時点で女子個人戦に出ていたらくじ運次第でベスト32くらいには入る実力になっていたということだ。

そして7~10位の子には、3人とも勝てるようになっていた。

私たち全員に自覚がなかったが、急に実力が伸びていたらしい、とこのとき気づいた。

いよいよ翌週に、近畿大会が迫っていた。

(23)8ヶ月後なう

1999年11月5日、金曜日。私とB・C・Eの3人は、近畿大会に出るために徳島に移動した。
高校に荷物を持っていって、午前中だけ授業を受けてそのまま4人で京都駅に移動し、高速バスで徳島に行った。

金曜午後と土曜日は公欠で、出席扱いになった。
クラスの中であまり居場所がなく、気が乗らないときは「気分が悪い」と言って保健室に行って爆睡していた私だが、学校を休んでまで徳島に試合をしにいくということで、「がんばって~」と言ってもらえた記憶がある。

~~おまけ話~~

各科目、学期内に4回欠席すると10段階評価の成績が1つ下げられる(らしい)ので、保健室に行く回数は科目ごとにしっかりチェックしていた。
風邪で学校自体休む可能性もあるので、ちょっと余裕は持たせた。
好きな科目はきっちり出たので、苦手科目(主に外来語が多い科目)をどこで休むかが重要だった。
というわけで、気は乗らないがほとんどは出席している。欠席は年に1~2回、本当に熱を出したときくらい。

11月下旬にあった体育祭の応援合戦(実態はクラス対抗のダンス)はどうしてもやりたくなくて、ごねてごねてごね倒して音楽のスタートボタンを押す係になった。たぶん決定的にクラスで浮いた。

3年間不登校にならずに通えているのだから相対的には楽しいことが多かったはずだけど、どうもしんどい話ばかり記憶に残っているなあ。

~~以上、おまけ話~~

前日入りしている学校が多いかと思っていたが、金曜日から移動しているのは遠い福井や三重くらいで、真の近畿地方の高校はほとんどが土曜朝に移動するようだった。

到着してからは4人で遊び、翌日(土曜日)午前は会場をうろちょろしていた。
午前中に受付があって、午後から開会式と予選が始まる。

広いロビーに制服姿でリュックを背負った高校生がどんどん集まった。

我が校は制服がなかったので私服だが、他に私服で現れた選手はいなかったと思う。

(24)8ヶ月後なう

1999年11月6日(土)、午後。
いよいよ、近畿大会(近畿高校総合文化祭将棋部門)が始まった。

男子個人戦の選手権戦、A級、B級、男子団体戦、女子個人戦、女子団体戦と行われる。

この年は個人戦、予選は2勝通過、2敗失格形式だったと思う。
自分で言うのもなんだが優勝候補だった私はさくさくと2連勝して通過を決めた。
8人で行われる2日目の決勝トーナメントに進出した。

女子団体戦はやはり7校が参加。3校と4校に分かれて総当たりリーグ戦が行われ、上位2校ずつ計4校が2日目の決勝トーナメントに進出する。

通過できたらいいねとは言っていたが、4校のほうのリーグ戦に入ってしまったこともあって、2日目はまた観光かなと思っていた。

しかも。

Bが熱を出した。

これが2020年であれば棄権だが、幸か不幸か1999年。
熱を出したまま、対局した。

初めの2戦、1勝1敗だった。発熱中のBは連敗だったので、Cが連勝してEが1勝1敗だったということだろう。
ちなみに団体戦としてはD高校史上通算2勝目である。
しかも今回は普通に勝った。(普通とは)

3戦目は確か相手も1勝1敗で、ほぼ勝ったほうが決勝トーナメントに進出する対局になった。

そのときは私も対局していたらしく、女子団体戦は見ていない。
対局後に私が会場内に突っ立っていたら、BがCとEに抱えられながら近づいてきた。
何かうめいていて、これはやばいと思った。

が。

うめき声ではなかった。
「勝った~~~ 勝った~~~~~」と言っている。

Cが「よくがんばったー!」と言っている。

私たちの前では無口だったEはただ微笑んでいる。

1-1で残った対局でBが勝ったらしい。

つまり。

2勝1敗で予選2位。決勝トーナメント進出。

うおーよくがんばった!!

と言って頭をなでたつもりだが、たぶん興奮でたたいてた。病人の頭を。

決勝トーナメント進出ということは準決勝進出で、3位決定戦はないので、3位以上が確定した。

この物語最大のハイライトのはずだが、実際の将棋を見ていないし、うめいていると思ったときの恐怖が最も記憶に残っている。

(25)8ヶ月後なう

近畿大会2日目。幸い、Bの熱は下がった。

ここに来て私は内心焦っていた。

女子団体戦はベスト4進出。
女子個人戦の私はベスト8進出。

準々決勝でもし私が負けたら…?

