見出し画像

経歴(生い立ち)


カメラマンにたどり着くまでの生い立ちと経歴は人それぞれ。ここでは私の生い立ちと経歴について書きたいと思う。こんな経歴の人がどんなカメラマンになったかを見るとまた面白いかもしれない。


生まれた年は1974年、今年で50歳になる。
物心ついた頃から両親は非常に仲が悪く、いつも父は怒鳴り、母は怯えて生活をしていた。

私は出来の悪い子どもで、弟は小学生になる頃から体格の良さからサッカーで活躍し、両親は弟の送迎で忙しく、私はないがしろにされていると感じて生きていた。

親の金銭的な問題もあったかもしれないが、私には「お小遣い」という制度が無かったので小学2年生から新聞配達のアルバイトを始めた。1年365日(休刊日が年に2回ほどあったが)毎日配って1件あたり1日2円、1ヶ月1件60円、それを1日120件配達し、月に7,200円の給料を得ていた。これが社会人のはじまり。8歳で社会人生活が始まるというのは1980年代初頭の当時では珍しかったかもしれない。ここで

8歳で働いてお金を稼ぐ

ということを知る。

働き出した頃は配達する家を覚えるのに必死で、地図を見ながら配達を終えるのに2時間くらいかかっていたが、すぐに慣れて地図も見ずに1時間もあれば配り終えることができるようになる。覚えてしまうと新聞配達をしている時間は無になるが、小さな子どもが自転車のカゴに新聞を大量に詰めて配達をしているものだから時々優しく声を掛けてくれる大人が居たり、おやつをくれる大人が居たりする。ただ、こうしイレギュラーがあると無で配っている時間だから別の出来事、会話、感情のせいで年に1件~2件くらい配達漏れをしてしまう。

配達漏れをしてしまうと新聞を持って謝りに行く。たいていの大人は小さな子どもが頭を下げてあやまると「良いのよ次から気をつけてね」と優しい言葉を掛けてくれるが、中には「新聞を読むのが遅れた分の金を返せ!」などと暴言を吐く大人も居る。そんな時、小さな子どもが涙を流しながら土下座をすると、さすがの大人も「もうええわ!次から気をつけろよ」と、ほぼ許してくれる。

こうして小さな子どもは号泣しつつも

9歳で頭を下げて謝れば大抵の人間は諦めて許す

ということを覚える。

中学に入ると同時に両親は別居を始める。父が出ていき、毎日怒鳴り散らした声で溢れていた家に平穏が訪れた。

中学生活では部活に励むと同時に高校生と偽って皿洗いのバイトで生活費を稼いでいた。自分で稼いで自分のために使うということが8歳から始めた新聞配達から15歳の時点ですでに7年の間で築き上げられていた。大卒社会人で7年目なら29歳の年齢になる。

高校に入ると正々堂々と働くことができるようになる、レストランと喫茶店、花屋と配送センターの4つ掛け持ちで、当時時給500円ほどで毎月15万円ほどの手取り収入を稼いでいた。もはや学生社会人で

15歳で頑張ったら頑張っただけ稼げる

ということを知る。頑張らなかった稼げないという事はここで身を持って感じた時期。

高校卒業後、本当は行きたい学校があったが、親から学費に出す金も家に置いて置く生活費も無い、むしろ寮がある会社に就職して早く出て行ってくれと言われていたので、大阪の寮のあるホテル(新阪急ホテル大阪※当時)に就職することに。アルバイトで15万円も稼げたんだから正社員になったらもっと稼げるんだろうと思って就職したが、新社会人2ヶ月目、5月の給与総額は15万円以上あるのに手取りは12万円だった。アルバイト時代は雇用保険だけだったのだ。ここで

18歳でこの国の社会保障と税金というものを知る

ことになる。朝から晩まで毎日働いているのに学生時代より手取りの給料が下がるとはどういうことなのか理解が追いつかないまま夏のボーナスというものを受け取ったがそれが30万円ほどあり、この社会には働いた対価とは別に働いた労働賃金を溜め込まれて年に2回喜ばせようとする

賞与という制度がある

ことを18歳で知り驚愕する。小学生の頃から頑張ったら頑張っただけ稼げると思っていたものが社会人ではそうではなく社会保障や賞与、厚生年金やヘタをすれば退職金まで自分で稼いだお金から天引きされた分しか毎月受け取れないのが嫌になり、このホテルは1年で辞めた。ホテル勤務は大変楽しく先輩にも恵まれ、ホテルで経験をつめたことは今でも宝だ。

社会の仕組みを知ってしまった以上、最低でも毎月自分が欲しいと思えるだけの手取りを受け取れる会社が無いか探していると、滋賀県守山市につがやま荘(現在は廃館)というホテルが求人を出していた。履歴書を持って面接へ行くと、当時の副支配人が履歴書を見てぜひうちで働いて欲しいと即断を頂いて働く事に。後から聞いた話しで、履歴書に15歳から5年間飲食業でアルバイトや正社員で働いていた事、当時そのホテルには飲食業経験をした従業員が居なかった(驚愕)事、勤務していた人の年齢で一番若い先輩が32歳で、年齢が19歳と若い私は非常に今すぐ欲しい人材として見えたということでの採用だったらしい。そして小さい頃から鍛え上げられてきた「ニコニコしてれば相手は機嫌が良い」を苦もなく実践できるようにもなっていたのも大きい。

このホテルでは7年勤務したが、大規模ホテルは宿泊、宴会&婚礼、レストラン(料飲部)、事務方と大きく部門が分かれるのに対し、小規模ホテルだったこともあり、全ての部門を日常的にこなしていたので、ホテル業の全般について非常に多くの経験を詰めて有意義な時間を過ごすことができた。

