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読書感想文「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」

たまには「読書感想文」を書いてみよう。

そもそも子供の頃の俺は国語の成績が悪かった。その代わり算数・理科が得意な、まさに理系の少年だった。その得意な理系を武器に、国立大学の工学部電気電子工学科なんてところに一発合格するまで行った。大学は千葉大学。確かその頃の日本の中でもトップ8に入るぐらいのところだったと覚えている(今はどうか知らないが)。ところが月日は30年以上過ぎて、すっかり読書中年になっている。全くあの頃の理系の記憶がない。どうやってあの、x,y,zどころかθ(シータ)とかγ(ガンマ)とか出てくるよく分からない式を解いていたのか?あれを解いていたのは同じ俺なのか今となっては自信がない。人間って変わるものなんだなと我ながら思う。

ただ一方で、数学的すなわち論理的な考え方が俺の血になっている自覚はある。ミュージシャンとして、ややこしい要望のアレンジ・編曲仕事をする時、関係者多数のイベントを企画する時などは、きっと俺のその「理系的」な頭脳というか血が役立っている気がする。ある種の人には「SWING-Oは理屈っぽい」と言われるのもそんな理由だろう。

そして読書中年はこれまでも、これからも読書感想文を書いていく訳だけど、書いている時にこそ、俺の下地はやはり「理系」であって、「文系」でないことを実感したりもする。素敵な文章を書ける人は、文章を書く基礎体力が違うなと思う。俺はどうしても推敲して推敲してやっと辻褄が合ってるような文章になる。実際これまでも例えば

「本当は〜〜〜な状況で〜〜することが本当は大切なのだ」

などと同じ形容詞・形容動詞を二度記してしまったりしがちだったりして、いや今記しているこの文章の中にもその様な、基礎体力がないであろう文章があると思う。

それは致し方ないことだと思う。基礎体力がない人は、復習で、推敲でなんとかクリアするしかない。その点やはり本業、ピアノは幸い俺には基礎体力がある。のらりくらりとは言え、幼少期から高校生までピアノを習ったことが、俺が指を手を動かす基礎となっているおかげで、ピアノを弾く時は応用だけを気にしていればいい。基礎をその都度確認しないと書き進められないのと、勢いで書ききれない時点で、俺の文章の基礎体力は低いんだなという自覚がある。基礎体力が低い自覚があるけれど書きたい欲求はある。なので書く。そんな文章があってもいいと思う。

その、文章における基礎体力が素晴らしくある方だなと俺が思っているのが内田樹氏であったり、内田樹氏も敬愛する村上春樹だ。今確認すると両氏とも既に70歳を超えているのか。2023年3月の時点で村上春樹74歳、内田樹72歳。おおよそ団塊の世代と呼ばれる人たち。政治家もそこらへんの世代が多いんだが、文章力と哲学の緩さは一体どういうことなんだろうと思う。日本をダメにした人も日本を面白くしている人も同じ世代という事実は、今後また色々と研究や分析の対象になっていく気がする。

ああ長い前置きだ。こんなのを読書感想文と言っていいんだろうか?先生は点数をくれるんだろうか?昔と比べて絶対的に読解力は高くなったと自負しているが、国語の先生的にはこういう文章はどう評価するんだろうか?

「脱線が多すぎます」
「遠回りしすぎて言いたいことがよくわかりません」

などとやはり低い点数しかいただけないのだろうか?

あ、早く本題に入りなさい、ですね?はい、今回読書感想文を記すのはこの本です。

「一人称単数」村上春樹著
(単行本は2020年、文庫本は2023年)

村上春樹、俺がどうこう言わなくても「ハルキスト」と呼ばれるファンが、それも世界中にいらっしゃる訳で、わざわざ記す必要はないかもしれない。既に文庫化されたこの短編集はベストセラーになっているし、実際うちの近所の小さな本屋でも平積みされている。誰もが知るヒットメーカー的な小説家、村上春樹。

