ブログやSNSは承認欲求ではなく、柱の傷
「秘めて綴るのが日記」は今や昔
人はいつから、人前で日記を晒すようになったのだろう。
一昔前。日記は秘めたる思いを綴るものだった。
誰に見せるわけでもない。自分の心のうちを整えるために、届かぬ思いを届いて欲しいと願って、こっそり書くものだった。
たとえ親でも子供の日記を見るなんてご法度。鍵付きの日記帳なんてのもあったくらいだ。
日記は他人に見られたら恥ずかしいものだったんだ。
僕がブログで日記をさらすのは「柱の傷」をつけるため
それが今はどうだ。
ブログ(ウェブログ)。多くの人が自分の日常の些末な出来事を、誰でものぞけるウェブ上にログとして残している。自分の行動履歴を、心の動きをさらしている。
情報性のかけらもない。誰の役に立つわけでもない。そんな独り言を垂れ流している。SNSの手軽さがこの動きを加速させている。
まぁ、かくいう僕もそのひとりなわけだけれども…。
何のためにブログを書いているんだろうね。承認欲求を満たしたいから?
僕はちょっと違う気がしている。
うまく言えないけれど、「柱の傷」みたいなもんだと思っている。
「今の自分はこの程度だ」とウェブ上に傷をつける。自分でこっそり書くだけだと反省しないから、「自分はこの程度しかできませんでした」と、ウェブ上で公開して恥をさらす。
こうなるともう「自傷行為」だね(苦笑)
ただ、そうすることで、自分の成長の程度を確認している。それで少しでも自分の行動を促せればいいと思って続けているのかもしれない。
思えば弁理士試験も「柱の傷」だった
ブログとは違うけれども、弁理士試験もそうだった。
僕は準備が進んでいなかろうが、実力が合格に達していなかろうが、毎年試験は受けた。自分がいかに努力を怠ったかを戒めるために。自分で自分に傷をつけた。
そんなことは無駄だという人もいると思う。
でもね。試験を受けて、落ちてみなければその痛みはわからないんじゃないの?
事務所勤務時代に、僕の下についていた若い子が「今年は絶対合格しますから!」と自信満々に言った。試験前に一週間も休みをとった。
で、休み明け、「どうだった?」と聞いたら、「頭が痛くて試験を受けに行きませんでした」だって(呆)
彼は逃げたんだ。自分に「試験に落ちた」という傷を付けたくなかったんだと思う。
「落ちたんじゃなくて、受けなかった」。そんな言い訳をするために貴重な機会を棒に振ってしまったんだとしたら。
僕よりずっと地頭の良い子だったけど、結局、試験には受からずこの業界を去ってしまった。
すごくもったいないことをしたね。
ブログ「ヤマダのトピッククラスター」更新のお知らせ
こういう箸にも棒にもかからないような一人語りをして、何を言いたかったのか?というと、今月もダメな自分を皆さんにさらすために、ウェブに傷をつけるためにブログを更新しましたよ、と。
それを伝えるためだけに、長い長いリード文を書きましたよ、と。
そういうことです(笑)
毎月月初恒例、先月の情報発信の振り返りです。
ヘッドラインは、
です。
ヤマダのブログコラージュ。2024年6月の情報発信ダイジェスト
https://yamadatatsuya.com/archives/9816