色々な事が経験できたこともあり長く勤める事ができたが、同時にいつまで経っても年に数千円しか昇給しない未来に失望し苛立ちを感じて

22歳で給料制度の天井に泣きを見る

ことになる。

この頃は21時に仕事が終わることが多かったので、職場から近い当時26時まで営業をしていたステーキ&ステーキというレストランの厨房で22から朝の4時までのアルバイトと、当時はまだ目新しかったセブンイレブンで22時~26時ないし朝6時までのアルバイトを掛け持ちでしていたので、ホテルで手取り17万円ほど、バイトで8万円ほど、25万円ほどで毎月こなしていたがもっと遊びたくてお金が欲しかった。

そんな折、ホテル時代の先輩で退職働いていた近江バスの話しを聞く。久しぶりに先輩に会うと給料が良く楽だという話しを聞いて、大型二種免許を取得してバスの運転手になる事にする。これが実際には大変な仕事であった。

2種免許を取得するということは「旅客運送業」の運転手ということになる。普段の私用の運転は事故を起こすと対人か対物、いわゆる自分と自分の車以外のところで損害を与えたことに対しての責任を取らなければならないが、「旅客運送業」になると、車内での事故も責任を取らないといけなくなる。たとえば急ブレーキを踏んで乗客が転んで怪我をしたら人身事故になる。これはどれだけ気をつけて運転していても、ブレーキを踏めばふらつく人はふらつくし、大きなバスを運転し、次のバス停を確認し、交通状況を確認して車内事故防止のためのいつ誰が転ぶかもしれない状態でも安全に運行をしなければならないというプレッシャーと日々戦うと同時に、それよりもさらにメンタルがきつく感じたのが、乗客とのコミュニケーションだった。

長らく飲食業で働いていたから、お客様に対してはいらっしゃいませ、かしこまりました、おまたせしました、ありがとうございました、と、なんらかの言葉をかけ、満足してくれたお客様は「ありがとう」と返してくれるのが当たり前の生活を送っていたが、バスというものは交通機関であり乗客に取っては単なる移動手段であり、なんなら朝晩のラッシュに揉まれるもっとも楽しくない時間だから、軒並み乗客時は皆不機嫌だ。今までの癖で乗客が降車をする際にありがとうございました、お気をつけくださいなどの言葉をかけても、元々サービスなど求められない場面だから誰も言葉を返してくれない。ひど言い方をすれば無視されている状況。ひいてはバス事務所で出発帰着の際の伝達では「車両心身異常なし」という言葉を言う。人間としての扱いではなく、あくまで

バスの運転手という機会的な役割に徹しないといけない


のが一番つらかった。人と関わって感情が見える時間が楽しいと感じていたのにそれを割り切って安全運行に徹する職業とわかり、退職という道を半年で選ぶ。ただ、給料は確かに今までよりも良かった、当時手取りで35万円ほどは受け取っていたと思う、ただしこれも裏がある。運転手の一日の勤務は、出勤→車両点検→出庫点呼→始発へ移動~終点→帰社→洗車→帰社点呼→退勤。となるが、勤務時間として始まるのは始発へ到着した時間からになる。出勤してから始発へ行くまでに軽く1時間以上、帰ってからも含めると2時間は勤務外の業務があり、始発へ着いてから終点までが勤務時間になるかと言えばそれも違う、たとえば

6時始発→6時40分終点(40分勤務)→次の始発へ移動→7時始発→7時30分終点(30分勤務)

この場合6時~7時半まで1時間半あるが、勤務時間として計上されるのは実際に運行した70分のみになり、20分の移動時間は勤務時間に含まれない。下手をすると10時終点から次の始発が11時半なんてこともざらにあるので、待機時間も含めた勤務時間は一日短くて12時間、長いと朝の4時から夜の24時まで、なんてこともあったりする。

むちゃくちゃだ。休みがあっても次の日はまた朝4時出勤なので、休みの日も夜の19時には寝ないと次の日の仕事に響くので休みは文字通り体を休める日になってしまう。こんな日々ではバスに人生を捧げる事になってしまう。

大きくこの2点が耐えられずバスの運転手を諦めた。一念発起、今までやってきたことのない業種に足を踏み込んでみたが理想と現実の大きなギャップに

25歳で人生の道を見失う

ことになってしまう。ここからもがき苦しんだ。バスの運転手を退職したあとはしばらく放心状態だったが、働かないと食べていけないのでレンタルビデオの店員を少しした、ここで勉強になったのはただひとつ、レンタルビデオの女性店員さんは、男性がアダルトビデオをレンタルしても

全く動じないむしろ無関心

という事。そりゃそうだ、毎日毎日男性がAVを借りていっているのを対応していたらそれが日常になる、人は慣れるものだと勉強になったが、いつまでもバイト生活をしているわけにもいかない。ただ何をすれば良いのかもわからない。ここで資格社会であるこの世だから大学でも行ってなにか資格を取ろうと、当時あった社会人AO入試という制度を使って立命館大学を受験する事に決める。学校へ行くとなるとお金も必要になるから、より時給の高かった日通のペリカン便で宅配とトラックドライバ-に職を変えて、受験に備えた。そして人生の一大転機である事態が起こり、カメラマンの道を進むことになる。

これがおよそ撮影事業として独立するまでの生い立ちから経歴の歴史。撮影事業を始めたあとも食えない時代が5年間あったので、その間にも小学校や中学で臨時講師をしたりNTTで働いたりもしたが、この続きはまたいつかの機会ということで、カメラマンとして独立するまでにこのような歴史の流れで私という人格が確立されていったということの紹介とさせて頂きます。


この記事が参加している募集

仕事について話そう

転職体験記

お金について考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?