他の「出せば売れる」小説家たちの作品は、時折俺も社会勉強がてら読むんだけれど(実名はあげないでおきますが)、どうしても「映画原作感」「ドラマ原作感」が強すぎて、村上春樹以上に好きになれる人があまりいない。例えるなら他のヒット作家はJ-POP。よく出来てるし、次が気になるし、一気に読了しちゃうし、涙が止まらなかったりもするし、、、でもそれは俺の好みじゃない。ある種のアミューズメントパークと思えばもちろんありなんだけれど、俺にとって好きな文章〜小説というのは

「もっとゆっくりと読みたい」
「その世界に浸りたい」
「俺の身体に流し込みたい〜血に入れたい」

そう思えるもの。つまり、影響を受けたいってことかな。スクリーンの向こうじゃなくて、まるで俺のことを知っていて書かれた話のような、アミューズメントだとしても気づけば俺自身がその中に入っちゃったかのように錯覚させられる話が好きなんだ。それは理系出身の俺が、遅ればせながら追いつけ追い越せと読んできた本のお陰で気づけたこと。

ああまた脱線しかかりましたが、俺の好きな作家の村上春樹ですが、短編はあまり好きじゃない傾向にはあって、まぁでもいざ読むと悪くないものもあったりする、という塩梅ですが、この短編集「一人称単数」は好きなものが二つありました。それもおいおい俺の記憶に残りそうなものが。それが

「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
「品川猿の告白」

でした

ハルキスト的にはきっと「ヤクルトスワローズ詩集」とかが話題な気がするけれどね。なにせ主人公の名は村上春樹という形で記されているし、実話なのかなんなのかと議論のタネになりそうな設定だったからね。タイトル作「一人称単数」も、村上春樹といえば「僕」なところを「私」で記されている時点で話題になりそう。

でも個人的にはそういう作品、ある種のプライベート実験作なものよりは、まず前者「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」だね。歴史の教科書的にはチャーリーパーカーのキャリアはまとめられているので、そんな作品は存在しないし、し得ないんだけど、

「もしそんな作品が残されるような歴史だったとしたら?」

という妄想、その妄想が素敵すぎます。どうしてもwiki的な歴史書は答えが一つにされがちで、事件や作品しかその手の歴史書には記されないんだけど、その「もし」を考えることは内田樹氏もよく言われているように大事な知的活動、知性だと俺も思う。

例えば「何故日本はこうなったのか?」などをよく議題にされがちな昨今だけど、そんな時にこそ「もし日本が戦争をもう半年早めに止めていて原爆が落とされなかったらどうなっていたか?」などを想像することはすごく大事だと。そんな政治的な話じゃ小説ではなくなってしまうので、ジャズ好きな著者村上春樹なりのメタファーで書かれた短編に俺は感じました。

「品川猿の告白」はもう、ザ・村上春樹ですね。突拍子もない設定。猿が言葉を話す、なんて「どんな昔話だよ!」と突っ込む人も多いかもしれないけど、「いやでもそんなことも、個人的経験ならばあるかもしれないな」と思わされるストーリーテラーぶりは流石でした。ある種の「俺よくUFO見るんだけど」って話を「突拍子もない」と笑うのか、「いやそういうこともあるかもしれない」と受け止めるかの違いとでも言うか。

どの短編にも言えるけど、いや村上春樹の過去のどの小説にも言えることだけど、今目の前に不可解なことが起きた時に「僕」はどう対応していったか?みたいな物語が多い。どうしてもポップな資本主義社会だとシンプルにマルかバツか?白か黒か?犯人は誰だ?動機は?に着地させがち。でも目の前で起きることをどう受け止めるべきかと言うのは個人個人バラバラでもいいはずだし、なんなら今足りないのはその、

「不可解な事実を不可解なままで受け止める許容力」

そんなメッセージをそこはかとなく伝えてくるから好きなのかもしれない。

こんな感想文ですが、先生、大丈夫でしょうか?

*****

あ、BGMは村上春樹も本を記すぐらいなので、大好きであろうThelonious Monkでした。

具体的に言うとThelonious Monk Trioの1956年作、そうです、Prestigeから出てる、Art Blakeyがdrumsの盤です。B1の"Little Rootie Tootie"が好きなんですよ。


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