女子団体戦だけが入賞。私は手ぶら。

プライドだけは一人前の私には到底我慢できない事態になる。

「負けたらどうしよう」そればかり考えていた。

この女子個人戦では私ともう1人が2強で、抽選の結果、もうひとり(Jさんとしておこう)とは決勝まで当たらないことになった。

そういえばこの大会のどこかで、現在関西駒の会にいる某女性と当たった記憶がうっすらとあるが、どこで当たったかは覚えていないので省略。

とりあえず準々決勝は勝った。さすがに予選を通過してきているので、みんなそれなりに強かった。

さて女子団体戦。

結果を言うと準決勝で負けた。

Bが怒っていた。

Cが対局中、相手が二歩を打ったのを「いいよいいよ」と言って戻し、そのあと負けたらしい。

Bが勝って1-2だったので、Cが二歩の時点で勝ちを主張していたら決勝に進出していたわけだ。

「なんで戻したん! もー!」とめっちゃ文句を言っていた。

Cは「そのまま指しても勝てそうやったから」と言っていた。逆転負けしたらしい。

まあ、そんなわけで。

女子高生が同級生に将棋の駒の動かし方を教えたら、半年後に近畿3位になった。

めでたしめでたし。

表題は達成されたが、あと何回か、お付き合いいただきたい。

(26)8ヶ月後なう

近畿大会女子団体戦準決勝で敗退し、女子高生が同級生に将棋の駒の動かし方を教わったら、半年後に近畿3位になった彼女たちが初めにしたことは、徳島観光である。いってらっしゃい。

私は女子個人戦の準決勝が始まろうとしていた。

女子団体戦は3位確定。
私もここで負けたら3位確定。

一緒なのもどうなん……?

やはりプライドが許せず、しかし「負けたらどうしよう」という不安で脳内が満たされていた。

だが、幸いにして勝利した。

決勝進出。ここでようやく女子団体戦より上位になることが確定してほっとした。

そして決勝戦の相手は、予想通りJさん。

彼女は1学年下の福井県代表で、前年度の優勝者。因縁のある相手だ。

まず高校2年夏の全国大会。会場は鳥取県倉吉市。準々決勝で対戦し、敗れた。このときは手も足も出ない完敗で、実力差を感じた。

そしてちょうど1年前、高2秋の近畿大会。会場は大阪市内の高校だった。
この年の女子個人戦は2リーグに分かれての予選リーグを行い、1位同士が決勝を、2位同士が3位決定戦を指すことになっていた。

予選リーグの最終戦、全勝同士で私とJさんは対戦した。もう1つのリーグに5級以上の子はいなくて、実質的な決勝戦だった。

対局は有利に進めていると思っていたが、終盤にすごくいい手が飛んできた。
その手が見えていなかった私は、自玉に必至がかかったと思って投了した。

すぐに観戦していた大人たちから「えっ、投げるの?」と言われた。
その局面、私が勝っていた。必至と思っていた自玉は、詰めろでもなかった。

大人たちが「ああ指せば勝ち」「こう指せば勝ち」と次々に指摘してくる。
そのわずらわしさと、勝っていた将棋を自ら捨ててしまったみじめさで私は大泣きした。ずーっと泣いた。

泣いていたが、3位決定戦があった。指さずに帰ろうと思ったが良心が許さず、でも泣き止むことはできず、泣きながら指して勝った。
内容はとにかくぼろぼろ。頭が真っ白ななか、反則じゃない手を指すのが精いっぱいだった。
相手の子もやりづらかっただろう。
もう耐えきれず、表彰式は出ずに泣きながら会場を飛び出した。
(表彰状は手元にあるので、郵送されたのか…?)

今となっては「泣きながら3位決定戦を指して勝った」というのが藤井聡太二冠と共通のエピソードになって、おいしいのだが。

それから1年、久々にJさんと対局する機会が訪れた。

近畿大会の優勝もしたいし、Jさんにも勝ちたいと思った。

(27)8ヶ月後なう

近畿大会、女子個人戦決勝。

1回も勝てていないJさんと対戦した私は、この決勝戦も敗れた。

ただ、これまでで一番拮抗した内容で、しょうもないうっかりもなく、すごく充実した時間だった。
棋力の都合で棋譜が残せず、棋譜がないからきれいな記憶のままで残っている。

最後は私が自玉に5手詰くらいの詰めろがかかっているのを気づかず、詰まされてしまった。うっかりではあるけど、それに気づかないのは実力と納得できた。

一応、前年の3位より1つ順位が上がって2位になった。
今でも思うが、近畿大会のエリアに福井県が入っていなければ2連覇してたんだけどな……。

Jさんは大学では将棋部に入らなかったようで、このときを最後に対局する機会がない。
いま指せば私のほうが強いはずだと、しょうもないプライドがうずく。

さて男子の個人戦、団体戦も全て終わり、表彰式である。

もちろん、女子個人戦も女子団体戦も表彰状をもらう。

が。

あいつらがいない。

大会の進行が予定より早く、観光に出かけたB・C・Eが戻っていなかった。

運営の人に「連絡はできないのか」と言われた。
私は携帯電話を持っていなくて、Bは持っていて(確かPHSだった)、でも公衆電話からかけるのか?みたいなことになってかけなかったんだと思う。

そのまま表彰式は始まっちゃったけど、女子団体戦の表彰は最後なので、自分たちが受け取る分には間に合ったはず。

(私がもらったほうの表彰状。団体戦の表彰状や盾はBOXに置いてきたが、今はどうなっているのやら)

女子団体戦は準決勝で敗れた相手が優勝したので、Bが「反則勝ちって言って決勝に行ってたら優勝してたかもしれへんやん」とぶーぶー言ってた。

そうなったら私も決勝で勝てたかもしれないなとひそかに思ったが、それは黙っていた。

夕方に徳島から京都に高速バスで戻り、解散となりました。

* * * * * * * * * * * *

実話なので特にオチはない。教訓もない。

卒業後はBもCも将棋は指していない。美濃囲いは覚えているそうだ。
Aはなぜか職場の将棋部に出入りしてたまに指していたが(その将棋部に行ったことがある)、相変わらず王手飛車取りで飛車を逃げていたに違いない。
当時高校1年生だったEは2年と3年のときに女子個人戦で全国大会に出たが、王手飛車取りをかけられてこちらはうっかり飛車を逃げてしまい、玉を取られたそうだ。

M高校の2人のうち、弱かったほうの子は大学でも将棋を続け、何度か対戦した。そんなに勝ててなかったけど4年間楽しく続けたみたい。

将棋部はその後、予算200円を使わずに学園祭を終えた。
卒業後の4月には顧問が代わり、囲碁部がないのに囲碁が強い生徒が入学し、名称が「将棋囲碁部」に変わった。
普通は「囲碁将棋部」だが、新顧問が「将棋部が先にあったから」と言って「将棋」を先にしたらしい。高校ホームページによれば、20年後のいまも名称はそのままだ。

11月に学園祭があり、12月初めには期末試験があり、月末には大学のどの学部・学科に推薦されるかが決まった。
1月に形ばかりの大学の面接があり、学年末試験があって、2月・3月は授業がなく、3年生向けに「パワーアップセミナー」という各分野で活躍している高校OBの講演会や社会見学が開かれ、できるだけ参加した。
その期間に暇だからとタグ打ちを勉強してホームページを作ったのが後に棋士との交流につながり、現在の仕事をするきっかけになっている。

大学の面接試験のときには履歴書のような書類を提出した。
部活の成績は書いていいので将棋大会の結果を全部書いて、清書する担任が困っていた。
バレエ女子のBはバレエの実績もあって欄に書ききれず、「清書のときに担任(別のクラス)が『優勝』を優先したから近畿大会が削られた!」とまた怒ってた。

私は将棋の実績があるからか卒業式でクラス代表に選ばれ(押しつけられ)、袴を履いたら落武者になって凹みつつ卒業式に出席したが、同じクラスの男子が白いタキシードに白いシルクハットで現れ、注目がそちらに集まったので凌いだ。
浮いていたはずなのに、集合写真は落武者が最前列の真ん中にいる。

20年前のことで、表彰状と全国大会結果が載った将棋年鑑しか資料がなく、記憶に頼っているので事実と異なる部分があるかもしれない。そのあたりはご了承ください。

長らくお読みいただきましてありがとうございました。

おしまい。もう続かないよ。

【完全版限定追記】2022年に再会したアレ

(5)で紹介した、2021年1月に京都新聞の将棋欄観戦記に対局者として私が登場した話の後日談。

この観戦記を読んだ、当時D中学校に通い、将棋部がないのに将棋をしているという女子生徒から突然メールが来た。
(私はウェブ上にメールアドレスを公開している)

その後、彼女はD高校に進学し、「将棋囲碁部」に入部。
2022年6月に彼女から誘われ、初めて将棋囲碁部の指導に行った。
私の卒業から6年後に小学校新設、10年後に中学校の移転(統合)という大改修があり、あのBOXはもう存在しない。それどころか9割方建物が建て替わっている。当日は正門(それすら場所が変わっていた)に迎えに来てもらった。

(ここまで「D中」「D高」と伏せていた意味は?)

活動場所はある教室で、棋具を片づけにめちゃきれいなBOXに行くと。

なんと。
あの「不思議な投了図」のときの優勝盾が!

BOXの移転時に捨てられていてもおかしくなかったのに、(扱いがぞんざいではあるが)とりあえず置いといてくれたのはとてもうれしい。

高校を卒業したときを思うと私もまさか、将棋部(将棋囲碁部)の指導で戻ってくるとは思わなかった。
あのときと同じようにお友達の女子3人で団体戦のチームを組んで全国大会に出ようとしているということだった。(京都府予選で負けたらしい…)
この盾の存在が将来の後輩たちが「女子3人が集まれば団体戦に出られる」ことに気づくきっかけになってくれれば幸いである。

(完)

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